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主日礼拝説教「新しい生き方で!」 日本基督教団藤沢教会 2008年8月10日 1主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。2明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。3だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人の姿があってはならず、山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない。」 4モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。5主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。6主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、7幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」8モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、9言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」 (出エジプト記 34章1〜9節) 1それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。2結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。3従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。4ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。5わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。6しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。 生き方を問う 今日の主日聖書日課として、使徒パウロの書簡からローマの教会に宛てて記された手紙の一部が与えられました。ここで、パウロは、こう記しています。 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。(1〜2節) 少し極端な言い方かもしれませんが、パウロは、神を知って生きる人間の生き方を二通りに考えているのです。すなわち、律法に支配されて生きる生き方と、律法から解放されて生きる生き方です。 「律法」は、旧約聖書の中心である五書(創世記から申命記まで)のことを指す用語です。ユダヤ人にとっては、モーセを通して与えられた神の言葉であり、生活の規範中の規範となるもののことでした。日本語では「律法」と訳されていますが、もともとは「法律」とか「法則」と訳しても良い用語です。ですから、「律法」という用語によって、五書の中で特に生活の規範として命じられている掟や戒めなどを指している場合もあります。パウロは、むしろそういう意味で「律法」を取り上げることが多いかもしれません。そのような「律法」に支配されて生きる生き方と、それから解放されて生きる生き方があると、パウロは言います。 「律法」を問う 「律法」に支配されているというのは、単純に言えば、旧約聖書の中の掟や戒めにがんじがらめになっている、ということです。当時のユダヤ人の教師たちは、律法によると613の戒めがあると教えていたといいます。ある学者によると、613のうち、248は「…しなければならない」という命令、365は「…してはいけない」という禁止の命令であったとも言います。そういうたくさんの「きまり」や「ルール」に縛られて生きるのが、「律法」に支配された生き方だと、単純に言ってしまってもよいかもしれません。確かに、わたしたちの生活をかえりみても、何かと「きまり」とか「ルール」で動かなくてはならない場に置かれるというのは、窮屈であるし、居心地の悪いものです。できれば、「きまり」や「ルール」は最小限にして、そういうものに束縛されない自由の中で動きたいと思うものです。ですから、パウロが言う「律法」から解放された生き方というのも、そういった意味での「きまり」や「ルール」から自由な振る舞い方、生き方のことなのだと、わたしたちは単純に考えるのではないかと思います。 素朴には、そういう意味で理解してよいのだろうと思います。けれども、このことを言うパウロのことを考えると、事柄はそれほど単純ではないようにも思えます。パウロ自身は、「律法」の掟や定め、つまりたくさんの「きまり」や「ルール」を守ることに必死になり、がんじがらめになっていた、ということではないようだからです。パウロは、別の手紙の中で、こういうことを書いています。 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは…先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。(ガラ1:13〜14) わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。(フィリ3:5〜6)。 「きまり」や「ルール」というものの中に自分の身を置くことで、ある場合には安心や満足を得ることがあるのだと思います。「きまり」や「ルール」を守ること自体を苦痛に思うこともあると思いますが、進んで「きまり」や「ルール」の体系の中に身を置こうとする場合もあるのです。パウロは、自分自身の中にもそういう傾向があることを知っているのです。その上で、しかし、なお、律法の支配から解放された生き方を生きることを教えるのです。律法の支配から解放されるということを、わたしたちが知らなければならないと、教えるのです。 私が高校生の頃からだと思いますが、若い世代の振る舞い方を指して「マニュアル人間」と批判的に言われることがありました。すでに、ファーストフード店の接客方法からデートの仕方まで、事細かなマニュアルがあって、それに従って振る舞うことを良しとする風潮の時代になっていました。アルバイトであろうと、仕事をする上では最低限のマニュアルを正確に身に着けることが求められました。何につけマニュアルを身に着けることは上手になりました。けれども、マニュアルにないことを求められると、どうしてよいのかさっぱり分からない。そういう若者が増えていたのです。そのような若者たちを指して「マニュアル人間」と呼んだのです。そういった傾向が、いつからのものなのか分かりません。けれども、そのような指摘をされながら、自分たちの意識の傾向というものを自覚してきたところがあります。それは、「自分」というものに関心が傾きがちな意識です。「自分が満足かどうか」、「自分が快適かどうか」、「自分が間違っていないかどうか」と、何につけ、まず「自分」に対する結果を考えながら、自分の行動を決定しようとする傾向がある。そして、だからこそ、マニュアルにこだわるのです。マニュアルを苦痛に思う者も、マニュアル大好きな者も、いずれにしてもマニュアルにこだわる。なぜなら、マニュアルというものが、自分の行動を直接指示するものだからです。マニュアルを通して、自分の行動を確かめることができる、自分の快不快、正誤を確かめることができる。だから、マニュアルにこだわるのです。いや、マニュアルに、無意識のうちにしばられるのです。 パウロは、良くも悪くも「律法」にこだわり、しばられた生き方のことを指して、「律法に支配された生き方」と言っているのでありましょう。だから、パウロはこう言っています。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」(5節)。パウロが「肉に従う」と言うのは、「自分に従う」「自我に従う」という意味です。「自分」というものに関心が傾いた生き方を生きるとき、たとえどんなに素晴らしい律法であろうとマニュアルであろうと、それはむしろ、罪を誘発する。死をもたらす。つまり、他者との関係、神との関係を破壊してしまう、というのです。 霊に従う新しい生き方で! 今日の箇所で、パウロは、「律法」に支配された生き方と、それから解放された生き方を説明するために、夫婦のたとえを記しました。パウロは、このたとえで、夫婦の貞節を語っているわけではありません。それを否定しているわけでもありませんが、彼はここで、古い夫との関係を破棄して新しい夫との新しい関係を始めるということをたとえて、わたしたちの新しい生き方を教えているのです。 それは、「律法」によらない関係に生きる生き方です。旧約聖書の五書のことだけではありません。さまざまな自分で集め、手に入れてきた「律法」によって、わたしたちは、「自分」中心の、「自分」への関心に傾いた考え方、生き方で、考え、生きてきたのです。その「律法」から解き放たれることが、「自分」中心の、「自分」への関心に傾いた考え方、生き方を変えるためには、どうしても必要なのです。神に対して実を結ぶようになるため、そして、同様にして他者に対しても実を結ぶようになるために、わたしたちは、まず、自分の手にしてきた「律法」、自分の「行動マニュアル」から解き放たれなければならないのです。 パウロは、そうして得られる新しい生き方を、霊に従う新しい生き方、と言い表しています。「霊に従う」というのは、神の恵みの働きを信じて、それに従う、ということでありましょう。「律法」や「行動マニュアル」のように、あらかじめ自分で想定した考え方や行動によって神や他者との関係を保とうとするのではなく、想定外のことがあろうと何であろうと、「律法」も「行動マニュアル」も用いないで、ただ「神の霊」の働くことを信じて、神と相対するようになるのです。他者と向き合い、真剣に関わり合うようになるのです。 そのような新しい生き方を、わたしたちは、一所懸命に自分で獲得しようとしてきたかもしれません。「神の霊」を求めてきたかもしれません。しかし、パウロは、霊に従う新しい生き方は、律法に支配された古い生き方から解放されたときに、結果としておのずと与えられ、始められるものなのだと言います(6節)。わたしたちは、このことも、しっかりと肝に銘じたいと思うのです。なぜなら、霊に従う新しい生き方を求めながら、わたしたちは、いつの間にか、自分自身の手で「新しい律法」「新しい行動マニュアル」を造り出してしまう者だからです。むしろ、わたしたちは、ただ繰り返し、自分が縛られ、支配されていた、自分自身の手の中にある「律法」や「行動マニュアル」を思い切って捨て去る勇気を、十字架に死なれたキリストから与えていただくことに、祈りを傾けたらよいのです。パウロは言います。 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。(4節) わたしたちは皆、キリストの体に結ばれる洗礼を受け、教会の群れに加えられました。まだ洗礼を受けていない方も、いずれその日が備えられ、与えられることです。そうであれば、ここに集うわたしたちは皆、一つのことに祈りを傾けたらよい。十字架に死なれたキリストに深く結びつけられることへと、祈りを傾けたらよい。その一点に集中する洗礼の出来事にこそ、祈りを傾けたらよい。そのような歩み、営みに生きることを、わたしたちはゆるされているのです。 祈り 主なる神。自分への関心に傾かせる我が内なる律法から解き放ってください。わたしどもは、ただそのことを為してくださるキリストと結びつきます。アーメン
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