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聖霊降臨節第16主日礼拝説教 「キリストに結ばれた人」 日本基督教団藤沢教会 2008年8月24日 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四の五月に、主の神殿において、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、祭司とすべての民の前でわたしに言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである。」そこで、預言者エレミヤは主の神殿に立っていた祭司たちとすべての民の前で、預言者ハナンヤに言った。預言者エレミヤは言った。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言者の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民のすべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。だが、わたしがあなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」すると預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた。そしてハナンヤは、すべての前で言った。「主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられてバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く。」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。預言者ハナンヤが、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた後に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。「行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代りに、鉄の軛を作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らは、その奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた。」更に、預言者エレミヤは、預言者ハナンヤに言った。「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。それゆえ、主はこう言われる。『わたしはお前を地の面から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ。」預言者ハナンヤは、その年に七月に死んだ。 (エレミヤ書28:1-17) 神の子を信じる人は、自分の内にこの証があり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人には、この命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることが分かります。死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。 (ヨハネの手紙一5:10-21) 先日、8月9日から11日にかけて、教会学校の子どもたちと共に、 私たちは、何か、こうあらねば神様の祝福をいただけないと思う時があります。このような状況にある自分は、神様の祝福から遠いと感じて、悲しみます。もっと祝福がほしい、幸せになりたい、そういう不安にモヤモヤと心が支配されるのです。しかし、そのような不安に襲われる私たちに、神様は繰り返し語りかけてくださいます。わたしはここにいる。安心しなさい。神様が、私たちの心の深いところに、語りかけてくださるのです。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」使徒ヨハネがこの手紙を書いたのも、信仰者がすでに受けている命についてはっきりと知ることが目的であったとされています。神様からいただく永遠の命について、深く知って行くならば、悪い思いに押し流されることはない、不安にブレることはない。信仰者となり、教会のメンバーとされた兄弟姉妹の間で、永遠のいのちの確かさ、ということを堅く確かめたかったのです。この世の不義や悲しみ、死さえも、私たちを神様から奪い取ることはできない、私たちはキリストとの結びつきの中にあるのです。「信じる」ということは、心の中で何かを思ったり、感じたりする、感情のような不確かなものではありません。ヨハネは、神の御子イエス・キリストを信じることは、「御子と結びついているということだ」と言いました。12節の言葉ですが、「結びつく」と訳出されている言葉は、新約聖書の他の個所において、そのほとんどは「持つ」と訳される言葉です。「御子を持つ者は、命を持っている。神の御子を持たない者は命を持ってない。」私たちは、確かに、持っています。現実の所有物として感じられるほど確かなあり方で、永遠の命を持っているのです。永遠の命こそが、私たちが神様からいただく信仰の賜物であります。 一方、「永遠の命」とは、どういうことでしょうか。私たちの教会の信仰告白として受け継がれてきた「使徒信条」の最後は「永遠の生命」に対する信仰告白です。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、身体のよみがえり、永遠のいのちを信ず。アーメン」と告白するのです。それは、死んで後も延々と生きる、ということを強調する言葉ではありません。 かつて、このように語った旧約聖書の詩人がありました。「なんという空しさ。なんという空しさ、すべては空しい」(コヘレト1:2)「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレト1:9)私たちが、生きがいや生きる価値というものを求めて、この地上の命を生きていく中で、必ず直面するといっていい、虚しさや孤独があります。聖書は、この深刻な人生の闇に無関心ではありません。深いため息を漏らす人間。その思いを代弁する詩人は、しかしまた、このことを悟るのです。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」(コヘレト3:11)聖書において、時間と永遠ということは、哲学におけるような対立関係をなしていません。イエス・キリストにおいて、神様の永遠性が、私たちの生きる歴史、この時間の中に介入したからです。いにしえの詩人の時代より、人々が永く待ち続け、あこがれ、思い続けてきた神様の永遠。キリストは唯お一人、それをもたらす方として、この世界にお生まれになりました。キリストは、罪のゆえに滅びの道を歩む人間に、命をもたらすために、十字架の死を引き受けられたのです。神様は、罪の穢れのない御子キリストを十字架の死へと送ることによって、新しい命を約束されました。御子キリストを信じる者が得る命とは、神様の永遠を生きる命です。私たちの地上の生涯には、初めがあり、終りがあります。その有限的時間の中で、私たちはしかし、キリストを通して永遠なるものに触れる経験をするのです。この世は悪のはびこる時代にあるにも関わらず、私たちは今、キリストのものとして生きており、それゆえに神様の永遠の命に与っています。中世の有名な格言に次のような言葉があるそうです。「生命の只中において、私たちは死によって囲まれている。」日毎に死を憶えて過ごす、この敬虔な信仰者の格言に対し、ある神学者はこのように言いました。「死の只中において、死によってマークされたこの世において、私たちは生によって囲まれている。」永遠の命とは、そういうものだと言いました。私たちは、罪に満ちたこの世界で、絶えず死に包囲されて生きています。この地上の世界の汚れや邪悪、悲しみは、人の命を蝕む罪、死に至らせる罪です。罪に病んでいる、この悩み、この嫌悪感から、解放されたいという思いで、多くの人々が自らその命を絶つ、そういった社会の暗い現実があります。もう人生の舞台を降ろしてほしいと願う、もうこの暗闇のような世界とは関わっておられないと感じる、その人間の失望の中で、主は、しかし、生きる道をなお、お示しになるのです。生きるべき命の光を、お与えになるのです。そうであるからこそ、私たちは、辛い死の現実に直面しながらも、「死によってマークされたこの世において、生によって囲まれて」います。「わたしがお願いするのは彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しきものから守ってくださることです」(ヨハネ17:15)と祈られた主イエスご自身が、この世界の只中で、私たち人間が本当の命に目を開かれていくことを願っておられます。 そしてまた、この礼拝に集う一人ひとりは、この神様の永遠に触れる経験をしているということを申し上げたいと思います。この礼拝に招かれた一人ひとりが、神様の御言葉に触れる経験をしているのです。永遠なる神様の御言葉に触れる、そのことを経験したならば、もう一歩前に踏み出すことができる、その道が備えられています。「永遠の命」を生きるとは、今、活きて働かれる神様を私たちの内に持つことです。神様の言葉を内に持つことです。キリストの体である教会の思いを一つにするものもまた、この神様の御心を、私たちひとり一人が心の内に願うことであると言えます。それによって、私たちの群れは一つとされ、確かなものとされていくのです。それはしかし、努力して、何かの訓練を通して、私たちの内に神様を積み上げていくというのではありません。むしろ、私たちが、「真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいる」(20節a)、そのことを信じることです。私たちひとり一人が思い思いの神様を心に思い描くのではなく、御子イエス・キリストに結びついて、一つの御言葉を共に仰ぎ、導かれつつ歩むのです。「この方こそ、真実の神、永遠の命です」(20節b)と告白する歩みを、歩いて行くのです。私たち、この唯一真実なる方、永遠の命への信仰のゆえに、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」(フィリピ2:2)して、歩むべき道を示され、導かれていきたいと願います。 祈り 千年が一日のごとく、一日が千年のごとくに
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