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平和聖日礼拝説教「キリストの思いを抱いて」

日本基督教団藤沢教会 200883

6しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。7わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。8この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。9しかし、このことは、

「目が見もせず、耳が聞きもせず、

人の心に思い浮かびもしなかったことを、

神は御自分を愛する者たちに準備された」

と書いてあるとおりです。10わたしたちには、神がによってそのことを明らかに示してくださいました。は一切のことを、神の深みさえも究めます。11人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。12わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。13そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。14自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。15霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。

16「だれが主の思いを知り、

主を教えるというのか。」

しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。

   (コリントの信徒への手紙一 2616節)

平和を実現する人

今年も、平和への祈りを深める季節を迎えました。8月は、この国に住む私たちにとって、たとえ世代が降ることがあってもなお特別な季節であります。かつて、この国とこの国の人々と、そして周囲の多くの国々とその国々の人々との間で、何があったのか、何を犯してきたのか、今も、私たちは、そのことを語り伝え続ける責任を負っていることを忘れることはできません。しかし、また、それは、ただ単に、かつて、過去のある時代に何があったのか、その時代の人々が何を経験し、また過ちを犯したのかと、そのことを記憶にとどめるためにだけ続けている営みではありません。その過去の出来事の中に、今に生きる者がなお抱えている問題、人間の深い罪の問題を見るからこそ、私たちは、それを繰り返し聴き直し、語り直すのです。そして、そのような営みをとおして、あらためて深い悔い改めへと導びかれて、一人の人間、一人の信仰者として本当になすべきこと、行くべき道、望むべき平和を、心のうちに刻み直させていただくのです。

今夏、教会学校の夏期学校が、来る土曜日から二泊三日で計画されています。小学生から高校生までの子どもたち35名ほどが参加して、奉仕者スタッフの皆さんと共に、信仰の交わりと学びを深めてくることになります。その夏期学校の主題聖句として選ばれているのは、マタイ福音書5章の「山上の説教」冒頭の御言葉です。「心の貧しい人々は幸いである、天国はその人たちのものである」(マタ5:3)と始まる「八つの幸い(八福)」が告げられている箇所、と言えば、思い出される方も少なくないと思います。

「八つの幸い」のどの句も印象深い、また深く思いめぐらさせられる御言葉です。けれども、その中でも現代のキリスト者の間で飛び抜けて多く引用されるのは、その内の七番目の句ではないでしょうか。それは、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタ5:9)と主イエスが告げられた句です。「平和を実現する人となること」。それが、今日のキリスト者の取り組むべき、最優先の課題であり、主から託されている使命であると、多くの人が受けとめているのです。そして、この点については、教会の伝統の違いという枠を越えて、かなり幅広く、キリスト者であると言うことで一致することもできるのです。たとえば、現在、超教派のキリスト教組織に、「平和を実現するキリスト者ネット」というものがあります。福音派からカトリックまで幅広く参加している組織ですが、この組織の活動の土台となっているのは(名称もそのままですが…)、まさに、「平和を実現する人々は、幸いである…」の御言葉なのです。

「平和を実現する人々は、幸いである。
            その人たちは神の子と呼ばれる。」

主イエスに従うキリスト者が、この御言葉に導かれて、平和を実現する者として生きる。そのことは、ある意味では当然のことです。個人にしろ、国家にしろ、紛争を解決する手段として暴力・戦争を起こすようなことはあってはならないことだと、確信を持って言うべきものでありましょう。時代状況によっては、私たちキリスト者が、そのような主張をもって行動しなければならないということも、あるかもしれません。

けれども、私たちはまた、「平和を実現する」「平和のために行動する」という取り組みの難しさにも、目をつむるわけにはいかないと思います。それは、「平和を実現するためには様々な困難や障害がある」という現実に目を向けるということでもありますが、また、こういうことでもあります。「平和のために行動しようとする者自体に、平和を遠ざける原因があって、平和を実現することを困難にしている」。声高に平和の実現を叫ぶ人の中に、ときとして、驚くほど反対者に対する敵意と憎しみが渦巻いている姿を見せられることがあります。いや、私たち自身も、目立たないかもしれないけれども、同じような姿を見せることがある。自分の考える平和を実現するために、無意識のうちに周囲の者を力ずくで押さえ込んでいる。平和を乱していると見える者を、巧妙に自分たちの関わりから排除しようとしている。そういう現実を、私たち自身の姿として認めないわけにはいかないのだろうと思うのです。だからこそ、「平和を実現する」「平和のために行動する」という取り組みは、私たちには難しいことなのではないでしょうか。

「キリストの思い」

今日の御言葉を、使徒パウロがコリント教会に宛てた手紙の中から与えられました。その朗読箇所の最後に、パウロは、こう記しています。

しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。(16)

主イエスに従うキリスト者として、キリストの思いを抱く。そのために、私たちは、熱心に、主イエスの教えを学ぶ者でありましょう。主イエスご自身のお語りになられた御言葉、その行いだけでなく、主の弟子たちが初代教会の時代に主の教えとして教えたことを、聖書を開くことによって、繰り返し学ぶわけです。

私は、説教者としてできるだけそういう言い方をしないようにしていることですけれども、多くの説教者は、礼拝の説教の中で「御言葉を学ぶ」と言います。礼拝に来るのは、説教をとおして、主の御言葉、主の教えを学ぶためだ、というわけです。そういう面もあるかもしれません。礼拝を通して、中でも説教を通して、聖書を学び、主の教えを学んでくださっても、一向に差し支えはないのです。けれども、私たちの礼拝が、ただ聖書を学んだり、主の教えを学んだりするだけのことであれば、私たちは、いずれ礼拝を卒業しても良いのではないでしょうか。学校で学んだことは、実生活や実社会での実践の中でこそ、その人の血となり肉となるでありましょう。だから、いつまでも学校に居続けては行けないのです。とすれば、礼拝、中でも説教が学びの場に過ぎないのであれば、いつまでも礼拝に通い続けるよりも、早く、実生活で実践してみた方がよい、ということになりはしないでしょうか。もちろん、そうではないからこそ、私たちは、礼拝に通い続けます。聖書の御言葉を、説教を、繰り返し聴き直します。私たちは、礼拝を通して、ただ聖書の御言葉や主の教えを学ぼうとしているだけなのではなく、ここで、神と相対し、主イエス・キリストと出会わせていただこうとしているのです。まだ、そのような神に触れ、キリストと出会うという経験をされていない方にも、礼拝を通して、そのような経験をしていただきたいと願っているのです。

なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、パウロがここで言っている「わたしたちはキリストの思いを抱いています」という言葉を、私たちは誤解してはいけないと思うからです。パウロは、「キリストの思いを抱く」という言葉によって、キリストの教えや思想を身に着けるということを言っているのではありません。たとえば、主イエス・キリストの平和の教えを聞いて、自分もキリストの教える平和を主義主張として持つようになる、ということを言っているのとは違うのです。そうではなく、パウロは、キリスト者がキリストのご意志を心のうちに抱いている、キリストの御心がどのようなものであるかを知るようになっている、ということを言っているのです。

私たちは誰でも、人を好きになると、その人が何を考え、何を志し、どんな思いで行動しようとしているのかを知りたいと願いますし、無意識のうちに、好きな人の考えやこころざし、思いに影響されて、同じような考え、こころざし、思いを持つようになるものです。そして、いつのまにか、好きな人に似た者になってくるものです。しかし、そのような人間関係の中にあるとき、私たちは、自分が好きな相手の考えや思想や主義主張を学んだとは言いません。相手の存在そのものを自分の中に抱き込むようにして、相手と一体になるようにして、そうなるのです。パウロが「わたしたちはキリストの思いを抱いています」というのは、キリスト者が主イエス・キリストとのそのような人格的な関係の中に生きている、ということを言わんとしているのです。

 

キリストからの平和

そのようなキリストとの関係を、一体、どのようにして持つことができるのだろうかと、疑問に持たれる方もあるかもしれません。神秘的な宗教体験が必要だというならば、自分はご免こうむる、という方もあるかもしれません。

けれども、私たちがキリストとの人格的な関係を持って生きるというのは、もっと現実的な営みです。主イエス・キリストが証しされている聖書に耳を傾けることによって「キリストの思いはどのようなところにあるのだろう」と問い続ける。大切な一人の人との関係をつくっていくときと同じような、そういった営みを通して、私たちは、キリストとの人格的な関係の中に生きるようになるのです。

そのような営みを重ねる中で、私たちは、キリストを通して働きかけてこられる神、神の霊の働きに、気づかされるようになるでしょう。キリストの思いとは、神の思いであること、神から恵みとして与えられたもの(12)によってのみ生きる者とされることであると、気づかされるようになるでしょう。私たちが、十字架に死なれたキリストの思いに導かれて、一つ、また一つと、自分の思いを捨て、自分の力を捨て、自分自身を明け渡していくほどに、キリストが神の恵みの働きを、私たちの体を通して行ってくださることに、気づかされるようになるのです。

パウロは、この手紙の冒頭で(また他の手紙の冒頭でも)、こういう言葉を記しています。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(1:3)。私たちが、キリストとの深い人格的な関係の中に生き始めたときに与えられるものを、パウロは一言で「恵みと平和」と言い表して告げています。キリストとの人格的な関係が深まれば深まるほど、私たちの中に、キリストからの平和が実現し、また私たちは平和を実現する器として用いられるようになるのでありましょう。

この「平和」という言葉を、口語訳聖書ではしばしば「平安」と訳しています。私たちの平和への取り組みは、まず、キリストとの深い関係に生きるようになることで与えられる、私たち自身の心の平安に支えられるものでありましょう。礼拝の生活、キリストと繰り返し出会い直し、深い関係に生きる者とされる生活を、共に導かれ、主にある平安のうちに、まことに平和を実現する者として用いていただこうではありませんか。

 

祈り

平和の主よ。主と出会わせてください。主の思いを尋ねさせてください。主ご自身が私どものただ中でお働きくださることを深く悟らせてください。アーメン