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主日礼拝説教「ひざまずいて祈る」 日本基督教団藤沢教会 2008年9月7日 11ソロモンは主の神殿と王宮を完成し、この神殿と王宮について、行おうと考えていたすべての事を成し遂げた。12その夜、主はソロモンに現れ、こう仰せになった。 「わたしはあなたの祈りを聞き届け、この所を選び、いけにえのささげられるわたしの神殿とした。13わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、14もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。15今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。16今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。17もしあなたが、父ダビデが歩んだように、わたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことをことごとく行い、掟と定めを守るなら、18あなたの父ダビデと契約して、『あなたにはイスラエルを支配する者が断たれることはない』と言ったとおり、わたしはあなたの王座を存続させる。19もしあなたたちが背を向け、わたしの授けた掟と戒めを捨て、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、20わたしは与えた土地から彼らを抜き取り、わたしの名のために聖別したこの神殿もわたしの前から投げ捨てる。こうしてそれは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。21かつては壮大だったこの神殿に、そのそばを通る人は皆、驚き、『この地とこの神殿に、主はどうしてこのような仕打ちをされたのか』と問うであろう。22そのとき人々は、『それは彼らが自分たちの先祖をエジプトの地から導き出したその先祖の神、主を捨て、他の神々に付き従い、これにひれ伏し、仕えたからだ。それゆえ、主は彼らの上にこのすべての災いをもたらされたのだ』と答えるであろう。」 (歴代誌下 7章11〜22節) 14こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。15御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 20わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、21教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 わたしは…祈ります 今日、わたしたちに告げられたエフェソの信徒への手紙の中からの御言葉は、この手紙を記した使徒パウロの祈りの言葉として記されているものです。 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。 そのように告げて、パウロはエフェソの教会の人々のための祈りを記すのです。 …どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 パウロが記している他の祈りの言葉を、皆さんは思い出していただけるでしょうか(エフェ1:15〜23、フィリ1:3〜11)。それを一つひとつ開いて読んでみればすぐに分かることですが、パウロは、いつも、「あなたがた」のための祈り、を記すのです。読み手がいる手紙ですから、それは当然のことかもしれません。そうであっても、パウロが、手紙を通して、信仰の仲間であり神の家族である一人ひとりに、ただ教えや勧めの言葉を送ったのではなく、合わせて祈りの言葉を送っていたということを、わたしたちは、心に留めたいのです。 わたしたちは、信仰の仲間のために祈ります。神の家族に連なる一人ひとりのために祈ります。もちろん、肉親の家族のためにも、祈るでしょう。「あなたのために、祈っています」と、直接告げることもあるに違いありません。そのときに、わたしたちは、何を祈っているのでしょうか。わたしたちは、何を祈るべきなのでしょうか。祈りを通して、どんな期待と希望を伝えるべきなのでしょうか。 心の内にキリストが住まわれるように パウロが書き記して送った祈りの言葉の内容は、決して難しくはないと思います。解説しなくても、皆さん自身が、何度でも口に出してお読みくださり、味わっていただけばよいのだと思います。そして、皆さんお一人おひとりの、ご自分の祈りの言葉としてくださればよい。ちょうど、主イエスがお教えくださった主の祈りを暗誦しているように、また主イエスが様々な場面で祈られた祈りの言葉を暗記しているように、わたしたちは、パウロを初めとする信仰の先達の祈りの言葉を、憶えてしまうほどに繰り返し唱えてみても良いと思います。 「他人の祈りの言葉など、自分では唱えたくない」と思われるかもしれません。確かに、借り物の言葉をいくら唱えてみても、口先と心とが分裂してしまうことがあります。いくら良い言葉であっても、他人の言葉は、なかなか自分のものにはならないのです。それよりは、つたなくても自分の言葉で祈ったほうが、真実に自分の祈りの心を表しているように思える。それも、そのとおりだと思います。 けれども、こういうこともあるのではないでしょうか。私たちの祈りとは、自分の心の中から湧き出てくる思いの丈を言い表せば、それで、本当に祈りとなるのだろうか。そういった祈りは、祈りの形を整えた独り言に終わってしまうことが、あるのではないだろうか。祈りの形を取った、周囲の人に対する訴えで終わってしまうことが、あるのではないだろうか。 パウロがここに記している祈りの言葉を見ると、わたしは、そこに祈りの神髄があるように思わされます。 パウロは、こう祈るのです。あなたがたが、天の父なる神の霊により、力によって、内なる人を強められるように。信仰によって、心の内にキリストを住まわせていただくように。そして、そうすることによって、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としていただくように。そのように祈るとき、パウロは、わたしたちの心の内で、キリストという内なる人が力強くお働きを始めてくださることを期待し、祈っている。しかも、それは、わたしたちに内の一部をキリストが占めるというような、ケチな話ではない。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、と言っているように、わたしたちの内に宿るキリストが、その愛が、わたしたちの考えを越えるほどまでに大きく豊かになり、わたしたちの内を占めてしまうようになることを、期待し、祈っているのです。神の満ちあふれる豊かさに満たされて、わたしたちの内が、わたしたち自身のものではない、神のものによって充満することを、期待し、祈っているのです。 キリストが、わたしたちの心の内においでくださり、わたしたちの内側を大きく占めてくださる。わたしたちの小さな思いによってではなく、その豊かな愛で満たしてくださる。そのとき、わたしたちは、内に宿るキリストが祈るべき言葉を与えてくださることを知るようになるのではないでしょうか。心の内に、自分の思いを訴える言葉が充満するのではなく、キリストが祈るべき言葉を与えてくださる。神の御前に立つことのできる祈りの言葉を与えてくださる。そのことを知るようになるのではないでしょうか。 夏休みに、テーマパークに娘を連れて行ったところ、そのテーマパークのキャラクターをあしらった大きな風船が欲しいとせがまれました。娘に甘い父親は買ってやり、帰りの電車で注目を浴びながらも、必死になって持って帰ってきました。しかし、日が経つにつれて風船はしぼんできてしまい、何となく哀れな姿に変わってきてしまいました。ところが、当の娘は、「もう写真も一緒に撮ったからいいの」と言って、ほったらかしにしてしまいました。確かに、風船は、パンパンに膨らましているときには大いに魅力的ですが、そのうちにしぼんでしまうと、つまらない存在になってしまいます。中は空気が入っているだけで、本当の中身はないからです。そこで思い出したのが、同じテーマパークで園内を走り回っていた、着ぐるみのキャラクターたちです。まるで、本当にそのキャラクターが生きているようなのです。着ぐるみであることは明らかなのに、来園客は大喜びをして追いかけ回す。サインまでしてもらう。風船を欲しがらない大人たちでも、着ぐるみのキャラクターには心を奪われるのです。そのようなことが起こるのは、キャラクターの魅力そのものだけによるのではないと思います。その着ぐるみを着て、その中でそのキャラクターに命を吹き込んでいるスタッフの努力の結果でありましょう。それが、何よりも重要なのではないでしょうか。 キリスト者は「着ぐるみ」のようなものだと言ったら、おかしいでしょうか。けれども、わたしたちの内でキリストがお働きくださるということは、そのような「着ぐるみ」としてわたしたちが生きる、ということなのだと思います。わたしたちの頭のてっぺんから足の先まで、指先の一つひとつまで、わたしたちの内側に入って、それを十分に満たしてくださる方、キリストがお働きくださるときに、本当にわたしたちの生きるべき命が吹き込まれるのです。それをしてくださるのが、キリストであり、キリストをお送りくださる神の恵みなのです。 御前にひざまずいて パウロが、ここに記した祈りの言葉を、「わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」と始めていることを、最後に心に留めたいと思います。 わたしたちは、ひざまずくという習慣を無くしてきてしまいました。確かに、キリスト教会は、その最初から、立って祈ること、立ち上がって天を仰いで祈ることを、大切にしてきました。それでも、初期のキリスト教会の礼拝で、ひざまずいて祈ることが捨てられたわけではなかったと言われます。礼拝の最初に悔い改めの祈りを献げるときには、信者も未信者も皆、ひざまずいて祈ったのです。そして、悔い改めの祈りが終わると、信者だけは立ち上がって続く祈りを祈り、未信者はなおひざまずいたままで礼拝の祈りに加わったといいます。本当にひざまずいて悔い改めの祈りを祈ることができた者だけが、復活のキリストに結ばれて立ち上がらせられて、神の御前に新しい祈りの歩みに加わることができると考えられたからです。 ひざまずくこと。それは、相手の支配に屈することです。目の前にいる方の権威と権力を認めて、本当に自分の弱さをその方の前にさらけ出すことです。そのような姿勢を示すときにこそ、目の前に立つ本当に力ある方が与えてくれるもの、豊かな恵みにあずかる者とされるのです。 わたしたちが父なる神の御前に、本当にひざまずくとき。そのときにこそ、わたしたちは、わたしたちの内にキリストをお送りいただくことができる。本当に、わたしたちの内にキリストにお住まいいただくことができる。わたしたちの内で、キリストに大いにお働きいただくことができる。パウロの祈りの姿勢は、そう教えているのだと思います。 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 祈り 主なる神。パウロと共に御前にひざまずいて祈ります。霊と御力をもって、キリストを、わたしどもの内なる人として住まわせてくださいますように。アーメン
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