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主日礼拝説教「この道に従って行こう」

日本基督教団藤沢教会 2008629

14 あなたの杖をもって
  御自分の民を牧してください
  あなたの嗣業である羊の群れを。
   彼らが豊かな牧場の森に
    ただひとり守られて住み
  
遠い昔のように、バシャンとギレアドで
    草をはむことができるように。
15 お前がエジプトの地を出たときのように
  彼らに驚くべき業をわたしは示す。
16 諸国の民は、どんな力を持っていても
  それを見て、恥じる。
   彼らは口に手を当てて黙し、
  耳は聞く力を失う。
17 彼らは蛇のように
  地を這うもののように塵をなめ
  身を震わせながら砦を出て

  我らの神、主の御前におののき
  あなたを畏れ敬うであろう。
18 あなたのような神がほかにあろうか
  咎を除き、罪を赦される神が。
  神は御自分の嗣業の民の残りの者に
  いつまでも怒りを保たれることはない
   神は慈しみを喜ばれるゆえに。
19 主は再び我らを憐れみ
  我らの咎を抑え
  すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
20 どうか、ヤコブにまことを
  アブラハムに慈しみを示してください
   その昔、我らの父祖にお誓いになったように。
                
(ミカ書 71420節)

10総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。11確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。12神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。13そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。14しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。15更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。16こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。17さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。18私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。19ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。20さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。21彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」
                        (使徒言行録 241021節)


世に向けて!

初代教会の時代からおよそ300年間、ローマ帝国内に広がりを見せていたキリスト教会は、常に、国家から、また社会から、厳しい目で見られ、事実迫害の対象とされ続けていました。その時代に、教会では、「証言」という語が「殉教」を意味するようになったと言います。キリスト者としての信仰を人々の前で証言することが即、殉教を意味したからです。けれども、多くのキリスト者たちは、自分の信仰を証言することを恐れなかったとも伝えられています。むしろ、信仰を証言することによって殉教することを、十字架に架けられて死なれたキリストの死に連なることとして、大いに喜んだとさえいうのです。

そのような殉教者たちの系譜は、使徒言行録に伝えられる初代教会のキリスト者たちに遡ります。幾人もの指導的な弟子たちが、迫害の末に殉教したと伝えられているのです。その中の一人、パウロは、エルサレムで捕らえられて裁判を受けるためにローマへ移送され、その後、伝承によればローマ皇帝ネロの時代の大迫害で殉教しました。パウロもまた、多くの殉教者たちと同様、自らの信じるキリスト信仰を公に言い表し、恐れず証言し続けた一人であったのです。

 

「この道」の告白

今日、私たちが御言葉として聴いている箇所には、当時、ユダヤ地方を統治するために任に就いていた地方総督フェリクスの前で、ユダヤ人たちの訴えに対して弁明する機会を与えられたパウロの答弁の言葉が、伝えられています。ここで、パウロは、訴えに対して簡単に弁明したのに続いて、こう言葉を続けています。

「しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」(14~16)

これは、パウロの、ローマの総督という世の権力者を前にした、信仰の告白であると、私たちは言ってもよいと思います。「はっきり申し上げます」と訳されている言葉は、別のところでは「公に言い表す」とか「告白する」と訳される言葉で、古代教会では信仰の告白をする場合に用いられるようになった言葉です。ですから、パウロは、ここで、世の権力者を前にして、いやこの世に対して、ひとつの信仰告白、信仰の表明をおこなっている、と使徒言行録は物語っているわけです。そこで言われていることは、どうことでしょうか。

まずそれは、ユダヤ人から分派と呼ばれている一つの道に従っている、ということです。少し前の箇所に、ユダヤ人がパウロのことを「ナザレ人の分派の主謀者(24:5)と呼んでいるところがあります。最初のキリスト者たちは、ユダヤ人たちの間で「ナザレ派」と呼ばれていたのです。恐らくそれは、主イエスがナザレ出身で、弟子たちがそのナザレ出身の主イエスをキリストと呼んでいた、そのことが他のユダヤ教から見て異質であったので、「ナザレ派」と呼ばれていたのでしょう。けれども、「分派」と呼ばれていますが、それは、必ずしもいわゆる「異端」のことではありません。あのサドカイ派も一つの分派と呼ばれ、ファリサイ派も一つの分派と呼ばれていました。他にも、ヘロデ派とかエッセネ派というのも分派でした。そのようなユダヤ教の中で、新しく生まれてきた分派と見られていたのが「ナザレ派」、すなわち、キリスト者たちの教会だったのです。

パウロは、そのような見方をされていることを認めた上で、自分は「一つの道」に従っている者なのだと、告白しています。ところが、「ナザレ派と呼ばれる道に従っている」と表明しているパウロは、しかし、ここで、自分たちは何も新しい宗教を行っているのではない、というのです。ユダヤ人の先祖の神を礼拝し、また、ユダヤ人が神の言葉として聴く律法に即したことと預言者の書に書いてあること、すなわち旧約聖書を、ことごとく信じている。しかも、復活希望を、神に対して抱いているが、それは、ユダヤ人が皆と言うわけではないにしても少なくともファリサイ派の人々が抱いているのと同じ希望なのだ。ただ、それらのことを、この道に従っておこなっているのですと、パウロは表明しているのです。

このことを少し批判的に見るならば、パウロは、このとき世の権力者を前にして答弁しているのですから、このような言い方をするのは、キリスト者の教会がいかがわしい新興宗教とみなされないようにするためであったと、そのように言うこともできるかもしれません。確かに、パウロは、ある書簡では、キリスト教会の中に入り込んでくるある種のユダヤ主義を批判して、それと徹底的に戦ってもいます。けれども、新約聖書を詳しく調べてみても、パウロの時代にキリスト教会がはっきりとユダヤ教と縁を切って新しい宗教を始めようとしていたというような事実は見あたりません。そのような事態は、ずっと後の時代のことです。むしろ、パウロも他の使徒たちも、自分たちの信仰の根が旧約聖書にあること、旧約の民すなわちイスラエルにあることを、繰り返し確かめています。

それでは、パウロはここで、自分は従来のユダヤ教の信者に過ぎないと言っているのでしょうか。もちろん、そうではないのです。パウロにとっては、またナザレ派と呼ばれたキリスト者たちにとっては、ただ一点、この道に従って一切を行うという点で譲れないものがあり、それゆえにこそ、従来の宗教に生きるユダヤ人たちから新しい分派、しかも追放されるべき分派とみなされていったのです。

それほどに決定的な「この道」を、私たち現代のキリスト教会は、今に受け継いでいるのだということを、もっとはっきりと自覚し、証言し、表明するべきかもしれません。それは、ただ単にユダヤ教とキリスト教が区別されるためのしるしに過ぎないわけではないのです。この道に従うことこそが、今日の私たちにとっても、決定的に重要な信仰の中心、信仰の営みの中心であるからです。

 

主の道、神の道

それにしても、先ほどから「この道」と言うばかりで、それがどのような道なのかはっきりと語らないではないか、とおっしゃる方があるかもしれません。もちろん、このパウロの答弁の中でも「彼らが分派と呼んでいるこの道」と言われているのですから、それは、ナザレ派と呼ばれる道、ナザレのイエスを主キリストと信じる者たちの従っている道、ということです。しかし、それだけでは、この道がどのような道なのかをはっきり言ったことにはならないでしょう。

使徒言行録の中で、この道のことをもう少し具体的に、命に至る道(2:28)救いの道(16:17)主の道(18:25)神の道(18:26)などとしているところはあります。けれども繰り返し出てくるのは、この道と訳される、どこか曖昧な表現なのです。

しかしながら、この道という表現について、そのようなとらえ方しかできていないとしたら、それは、単にこの使徒言行録という物語、初代教会のキリスト者たちの物語、使徒ら、中でもパウロの物語を、きちんと物語として読んでいないだけのことであるかもしれません。この物語を始めから終わりまで読み進めて、物語として聞き耳を立ててゆくならば、この物語がこの道と表現していることの意味が、おのずと分かってくる。そういうことなのではないでしょうか。

この道。それは、初代教会のキリスト者たちが生きた道です。キリストの復活を信じた者の群れが教会として共に生きた道です。はじめ120人ほどであった弟子たちの集団に、悔い改めて主イエス・キリストの名による洗礼を受けた者たちが続々と加えられていって、そこで皆が聖霊の導きに従っていった道です。苦しみを受けられたキリストが死者の中から復活なさって、ユダヤ人にも異邦人にも新しい光、新しい命をもたらす道を拓いてくださったと信じて歩んだ道です。「わたしに従いなさい」と弟子たちを招かれ、従わせられた主イエス・キリストが歩まれた道だと信じて従い進んだ道です。

この道に、今日の私たちも従い、生きているのです。二千年前のキリスト者たちが生きたこの道の中に、私たちも生きている。この道に従って礼拝を守り、この道に従って聖書の御言葉を信じ、この道に従って、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いている。この道を、私たちは、信仰の先達から受け継いでいるのです。十二人の使徒たちが主イエスから受け継いだように、多くの初代教会の信仰者たちが使徒たちから受け継いだように、代々の教会に連なるキリスト者たちを通して、私たちは、この道を受け継いで、今も、この道に生きているのです。

この道を、今も生きておられる主キリストが整え、備えてくださっている。この道から外れずに歩む歩みを聖霊が導いてくださっている。私たちは、そのように信じて、この道を信仰の友と共に歩み続けるのです。この道に生き続けることを、この世にあって証しし続けるのです。それは幸いな道であると、信仰の先達が命を賭して証言してくれています。この道に加わることは幸いなことであると、私たちも、家族に、隣人に、すべての人々に、証しすることができますように。

 

祈り

主なる神。主の拓いてくださった命に至る道に、私どもを導き入れてください。この道に生きる幸いを味わい知り、証しする者とならせてください。アーメン