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主日礼拝説教「元気になるパン」 日本基督教団藤沢教会 2008年7月6日 1 ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造 2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通 3 わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い 4 わたしの目にあなたは価高く、貴く、 5 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの 6 北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止める 7 彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。 8 引き出せ、目があっても、見えぬ民を、耳があっても、聞こえぬ 9 国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このこ 10 わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と 11 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。 12 わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え、あなたたちに、 13 今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はな (イザヤ書 43章1〜13節) 33夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。34だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」35こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。36そこで、一同も元気づいて食事をした。37船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。38十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。39朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。40そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。41ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。42兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、43百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、44残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。 二百七十六人の同船者 今日、私たちが御言葉として聴いている使徒言行録27章の物語の中には、不思議な数字が記されています。 船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。(37節) パウロはこのとき、エルサレムで捕らえられて、ローマ総督の取り調べを受けた後に、ローマ皇帝の裁判を受けるために地中海を船で護送されていました。この船は、現代風に言えば貨客船であったのでしょう、船長・船員たちの他に、たくさんの積荷と乗船客を乗せていました。もっとも、その乗船客の中には、ローマに護送される囚人たちと、囚人たちを監視する百人隊長と兵士たちが含まれていました。パウロもまた、その囚人たちの一人に数えられ、恐らく限られた友人(ルカとアリスタルコ?)だけが同行することを許されていたのです。 そのローマ行きの船が暴風雨に見舞われて漂流し、難破しかけていたときの様子です。パウロは、二週間も続く暴風雨の中で絶望しかけていた同船者たちを励まして、彼らの前でパンを裂いて食べてみせ、皆に食事を勧めていました。そして、同船者たちが二週間ぶりに十分な食事を摂ったとき、まさにそのときに、その船には全部で二百七十六人が乗っていた、と語られているのです。 ただの歴史的な事実を記録した数字だ、と説明してしまえば、それでおしまいです。数学的な特徴(「276」は専門用語で「三角数」「六角数」「有心五角数」)があるといっても、マニアにしか関心を持ってもらえないでしょう。 私は、このような数字が記される中に、この使徒言行録の著者ルカの、読者である教会の人々へのメッセージが込められているのだと思うのです。ルカは、福音書と使徒言行録をテオフィロという人に献呈しています。テオフィロの属する教会の人々に読んでもらおうと、福音書と使徒言行録の上下二巻を著したのです。そのような具体的な読者を想定して二巻の書物を記してきたルカは、第二巻の終わり間際に描くこの出来事の中に、一つの具体的な教会の現実を結びつけて語ろうとしているのではないでしょうか。つまり、正確な数字かどうかは分かりませんが、ルカがこの二巻の書物を送ったテオフィロの教会の教会員数が、およそ276人程であった、そのことを知っていたルカが、この難船の出来事の描写の中に、その数字を乗船者の人数として記した、そういうことであったかもしれません。 古来、キリスト教世界では、教会を「船」にたとえてきました。聖書には、ノアの箱舟、ガリラヤ湖を渡る主イエスと弟子たちの小舟など、さまざまな航海の物語が記されていますが、そのようなさまざま船のイメージを「教会」に当てはめてきたのです。教会は、この世という荒海を航海し続ける一艘の船であり、主イエスに招かれてその船に同船する人々の群れである、というわけです。 全部で276人が同船していた船。暴風雨の中を漂い、難破の危機を辛うじて回避してきて、今、ひとりの伝道者の勧めに導かれて元気を回復しつつある、一つの船の同船者たち。この物語は、一つの航海物語を描きながら、私たちに、信仰者の教会の物語を語っているのです。 動じない ところで、このローマ行きの船に乗り込んでいた人々は、ほとんどキリスト者ではありませんでした。確実なのは、パウロ一行だけです。それ以外のほとんどすべての同船者たちは、キリスト者ではありませんでした。少なくとも、信仰者としてこの航海で起こってくる出来事に向き合おうとする者たちではありませんでした。そのような人々の乗り込んだ船が、にもかかわらず、ここではパウロら一行を乗せた船として、一つの教会の物語を指し示しているとするならば、ここで教会というものの枠組みは、私たちが普段考える以上に大きな広がりをもって考えられている、ということでありましょう。 私たちの教会を考えてみても、確かにその中心にいるのは、教職と洗礼を受けた信者教会員の皆さんです。けれども、その皆さんの周りには、他教会のメンバーの方や求道者として礼拝に続けて出席されている皆さんがいらっしゃる。教会学校の子どもたちがいる。あるいは、幼稚園の教職員や園児たち、その保護者の皆さんがいらっしゃる。皆さんの周りには、それぞれに幾人ものご家族方がいらっしゃる。そして、私たちの祈りにあっては、もっともっと大きな広がりの中に、私たちの教会の営みは位置づけられている。私たちは、教会の営みが、ただ教会員のものとしてではなくて、すべての藤沢市民にとっての、あるいは周辺の市町村市民にとっての祈りのセンターとしての営みであることを願っているのです。 そのような大きな営みの中に歩む私たちは、いつも、私たちの共に乗船する船の航海が、順調であるよりは嵐の中にあることを、おぼえずにはいられません。自分が平安な日々を歩んでいるとしても、私たちの属する団体としての教会は、嵐の中を漂流しているかもしれません。私たちの団体としての教会が順風満帆な日々を送っているとしても、教会の周囲に連なる人々は、嵐の中で絶望しているかもしれません。私たちの教会に連なる人々は皆、恵みのうちに祝福された日々を送っているとしても、私たちの生きる社会は、この国は、この世界は、座礁し、激しい波に痛めつけられて、もはや壊れかかっているかもしれません。 そのような中に歩む者であるからこそ、私たちは、パウロが暴風雨の中で、皆が絶望し、動揺し、疲れ切っているにもかかわらず、一人動ぜず、確信をもって神の守りを告げつづけていたことを、心に留めたいのです。 「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」 パウロは、自分一人、あるいは自分の仲間だけの救いを願ったのではありません。そのとき共に船に乗っていた全員、276人全員の生き延びることを、パウロは願って、それゆえにこそ、船に乗っている皆に、神の守りを告げないわけにはいかなかったのです。そのような祈りのうちに、共に航海を続ける人々に語りかけたパウロの信仰者としての歩み、その営みに、私たちもまた、歩みを揃え、営みを向け直してゆきたいと思うのです。 元気のもと このとき、パウロは、食事を摂るようにと勧めて、神の守りを確信として語り終えると、皆の前で、自らパンを手に取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めたと、ルカはここに伝えています。他の同船者たちが食事を摂ったのは、パウロがパンを食べたのを見た後でした。ルカは、注意深く、パウロの姿と同船者たちの様子を描き分けています。このパウロのパンを食べる様子は、「パン裂き」と呼ばれる礼拝の儀式、つまり聖餐式を指し示しているのです。 パウロは、このとき、同船者たちが注目する中で、いつも守っていた礼拝を始めました。パンを食べる礼拝、聖餐式を始めたのです。特別なことをしてみせたのではない。同船者の皆をその礼拝に参加させたわけでもありません。ただ、礼拝する自分たちの姿を、皆に見せたのです。いわば「公開礼拝」です。ところが、その「公開礼拝」を目の当たりにした人々は、元気づけられて、自分たちの必要な養いを得る食事を14日ぶりに摂った、というのです。 礼拝の営み、中でもキリストの御体をいただく聖餐の営みが、真実に行われ、人々に示されたならば、それまで絶望し、動揺し、疲れ切っていた人々をして、希望を回復させ、落ち着きを取り戻させ、力を回復させうる。なぜなら、私たちの礼拝は、それが真実におこなわれるとき、神の守り導きの内に生きる幸いを証しし、神のご計画の内に自分が置かれていることを確かめつつ生きる者の祝福を証しするものであるからです。その礼拝が、絶望し、動揺し、疲れ切っていた人々に希望と落ち着きと力とを得させることになるのは当然ではないでしょうか。キリストを信じて従うならば絶望しない人生、動揺しない日々、疲れ切ってしまわない営みを生き続けることができるのだと、私たちは礼拝で証ししているのです。 礼拝の中で祈られること。御言葉として聴き取られること。讃美としてささげられること。「受けるよりも与える方が幸いである」(使20:35)と教えられた主キリストのご自身をお与えくださったことを確かめる聖餐にあずかること。これらの営みを通して、私たち洗礼を受けた者は、何よりも力強く神の恵みのご計画を証しし、キリストに従って歩む幸いを示し続ける者として立ち続けたいのです。 絶望し、動揺し、疲れ切った者のような顔つきで、礼拝に集ってくることもあります。それでも私たちは、この礼拝が真実のものとされて、力強く神の恵みとご計画を証しすることになるよう願います。私たちがそれを為し得なくても、キリストが、私たちに代わって、そのことを為し得てくださると信じているのです。 今から主の聖餐にあずかります。主イエス・キリストこそが、私たちすべての者の《元気のもと》であると信じているからです。すべての人が、主イエス・キリストによって元気づけられ、希望と落ち着きと力とを得させていただく幸いのうちに歩む者となられますように、共に祈ります。 祈り 主なる神。私ども皆を一つの船に留まらせてください。主を礼拝し、主の食卓に着く私どもは、共に歩む中で恵みとご計画を隣人に証しいたします。アーメン |