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主日礼拝説教「キリストの記念として」

日本基督教団藤沢教会 2008720

1 知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。

2 獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え

3 はしためを町の高い所に遣わして、呼びかけさせた。

4 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言った。

5 「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい

6 浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために。」

7 不遜な者を諭しても侮られるだけだ。神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。

8 不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。

9 知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。神に従う人に知恵を与えれば、彼は説得力を増す。

10 主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。

11 わたしによって、あなたの命の日々も、その年月も増す。
                   
(箴言 9111節)


17次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。18まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。19あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。20それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。21なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。22あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。
23わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
27従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。28だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。29主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。30そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。31わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。32裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。33わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。34空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。
      
(コリントの信徒への手紙一 111734節)


教会の集まりが悪い結果を生む?

もともと仏教の法話として語られたようですが、広く知られるようになった「天国と地獄」などと題される説話があります。天国も地獄も同じようなご馳走の並べられた食卓が用意されたところで、人々はそれを食べることが許されているのだけれども、食べるために用いることができるのは、1メートルもあろうかという長いスプーンだけ。天国では、その長いスプーンを用いて、皆が互いの口に食べ物を運んであげているが、地獄では、それを用いて、皆が自分で食べようと必死になっている。だから、天国の食事は会話も弾んで和やかな雰囲気に包まれているが、地獄の食事は寒々しい雰囲気に覆われている。そういう説話です。

《食事》という営みは、ときに、長く忘れ得ない記憶として刻まれることのあるものです。だれでも、深い交わりの喜びに満たされた食事の記憶と、居場所のない疎外感にとらわれた食事の記憶との両方があるのではないでしょうか。《天国の食事》と言えるような経験と、《地獄の食事》としか思えなかった経験です。

教会の営みは、必ずしも、いつも食事と結びついているわけではありません。むしろ、わたしたちの教会などは、どちらかというと共に食事をする機会は少ない方でしょう。わたしたちの教会が、皆で食事を共にするのは、イースターとクリスマスの祝いの愛餐会、そして、ゲストがいらっしゃるなどの場合に催す昼食会が年に何回かあるだけです。日常的には集会や交わりが食事と結びつけておこなわれることは少ないのが現実です。それでも、年に二度の愛餐会は、最近洗礼を受けたり転入会された方を歓迎する機会として、大切にしています。誰かと親しくなるとか、誰かを自分たちの仲間として受け入れるというとき、食事を共にするということが特別に大切な意味を持っているということを知っているからです。誰かを食事に誘い、共に食卓を囲むということは、その人を自分の身内ほどにも近い者として受け入れることを表しているからです。

もちろん、その食事を《天国の食事》として整える思いがなければ、食事に招かれた人は、逆に拒絶されたという思いを与えられることもあるでしょう。あえてそのような意地悪をすることはないと思いますが、わたしたちは、うっかりすると、せっかく親しくなろうとして招いた食事なのに、準備と心がけが悪くて《地獄の食事》さながらのものにしてしまう失敗をすることもある。だからこそ、わたしたちは、誰かを初めて食事に招くというときには、本当に神経を使うし、簡単には招待できないと考える人も少なくないのだろうと思います。そうであれば、食事抜きの集まりや交わりであれば人間関係は簡単かと言えば、決してそういうわけではないでしょう。集会や交わりの中で食事をする機会が少なければ、お互いに疎外感を持たせてしまう失敗も少なくて済む、というわけにはいかないのです。むしろ、わたしたちは、たとえ集会や交わりの中でいろいろな人と互いに食事をする機会があまりないとしても、だからこそ、お互いに、特に今まで親しくしてこなかった人や新しく加わられた人との間で、食事にお誘いし、共に食卓を囲むときと同じような備えと覚悟をもって、相手を受け入れる態度と行動を示すことが必要なのではないでしょうか。

いつも《主の晩餐》を想起して

パウロは、コリントの教会に宛てて記した手紙の中で、こう忠告しています。

…あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。…(1718)

教会の集まりを、悪い結果を招こうとしておこなう人はいないでしょう。けれども、現実には、教会の集まりの持ち方次第では、それが悪い結果を招くことがあるのです。コリントの教会の場合は、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末(21)という状況が起こって、教会の仲間の間に亀裂が生じているというのです。もっとも、仲間割れとか人間関係の亀裂というのは、ただ食事の際の配慮に欠けた不作法が原因というわけではなかったでしょう。もっと別のところで、仲間割れする理由とか、関係に亀裂を生じさせる原因があって、それが端的に食事の際の不作法として現れていたということでありましょう。仲間割れがあるというような人間関係の現実が、食事の席でこそ如実に現れてきていたということです。わたしたちも、振り返ってみれば、そういうことに思い当たるところがある。

そのようなことを指摘する中でパウロは、こういうことを記すのです

それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです(20)

当時の教会では、日曜日に一緒に集まって食事をしながら聖書の教えや主の晩餐の儀式を執り行っていたといいます。普通の食事と主の晩餐の式の区別がつかないような状態であったわけです。それでパウロは、食事の際にあらわになる不作法、つまり教会の交わりの亀裂とか仲間割れとかがあるようでは、大切な主の晩餐の式を守っていることにならない、と言っているのでありましょう。けれども、そのことをもっと積極的に考えれば、パウロは、要するに、こういうことを言いたいのではないでしょうか。わたしたちが教会で一緒に集まるということは、主の晩餐を食べる者として集まるということなのだ。何よりも主の晩餐の何たるかを想起しながら集まりを持つのが、教会で一緒に集まるということなのだ、と。

 

《キリスト》を記念する

主の晩餐すなわち聖餐を食べるわたしたちは、何者でありましょうか。わたしたちが主の晩餐を食べるということは、どういうことでありましょうか。

パウロが受け継いでいた主の晩餐の制定の御言葉が、ここには記されています。わたしたちが、聖餐にあずかるたびに聴き直す御言葉です(2326)

パウロは、後代の教会が聖餐を執り行うための便宜にと、この御言葉を記しているわけではないでしょう。そうではなく、パウロは、この受け継いできた聖餐制定の御言葉の中に、わたしたち教会に一緒に集まる者が何者であるのか、わたしたちが一緒に集まって主の晩餐にあずかるとはどういうことなのか、そのことが告げられていると考えたからこそ、ここにこれを記したのでありましょう。

今、わたしたちは、この御言葉を丁寧に学び直すわけには行きません。ただ、恐らくパウロが、受け継いだ御言葉の伝承を慎重に吟味した上で、大切な言葉として落とさずに記した主の御言葉に目を向けたいと思うのです。主イエスがパンを裂いたときの御言葉にも、杯を回されたときの御言葉にも繰り返されている、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(24節、25)という御言葉です。

「わたしの記念として…」。キリストの記念として。つまり、キリストを想い起こし、キリストを心のうちに刻みつける。それが、主の晩餐(聖餐)を食べる理由であり、目的なのだ。パウロは、主の御言葉から、そう理解したのでありましょう。そのとき記念し、想い起こし、心のうちに刻みつけるキリストとは、最後の晩餐の後に、弟子たちに裏切られ、人々の手に引き渡されたキリストです。いや、ご自身でその命を差し出し、与えてくださったキリストです。しかも、裏切った弟子たちのために、また十字架に架けようとする人々のために、ご自身のその御体と御血を、その命を、差し出し、与えてくださったキリストです。

「これは、あなたがたのためのわたしの体である」(24)

わたしたちの食事が配慮に欠けた不作法なものになるのは、また、わたしたちの交わりが亀裂を生じさせ、仲間割れを起こすのは、いつでも、わたしたちがいつの間にか、自分のことばかりを思い、自分の思いに心を支配されてしまうからです。いわば《自分を記念する》者として生きてしまう。けれども、わたしたちはそのように生きるのではない。キリストをこそ想い起こし、キリストに心を支配していただき、《キリストを記念する》者として生きる。しかも、そのような生き方を、ただ独りで生きるのではない。キリストに結びつく洗礼を受けたときから、教会の仲間と一緒に、励まし合いながら、生きているのです。キリストを記念し続けるためにこそある教会の営みの中に連なりながら、生きているのです。

それでも、わたしたちは、いまだに、配慮に欠けた不作法を繰り返す者でありましょう。交わりに亀裂を生じさせ、仲間割れを起こし続ける者でありましょう。罪も過ちも、生涯、完全に消え失せることはないでありましょう。それでも、だからこそ、わたしたちは、《自分を記念する》生き方から《キリストを記念する》生き方へと、立ち帰っていく。繰り返し、そこに引き戻していただく。わたしたちもまた、キリストのように《自分》を差し出し、《自分の命》を他の人に与えることのできる者とならせていただくためです。キリストのように、与えることによってこそ受けることになる真実の命に生きる喜びを、その一端だけでも知る者とならせていただくためです。

キリストは、ご自身の御体と御血を差し出し、与えることによって、弟子たちを、そしてわたしたちすべての者を、受け入れてくださることを、お示しくださった。主に受け入れていただいたことを信じる者として、今日もまた、互いを受け入れ、新たな仲間を迎え入れる営みのうちに、わたしたちは歩み続けるのです。

 

祈り

主なる神。主の晩餐の御心を想い、心に刻みます。自分を差し出し与える者とならせてください。真実の交わりの喜びを知る者とならせてください。アーメン