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主日礼拝説教「仮住まいの心得」
日本基督教団藤沢教会 2008年8月31日
4 その日、その時には、と主は言われる。
イスラエルの人々が来る、ユダの人々も共に。彼らは泣きながら来て、彼らの神、主を尋ね求める。
5 彼らはシオンへの道を尋ね、顔をそちらに向けて言う。「さあ、行こう」と。
彼らは主に結びつき、永遠の契約が忘れられることはない。
6 わが民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ、山の中を行き巡らせた。
彼らは山から丘へと歩き回り、自分の憩う場所を忘れた。
7 彼らを見つける者は、彼らを食らった。敵は言った。
「我々に罪はない。彼らが、まことの牧場である主に、先祖の希望であった主に罪を犯したからだ」と。
11愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。12また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
13主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、14あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。15善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。16自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。17すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
18召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
22「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
旅人・寄留者・仮住まいの身
8月の「CS合同礼拝」は、「平和月間」として礼拝を整えてきました。招きの言葉にコロサイの信徒への手紙3:15「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」の御言葉が告げられ、平和を願う讃美と祈りを共にささげることが、毎週繰り返されたのです。そしてまた、そのような「CS合同礼拝」の営みに歩調を合わせて、8月中は「主日礼拝」でも、キリストの平和を告げる御言葉(エフェ2:14~16)が招詞として告げられてから礼拝が始められてきました。
その招詞の御言葉が記されている箇所の続くところ、エフェソの信徒への手紙2:19〜20に、こういう御言葉が記されています。
従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。
キリストに招かれ、一つの教会=キリストの体に加えられ、キリストの平和にあずかる者とされたならば、その人はもはや、外国人や寄留者といったお客さんではない。その人は、聖なる民に属する者、神の家族として、永遠に忘れられることのない大切な一員。それぞれにふさわしい役割と責任を与えられた一人なのだ。そのような生きる場所を与えられることが、キリストに招かれて、キリストの平和にあずからせていただくことなのだと、そこでは教えられています。
キリストの平和にあずかる者として、神の聖なる民、神の家族として生き、歩む。それは、わたしたちが、教会の群れの営みということを考えていく上で、大切に受けとめていくべき教えでありましょう。そして、この教え=御言葉と合わせてわたしたちが繰り返し受けとめ直し、とらえ直したい教えが、今日、わたしたちに与えられているペトロの手紙一に記されている教えです。
愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。(11節)
教会とは、またキリスト者として生きる者とは、この世にあって、いわば旅人=寄留者、仮住まいの身なのだというのです。特別な教えではありません。聖書の中でも繰り返し語られる教えです。たとえば、使徒パウロの教えに、「わたしたちの本国は天にあります」(フィリ3:20=口語訳「わたしたちの国籍は天にある」)という言葉があるのを、思い出してくださる方があると思います。
わたしたちは外国人や寄留者ではなく神の民、神の家族であるという教えと、わたしたちはこの世にあっては旅人=寄留者、仮住まいの身であるという教え。一見すると矛盾しているようにも思える二つの教えですが、これらを、一つの事柄の二つの側面として、よく受けとめたいと思うのです。
従うこと、善を行うこと、苦しみを受けること
ペトロの手紙一は、主イエスの一番弟子であったペトロの名によって記された手紙です。ペトロは、伝承によれば、ローマ皇帝ネロの迫害によって、紀元67年頃に逆さ十字架につけられて殉教したとされる人物です。教会の最初の指導者の一人であるペトロが宣教して歩いた時代に、すでに、迫害の激しい地域では、多くの教会が、文字通り地下に潜ることさえして秘密裏に集会を守るようになっていたといわれます。一方で、その時代、キリスト教会の出てきたルーツであるユダヤ教の社会では、愛国的なユダヤ人たちを中心に、ローマ帝国に対する武力を用いることを辞さない闘争運動が激しさを増していっていました。そのような時代に、誕生して間もないキリスト教会で信仰を持って生き始めていたキリスト者たちは、自分たちが、何のために、どのようにして、信仰者として生きていくのか、その人生の目的と生き方とを真剣に問い続けていたに違いありません。
ペトロの手紙は、キリスト者とは、この世を生きていく上では、いわば旅人であり、仮住まいの身なのだといいます。それが、キリスト者のアイデンティティの一つだというのです。別言すれば、キリスト者には、天の本国があり、そこに至るまでの間は、この世にあって仮住まいで《よそ者》として生きていく者なのだというのです。そのような者として、キリスト者は、この世にあって異教徒の間で立派に生活すべきだと、ペトロの手紙は教えます。すべて人間の立てた制度に従いなさい。統治者としての皇帝、皇帝が派遣した総督、雇い主である主人に服従しなさい。心から恐れ敬って従いなさい。そのように教えるのです。
わたしたちは、確かに、キリスト者だからといって、この世の社会制度を否定して生きるわけではありません。閉鎖的な共同体を造り上げて、独自の生き方をするわけではないのです。むしろ、意識して、教会としても、また一人のキリスト者としても、この世の法律を守り、世の人々の常識と外れないようなお付き合いをします。できれば、世間から評価されたいとさえ思って生きます。仮住まいの《よそ者》だからこそ、周囲の評判に気をつけて生きようとするのです。
しかしながら、それと同時に、どんな権力に対しても従順であるべきなのか、場合によっては、不当な権力の濫用に対しては、抵抗し、不服従を貫くべきなのではないか、少なくとも、表面上は服従しても、面従腹背で賢く服従しない道を求めていくべきなのではないかとも、わたしたちは考えるのではないでしょうか。
ペトロの時代の教会は、キリスト者たちに、権力に従順な、善良な市民として生きることを教えたのでしょうか。できるだけ身を低くし、火の粉をかぶらないようにして、自分の身を守って生きていくことを教えたのでしょうか。
実際には、ペトロの時代以降、教会は確かに多くの場合、地下に潜るなどして身を低くして歩みましたが、その同じ教会に連なるキリスト者たちが、むしろ、キリスト者ゆえにこうむる苦しみを甘んじて受けながら、それでも徹底して権力に対して服従する生き方を、この世の人々の前で示していった。その結末は、しばしば、殉教という結果であったと、歴史は伝えています。
わたしたちが、その先人たちの生き方から心に留めたいと思うことは、彼らが、権力に対する抵抗の末に殉教したのではなく、むしろ、権力に徹底して服していく中で殉教していったという点です。それは、まさにペトロの手紙が教えていた生き方に沿った結果であった。そのことを心に留め、思い巡らしたいのです。
牧者キリストの模範
ペトロの手紙は教えるのです。この世の制度と権力者とに服従しなさい。そこでこうむる苦しみを甘んじて受けなさい。そのために、あなたがたはキリスト者として神に召されたのだ。そのような生き方を、キリストはあなたがたに模範として残され、後に続くようにと教えられたのだ。
主イエス・キリストは、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになり…そして、十字架にかかって死なれたのです。キリストは、一体何のために、そのように生き抜かれたのか。それは、わたしたちの罪を担ってくださるためであった。わたしたちが、罪に対して死に、義によって生きるようになるため、わたしたちがいやされるためであった。つまり、わたしたちが、本当に生きる意味を知るようになるため。生きることの本当の喜びを知るようになるため。そのためにこそ、キリストは、この世に(そして、わたしたちに!)徹底して服従されたのです。服従することによってこうむる苦しみを、敢えて、甘んじて受けられたのです。そうすることによって、キリストに服従されたこの世に対して、つまりわたしたちに対して、本当に与えられた命のうちに生きることの意味を、お示しくださったのでありましょう。
互いに他者を支配しようとすることによってではなく、互いに服従することによって、命を与え合うことによって、与えられた命を本当の意味で生き切ることができる。生きることの喜びを知ることができる。それは、ある意味で理屈を越えたことです。しかし、キリストの徹底した服従が、その服従の結果としての十字架の死が、わたしたちをキリストのもとへと引き寄せるのです。わたしたちは、キリストが徹底して服従してくださることに触れたとき、その命をさえ差し出してわたしたちに服してくださることを知ったとき、キリストにとらえられた。キリストのお示しくださる命のうちに生きる意味にとらえられ、その喜びを分かち合わずにはいられなくなった。自分もまた、キリストの足跡に続いて、徹底して服従する道、敢えて不当な苦しみをさえ受ける道に、一歩、もう一歩と、踏み入れずにはいられなくなった。それが、わたしたちキリスト者の歩みであるのです。
旅人として、寄留者として、仮住まいの身として、自分の身を軽くして生きるとき、わたしたちは、キリストの足跡に続き、その模範に倣って歩む勇気を、大いに与えられるのかもしれません。キリストは、わたしたちを召し集めて、新しい信仰の旅へと導いてくださっています。たくさんの荷物を抱えて大邸宅に引きこもっているのではなく、最小限の荷物だけを携えて、キリストの先立ち行かれた信仰の旅へと加わることを、主はわたしたちに望んでくださっているのです。この旅をするわたしたち教会の群れを、キリストはご自身、羊飼いとして、牧者として、模範を示して導いてくださっている。旅慣れないわたしたちを、慣れない仮住まいに生きるわたしたちを、キリストが確かに守り導いてくださるのです。
この旅に加わる者の心得、信仰者としてこの世の仮住まいに生きる者の心得。それは、ただ一つ。わたしたちの牧者として模範を示してくださるキリストを信頼し、そのお姿、その振る舞いに、わたしたちの注意を向け続けることです。
祈り
主なる神。恵みにより召されて、主に従う旅に加えていただきました。主の服従に倣い、服従に生きる者、命を互いに与え合う者とならせてください。アーメン
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