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主日礼拝説教「愛に従って歩むには」
日本基督教団藤沢教会 2008年7月13日
8また主の言葉がエリヤに臨んだ。9「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」10彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。11彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。12彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」13エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。14なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。 13従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。14それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。15あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。16ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。17神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。18このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。19だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。20食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。21肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。22あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。23疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
愛に従って歩む
ローマの信徒への手紙14章後半は、12章から語り始められたキリスト者の新しい生き方についての教えの、最後の部分です。この手紙の、一つのクライマックスと言ってもよいところです。
パウロは、ここの教えで、キリスト者の生き方とは、愛に従って歩むことだと、教えています。いや、今日聴いている箇所では、パウロは、キリスト者としてふさわしい生き方をしていない姿をとらえて、「あなたはもはや愛に従って歩んでいません」(15節)と指摘しています。しかし、パウロがここで教えてきたことは、要するに、愛に従って歩むことがキリスト者の生き方だということです。
愛に従って歩む。主イエスの教えを学んできた者には、当たり前の教えのようにも思えます。「互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)、「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」(マタ22:37~39等より)。そのような主の教えを、わたしたちは皆、心に刻み込んでいます。けれども、わたしたちは、ここで、キリスト者の生き方を教えてきたパウロの祈りの思いを聴き取りたいと思うのです。というのは、パウロはここで、他では用いたことのない言い回しをしているからです。
「愛に従って歩む」。他の翻訳では、「愛によって歩む」(口語訳)とも訳されますが、「愛に向かって歩む」とも訳しうる言葉です。「愛には偽りがあってはならない」(12:9)、「兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい」(12:10)、「互いに愛し合うことの他は、だれにも借りがあってはなりません」(13:8)、「愛は隣人に悪をおこないません」(13:10)。そのように、キリスト者が愛に生き、愛の実践の中にあることを教え勧めてきたパウロが、しかし、現実には愛から遠いキリスト者の現実を悲しみながらも、最後に祈りを込めて言うのです。愛に生き得ていないわたしたちは、なお愛に向かって、愛を目標にして、一歩一歩、歩んでいく者なのだ、愛という目標を目指して、その途上を歩みつつある者なのだ、と。
互いに裁き合わない
この14章でパウロが語っていることを、わたしたちは、本当に何度でも聴き直さないといけないと思います。この章を、パウロは、深い悲しみに暮れながら書いたと思うのです。キリスト者として歩み始めていながら、愛に生きている、愛を実践していると、熱心に思って歩んできながら、実際には、なお、周囲の者を突き放し、悲しませ、心に痛手を負わせない日々はない、というような現実の中にいるキリスト者の一人ひとりを思い起こして、いや、自分自身のそのような姿をさえ思い起こして、パウロは、悲しみつつ、この章を書いたと思うのです。
パウロは、信仰に入る以前の人のことを語っているのではありません。すでに信仰に入り、信仰生活を重ねてきた人に向かって言うのです。なぜ、あなたたちはお互いを受け入れないのか。なぜ、人の考えを批判するのか。なぜ、食べ物のことで互いに軽蔑しあったり、裁き合ったりするのか。なぜ、信仰上のこだわりを持つ持たないで、互いに裁き合ったり、侮ったりするのか。皆、それぞれ、主の僕として、主に生かされ、主のために、そのように考えたり、生きたりしているのではないか。どうして、愛をもって互いに受け入れ合うことができないのか。
わたしたちも、思い当たるところがあるのです。礼拝のことで、教会生活のことで、わたしたちは、いろいろなこだわりを持っていることもあれば、自由に考えられる場合もある。具体的な事柄について、ある人は、形式や習慣を大切にしたいと言い、別の人は、中身や心の内面が大切だから形や外面にこだわるべきではないと言う。互いに意見が衝突し、相手の考えを正してやろうとして、水掛け論になることが、教会の会議の中でも少なくありません。そのとき、わたしたちは、どうするのか。この世の知恵では、意見が割れたときには多数決で決めるのです。多数意見を全体の決めごとにする。それで決着させるのです。たとえ自分の意見と違うことが決められても、その決定に従う。論争に負けたからです。そのようにするのが、この世の知恵です。そういったこの世の知恵を、教会に持ち込んできて、結論を出そうとする。決着させようとする。あるいは、衝突を恐れずに、何でも意見をぶつけ合って、対話を続けて、一つの考えを造り上げて行く努力をすべきなのだと考える。けれども、一体、そのような方法によって、教会は、本当に教会になるのでしょうか。キリストに従う者の群れ、神の家族になるのでしょうか。神に喜ばれる神の民になるのでしょうか。教会の中の意見や考えの対立に触れて、果てしなく続けられる論争に嫌気がさして、多くの信仰者が教会を離れていった過去があることを、わたしたちは、忘れてはならないのです。
パウロは言います。
従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。
愛に従って歩もう、愛を目標に定めて生きようと呼びかけるパウロが、わたしたちに教えるのは、ただ裁き合わないという消極的なことではありません。他人の考えを軽々しく批判しない、考えの違う人を軽蔑しない、軽んじない。そういったことを心がけることも、もちろん大切です。けれども、パウロは、さらに積極的に言うのです。あなたが信仰者として共に歩む教会の群れの仲間の前に、つまずきや妨げになるものを置かないように、仲間が心を痛めるようなことを自分がしないように、むしろそれを先んじて取り除けるように、心に決めて行動しなさい。もしも、肉を食べることやぶどう酒を飲むことを、信仰に基づいて避けるべきことだと考えている人がいるのなら、その人の前では、肉を食べないようにしよう、ぶどう酒を飲まないようにしよう、それが、わたしたちの愛に従った歩み方だ、愛を目標に定めた者の生き方だと、パウロは訴えるのです。
キリストはその兄弟のために死んでくださった
もしかすると、皆さんの中には、パウロの教えるように生きなければならないとしたら、わたしたちは、あれもしない、これもしない、周囲の人ともなるべく接触しない、という消極的な生き方に陥ってしまうのではないかと考える方があるかもしれません。けれども、私は、決してそうではないと思います。パウロは、そういうことを教えているのではない。むしろ、究極の積極的な選択を、わたしたちに求めている。だから、こう言うのです。
あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。
愛に従って歩むとき、愛を目標にして生きるとき、わたしたちは、仲間の一人を滅ぼすようなこと、失うようなことをしてはならない。なぜなら、キリストは、その一人のためにも死んでくださったから。そのように言うとき、パウロが考えていることは、こういうことではないでしょうか。わたしたちは、そのようなキリストに従い、キリストの愛を目標にして生きているのだから、むしろ、自分を捨て、自分を殺してでも、その一人が失われないための行動を起こせるようにと、祈り求めようではないか。それが、キリストに仕える人となることであり、神に喜ばれ、人々に信頼される生き方なのではないか。
キリストは、弟子たちに教え諭し、人々を慰め励まし、弱い人々に手を差し伸べてもくださいました。けれども、その主イエス・キリストの歩みのすべては、その兄弟のために死んでくださったということに土台があるのです。兄弟のために、仲間の一人のために、周囲の一人のために、自分を捨て、自分を殺す。しかし、それは、わたしたちの自分というものが無くなってしまうと言うことではないでしょう。キリストは一人のために死んでくださったというとき、その一人の者の傍らに、静かに、しかしいつまでも伴ってくださるようになったと言っているのです。わたしたちも、兄弟のために、仲間の一人のために、周囲の一人のために、自分を捨て、自分を殺して行くとき、その一人のもとから離れて行くのではなく、ただ静かに、その一人の妨げにならないようにして、その傍らに伴う者となるのではないでしょうか。そして、その一人の心の思い、喜びや悲しみ、苦しみや怒りを、その傍らで感じ取って行く者となって行くのではないでしょうか。
あなたは自分が抱いている確信(=信仰)を、神の御前で心の内に持っていなさいと、パウロは教えます。わたしたちの信仰に基づく思いや考えは、まず何よりも、独り神の御前で、神との一対一の関係の中で、表明すべきものです。そして、そのような神との関係を保たせていただく者であるからこそ、人に対しては、全くキリストの愛を目標にして、自分を捨てて行くことができるのでありましょう。
その愛の目標を、わたしたちは、いまだはるか遠くに望み見ているだけかもしれません。命を捨ててくださったキリストを目標にしていても、わたしたちは、いまだ自分のほんの一部しか捨てることができないでいる者かもしれません。それでも、わたしたちは、目標が愛であること、命を捨ててくださったキリストの愛にあることを、見失わない歩みを歩み続けたいと思うのです。その歩みを続けさせていただくためにこそ、わたしたちは、教会の群れに招き入れられているのです。キリストに結ばれる洗礼のしるしを、確かに与えられているのです。
祈り
主なる神。主の愛に従って歩ませてください。互いに裁き合う過ちを繰り返さず、主のように自分を捨てて静かに友の傍らに伴う者とならせてください。アーメン
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