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聖霊降臨節第12主日「信仰の勝利」 日本基督教団 藤沢教会 2008年7月27日 ギデオンは神にこう言った。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。すると、そのようになった。翌朝早く起き、彼が羊の毛を押さえて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。ギデオンはまた神に言った。「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」その夜、神はそのようにされた。羊の毛だけは乾いており、土には一面露が置かれていた。 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守る時はいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスを神の子であると信じる者ではありませんか。 本日、共に聴きましたこの「ヨハネの手紙」は、聖書の中でも、最も有名な御言葉、「神は愛です」という御言葉が記されている手紙です。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(4:8)「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(4:16b)といった御言葉が語られています。「神は愛である。」今日の箇所は、このすぐ後ろに続く第5章ですが、「神の愛」を語るヨハネは、即座にその「神の愛」と「神への愛」を結びつけ、そして「神への愛」は、兄弟姉妹を愛さずにはおられなくする、そういうものなのだと、繰り返し言明するのです。 兄弟愛に関して、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です」(4:20)と言われます。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(3:15)とまで言います。少し言い過ぎなのではないかと思えるほどに、強い言い回しで語られています。そして、そのことはいつも、キリストの十字架の死ということと結び付けられています。「イエスはわたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(3:16)「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」(4:9)「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ福音書3:16)このイエス・キリストの犠牲に現れる「神の愛」のテーマが、ヨハネの根底に流れるテーマでした。「愛する」という動詞、その名詞形である「愛」という言葉は、ヨハネによる文書だけで、新約全体の3分の1を占めると言われます。とりわけヨハネが力をこめて語った神様の愛に、今日、私たちは、招かれてここにいます。待ち望んで迎えたこの礼拝で、あるいは意識せずとも、何となくやって来たこの礼拝で、それぞれの思いをもって、私たちに書き送られたこの手紙に、共に触れています。「私たちに書き送られた」手紙であると言いました。そうです、聖書は、神ご自身が、私たちに書き送られた手紙、「神様からのラブレター」だと、そのように言う人があります。懐にいつも入れておいて、時々、それを取り出して見る、そうしてにやっと笑うのだと、そういう神学者もあります。 少し前に、教会附属のみくに幼稚園の一泊保育に出かけてきました。「ポックル」という名前の木の妖精から招待状が届いて、森まで神様の創られたものを探しに冒険だ、ということで、子どもたちと意気揚々と出かけて行きました。神様が創られたものはすばらしい、と伝える、ポックルからの手紙に大興奮の子どもたちでしたが、私は、その様子を見ていて思ったことには、いつも、これほどの渇望をもって、心を輝かせて神様の手紙を受け取ることができたなら、どんなにすばらしいだろうか、ということです。日々の忙しい生活の中で、そのようにして神様の手紙に夢中になるような時間を、どれほど確保しているだろうか。事実、ヨハネによって書き留められたこの手紙には、そのような神様との交わりの生活が強く勧められています。この手紙の冒頭には、ヨハネの執筆動機が書かれてありますけれども、その書き出しは、私たちに驚きを与えるものです。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち命の言について。・・・・・・わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたに伝えるのは、あなたがたもわたしたちと交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(1:1-3)驚くことに、これは、一続きの、息継ぎのない文章です。次から次に、書き記す言葉が溢れ出てくる。「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(1:4)書けば書くほど、喜びが満ちあふれてくる、皆さんはそういう手紙を書いたことがおありでしょうか。 神様からの愛の言葉をいただいたヨハネが書き記すこの手紙は、一方的に私たちのもとに届けられました。何と書かれていたか。「神は愛」ということ、まず神様が、私たちを愛してくださるのだ、神様の一方的な愛についてです。神はわたしたちを愛し、私たちに神の愛を見させ、また感じさせます。このように神様が、まずお愛しになるからこそ、私たちの内にこの愛への応えが生まれてくるのです。一方的なものとして与えられたにも関わらす、そこには愛への応答がわき起こります。このような神の愛との出会いを少しずつ経験することによって、私たちは「愛」とは、単なる感情とは別であることを知ります。人間の感情的な愛は、芽生えては消え、熱しては冷めるものですが、神様の愛はそうではない、もっと深いところで絶えず燃え続ける炎のようなものです。その愛がこの私に注がれている、そして同じように、その愛が隣人にも注がれていることを知り、神への愛の応答は、いわば放射的に神様が愛する人々へと向けられていきます。 「神を愛するとは、その掟を守ることです。」(5:3)ヨハネにおけるこの「掟」という言葉は、ここでは信仰者の歩むべき道として語られています。そしてそれは、ヨハネによる福音書13〜16章において語られた、いわゆる「告別説教」で、主イエスご自身が語られたお言葉によるものです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音書13:34)神への愛と兄弟愛の間の切り離すことのできない結びつきを、主は自ら人間となり、兄弟となって歩むことで、ご自身の弟子たちにお示しになったのでした。そしてそのような隣人愛はまた、人間を神との出会いに導く道となります。兄弟から目を背けるなら、神を見ることもできなくなる。兄弟を愛すること、神の子どもたちを愛することなしに、神を愛することはできません。神を愛しその掟を守る時初めて、神の子たちを愛することができるのです。 神の子どもたち、神から生まれたものであるという時、わたしたちは、「世から」あるものとして自分を見ません。世からの者でない、世に縛られた生き方を捨てた、もはや世に属さない信仰者には、世からの挑戦があるのです。けれども、主ご自身がそのことについては、すでに勝利を告げておられる。神から生まれた者の勝利は、「神の(長)子」としてのイエスに向けられる信仰によるものです。この世界の失われた罪の現実、死の状態の終局を告げる救い、「信仰の勝利」がすでに、この世界に、私たちの間に始まっています。世の思い煩いに支配された状態から、人間を解放する神様の愛、救いの計画が始まっているのです。 神様を信ずる「信仰」を考えるとき、私たちの信仰の対象は、神ご自身です。神の奇跡を信ずる、神様が共にいてくださることを信ずる、私たちは、色々な信仰の要素を語っています。実に様々な言葉でその信ずるところを語ろうとするのです。しかし、私たちは努力の結果としてではなく、神ご自身が、私たちにそのような方としてご自身を表され、啓き示されたから信じるのです。逆を言えば、そういう仕方でしか、私たちは、神様のことを知ることができないのです。骨を折り努力を重ねて信仰告白するのではない。神様から一方的にいただく恵み、それが「信仰」です。 神様の創造の御業、この世界に新しい生命を生まれさせてくださる、はかりしれない大きな業と共に、同時にこの新しく生まれさせる創造の御業において、生命と生命、人と人とを出会わせる、ダイナミックで、しかしすばらしく繊細な神様のご計画があります。生まれさせ、出会わせられる、この神様の御心において、私たちは、今日この礼拝を共にしています。今日この礼拝に初めて来たという方も、毎週この会堂で礼拝を共にささげている方々も、その思いを新たにされて、ここで新たな出会いを経験するのです。今日、私たちが共にここにいるということは、偶然でない、そのことを確かめつつ、かみ締めつつ、今ここにおられる主、私たちの神様の御前に立ち、一歩前に進み出る、そのような歩みを新たに歩み始めたいと思います。 聖書の時代に、初代教会で聖書として読まれていたギリシャ語の旧約聖書は、旧約聖書は、そのほとんどがヘブライ語で書かれていますが、それをギリシャ語に訳した「70人訳」という聖書です。新約聖書の中にしばしば出てくる、旧約聖書の引用は、そのギリシャ語の70人訳聖書に基づいていました。その「70人訳」聖書では、「信仰」「信じること」という意味のギリシャ語は、ヘブライ語の「アマーン」という言葉の訳語とされています。「アマーン」は「堅くする」といったニュアンスがありますが、「信じる(アマーン)」とは、そういうことです。堅く信じること、この「アマーン」から、私たちの「アーメン」という言葉が来ています。「アーメン」と言いますね。「アーメン」は「その通り」、「たしかにその通り」という言葉ですが、これは、「信じる」ということと深く結び合っている言葉です。「信仰」は、内的に起こる出来事であるために、何かつかみ所のないもの、揺れ動く感情のようなものと思われがちですが、そうではありません。「信仰」とは、堅く確かなこと、揺るがない確信を言います。信仰に自信がない、そういう思いを抱きがちな私たちですが、そうではないのです。なぜなら、「信仰」は「わたし」が生みだした、プライベートな領域ではないからです。ヨハネは、「世に打ち勝つ勝利」は「わたしたちの信仰です」と言います。「わたしの信仰」ではない、「わたしたちの信仰」なのです。個人的な思いで、神様を信じていくのでなく、教会の信仰ということを重んじるのです。信仰者を堅く立たせる。そういった教会の信仰の営みの中で、どんなに離れたところにあった人間をも出会わせ、結び付けてくださる。本日、私たちの間に、新しい姉妹を迎える転入式があります。そして、お一人の姉妹を客員としてお迎えします。こういった広がりの中に私たちは、神様がくださる「信仰」というものを見つめていきたいと思います。そして、信仰をいただき、生かされていることを知ったならば、それを告白するのです。イエスにとどまること、イエスのお言葉にとどまること、イエスの愛にとどまり、聖書が示すその掟を守る道を、私たちは行きます。私たちの歩む道を、堅くされる主がおられます。「信じる(アマーン)」という言葉には、「アレセイア」という訳語が当てられることもありますが、「アレセイア」とは、ギリシャ語で「真理」という意味です。これは他でもない、神ご自身があらわされたものであるということです。人間には示しえないものを神様が示してくださった、お語りくださった、そうであるから、私たちは頼りない不確かなものとしてではなく、確かなもの、真理としてこの信仰を受け止めるのです。それは神様の永遠に触れることです。 「イエスが神の子であると信じる者」(5節)この言葉は、1節の「イエスがメシアであると信じる人」という言葉と対応しています。主イエスをどのようなお方として告白するか。「イエスはメシアである」、「イエスは神の子である」と告白するのです。「メシア」という言葉は、原文では、「キリスト」という言葉ですが、「油注がれた者」という意味です。「油注がれた者」すなわち、イエスを神の民に約束された救い主です。「イエス」と「キリスト」という言葉の結びつきには、告白的意味があります。ヨハネはこの告白を信仰の決定的な要素として言い表しました。「神から生まれる」こと、その出来事は、イエスを神の子として告白する時に現実となります。クリスチャンとして新しく生まれる出来事、洗礼(信仰告白)の出来事です。そしてその告白に生きる、生かされるこの礼拝において、キリストのリアリティに与っていただく信仰の力は、生活の場において神以外の支配に打ち勝ち、わたしたちに真の自由を与えるのです。 |