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主日礼拝説教「キリストの光に照らされながら」

日本基督教団藤沢教会 2008817

17さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。18神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。19モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。20一行はスコトから旅立って、荒れ野の端のエタムに宿営した。21主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。22昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
             
(出エジプト記 131722節)

6むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。7だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。8あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。9――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――10何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。

「眠りについている者、起きよ。

死者の中から立ち上がれ。

そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

15愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。16時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。17だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。18酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、19詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。20そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
         
(エフェソの信徒への手紙 5章6〜20節)


主に結ばれて、光となっている!

わたしたちの教会は、この夏、例年になく豊かさをおぼえさせていただいています。恒例の夏のプログラムは、もちろん、いつにも増して恵み豊かに守られていますが、それだけではありません。今夏、新しく与えられた牧師館の利用が、先週から始められました。また、今日の午後には、四月に着任した三人目の教職である上竹伝道師の正式な就任式が行われます。牧師館の取得にしろ、三人目の教職の招聘にしろ、どの教会でも、そう易々と行えることではありません。もちろん、わたしたちの教会も、どちらのことにしても、何年かの議論を経た上で、祈りのうちに、神がお与えくださったものとして、新牧師館を、また新しい教師を、受けとめたのです。そうであっても、これらのものが与えられたのは、わたしたちの教会にすでに与えられていた豊かさのゆえなのだということを、私は皆さんと共に確かめないではいられません。地方の小さな教会の現実がどのようなものなのか、全国に何百とある無牧の教会がどのような教会運営をしているのか。そういったことを真面目に知り、理解しようとするならば、わたしたちは、満ちあふれるような豊かさを与えられている教会として、何を考え、何を為すべきか、おのずと導かれるのではないでしょうか。

豊かさを与えられているということは、案外、小さな経験の中で実感するものかも知れません。先週から、新牧師館での生活を始めさせていただいていますが、まず、マンションの5階というのが、想像以上に見晴らしがよいのです。これまで牧師館のあった会堂の3階や屋上からは、視界を遮る建物が無数にあって、藤沢の町を見渡しているようにはなりません。ところが、わずか2階分高いだけの5階にある新牧師館の窓からは、東西に遮る建物はありますが、駅はもちろん、江ノ島まで見渡せるのです。ただ眺めがよい、というだけのことではありません。町を見渡しながら、「ここが、藤沢教会に神から託されている地なのだ」という思いを、日々新たにされる。そういうところで、豊かさを実感したりします。

また、朝、新牧師館では、窓から燦々と射し込む朝日に目覚めを誘われます。これまでの牧師館では、東側と北側には窓がないので、朝の時間帯は窓から直接陽が射し込むことはありませんでしたし、ほとんどの窓に分厚い遮光カーテンが吊してあって、閉じてしまうと昼間でも真っ暗になってしまう。新牧師館で迎えた最初の朝は、朝の光はこれほど豊かなものだったかと、ちょっとした驚きだったのです。豊かに与えられている自然の光によって、目覚めを誘われる。当たり前のことかもしれませんが、そういうところで、豊かさを実感したりするのです。

今日の礼拝のために、エフェソの教会に宛てて使徒パウロが記した手紙の中から、有名な、「光の子として歩みなさい」(8)の聖句が含まれる箇所を与えられました。この同じ節で、パウロは、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と記していますが、彼は、この手紙を通して、いわば、キリストを知る以前には気づかずにいた真の神の光の豊かさに、キリストを知った今は、気づかされ、驚かされていて、そのことをエフェソの教会の人たちに伝えようとしている、と言ってもよいかもしれません。しかも、その光の豊かさというのは、ただ神というお方、あるいはキリストというお方が光り輝いている、その光が豊かだ、と言うに留まらない豊かさです。その光が、あまりに豊かなものなので、わたしたち暗闇の中に生きているような者をさえ、その光で照らして、光り輝かせてしまう、光とならせてしまう、それほどに豊かな光なのだというのです。神の光、そして、キリストによってわたしたち人間にまでもたらされた光は、そのような満ちあふれる豊かさをもった光なのだと、パウロは、ここで、驚きをもって、わたしたちに告げているのです。

光にさらされて明らかになる

古くから、多くの教会では、新しいキリスト者が誕生する洗礼式に際して、洗礼を受けた者に真白い衣を着せてきました。洗礼は、豊かに輝く神の光を身に帯びたキリストと人が結びつけられる礼典です。神の光を身に帯びて光り輝くキリストを指し示す真白い衣を着せることによって、キリストとの結びつきを表しているのです。そして、それはまた、洗礼を受けた者が、そのときからは、キリストの光をその身に帯びて生きる者となった、ということをも表しているのです。

けれども、キリスト者の実体はどうかというと、必ずしもキリストの光を輝かせているとは言えないところがあるかもしれません。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方の中には、すでに洗礼を受けてキリスト者となっている人の姿を見て、「キリスト者になっても、以前とちっとも変わらない」と思われている方もあるかもしれません。あるいは、キリスト者とキリスト者でない人とを比較して、「キリスト者でないあの人のほうが、キリスト者のあの人よりも、よほどキリスト者らしい」などと思われている方もあるかもしれません。

確かに、ひとりの人間が、人間としての輝きを持っているかどうかとか、豊かな知性や品格を備えているかどうか、というようなことは、必ずしもキリスト者であるかどうかということと関係ないようにも思えます。キリスト者でない方であっても、人間として尊敬に値する方は数知れずいらっしゃるし、キリスト者であっても首を傾げたくなるような人物がいないわけではない。そうであれば、人が洗礼を受けたキリスト者であるかどうかというようなことは、どちらでもよいことでしょうか。決してそうではないのです。

キリスト者は、キリストと結びつくことによって、光となり、光の子として歩む。そのようにパウロが言うとき、彼はそこまで言っておきながら、決してキリスト者そのものが光を発するようになっているのだとは考えていません。彼は、キリスト者とは、キリストの光に照らされ、さらされながら生きることを始めた者のことなのだと、言っているのです。だから、このように記します。

光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。(913)

わたしたちは、他人に対して、自分というもののすべてをあからさまにしているわけではないと思います。世の中でどのような評価を受けているかにかかわらず、人は、特に心の中の思いとして他人に知られたくないことを抱えているものです。もしかすると、社会的に評価の高い人のほうが、かえって他人に知られたくない深い闇を心のうちに持っている場合があるのではないかとさえ思います。

洗礼を受けてキリスト者として生き始めるということは、そのような自分の中に密かに隠し持っている事柄も含めてすべてを、キリストの光に照らされ、さらされ、明らかにされながら歩んで行くということです。もちろん、それは、だれに対しても明らかにしていく、ということではありません。神と自分との間でこそ、心の奥深くに押し隠していたことが明らかにされていく、ということです。

けれども、なぜ、そのようなことを、神との間で為して行くのでしょうか。自分が心の奥底に隠しておきたいことというのは、大抵は、自分にとっても、他人にとっても、あまり評価されないような、むしろ負の部分なのではないでしょうか。否定したい部分なのではないでしょうか。そのような負の部分、否定したい闇の部分を、なぜ、あえて神の前で明らかにしなければいけないのでしょうか。

その理由は、恐らく、パウロがここで、「明らかにされるものはみな、光となるのです」(14)と言っているところにあるのでしょう。つまり、神の御前で、キリストに照らされ、神の光にさらされるとき、わたしたちの中で隠してきた負の部分、否定したい部分が、もはや負のままではなく、闇のままではなく、光り輝く部分、肯定されるべき部分に変えられていくのです。

 

神に愛されている子供

パウロは、今日の箇所の直前で、この手紙の読者に向かって、「あなたがたは神に愛されている子供です」(5:1)と告げています。わたしたちはキリストに照らされ、神の光にさらされ、神の御前にすべてを明らかにされて生きていく者なのだと呼びかけるとき、彼は、何よりも、自分たちは神に愛されている者なのだという、深い神に対する信頼に基づいて、そう呼びかけているのだろうと思います。

神に愛されている子供として、わたしたちは、神にすべてを知られて生きるのです。それは、神の豊かな愛、満ちあふれる愛のうちに抱かれて生きる、ということです。だれもが評価してくれる部分だけでなく、負の部分、自分でも否定したいと思うような闇の部分をさえご存じの神が、キリストを通して、その満ちあふれる豊かさ、豊かな光の中へと導いてくださっている。その豊かさにあずからせてくださっている。神に愛されている子供として生きるとは、そのことに気づいて、神に信頼して生きるということです。

わたしたちは、豊かさに満ちあふれる神から、すでにあふれるほど豊かなものを与えられている。にもかかわらず、与えられているものの豊かさに何と無頓着なことかと思います。豊かに与えられているもののうちのどれほどを、無意識のうちに拒んでしまっていることかと思います。せっかく眩いほどの朝日が照っているのに、窓がなかったり、分厚いカーテンが吊されたりしていて、その光の豊かさを享受できずにいる。それは、何とももったいないことではないでしょうか。

わたしたちの心の窓を、神に向けて開こうではありませんか。閉じられたカーテンを全開にしようではありませんか。何よりも、キリストの光が昇る方向に向けて、わたしたちの心を開き、その光の豊かさに触れさせていただきましょう。

 

祈り

主なる神。豊かにお与えくださることを感謝します。主に照らされる光の子として御心を尋ね求めて歩みます。主の高みにまで成熟させてください。アーメン