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敬老の日合同礼拝説教「富と知恵と知識と」

日本基督教団藤沢教会 2008914

13 いかに幸いなことか、知恵に到達した人、英知を獲得した人は。

14 知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、

彼女によって収穫するものは金にまさる。

15 真珠よりも貴く、どのような財宝も比べることはできない。

16 右の手には長寿を、左の手には富と名誉を持っている。

17 彼女の道は喜ばしく、平和のうちにたどって行くことができる。

18 彼女をとらえる人には、命の木となり、保つ人は幸いを得る。

19 主の知恵によって地の基は据えられ、主の英知によって天は設けられた。

20 主の知識によって深淵は分かたれ、雲は滴って露を置く。

(箴言 31320節)

 

33ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

34「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。

だれが主の相談相手であっただろうか。

35   だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」

36すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。   

(ローマの信徒への手紙 11章25〜36節)

 

お年寄りと共に過ごす

今日は、教会の子どもからお年寄りまで一緒に一つの礼拝を守る「合同礼拝」です。おおよそ小学生以上の子どもたちと大人の人たちが、この合同礼拝に集まりました。本当は、早朝礼拝に来ている小さな子どもたちも皆一緒の合同礼拝になれば良いと思っています。いつかは、そのような合同礼拝で、藤沢教会に結びついている人たちが、赤ちゃんからお年寄りまで全員、一緒に礼拝を守りたいのです。教会は「神の家族」と言われます。家族であれば、家族にとって大切なことほど、家族が全員そろって一緒にするものです。お祝いのことであれば、なおさら、全員がそろって一緒にできるように、工夫したり、心配りをしたりします。だとすれば、「神の家族」の教会は、大切なとき、お祝いのときは、できれば全員がそろって一緒に礼拝を守りたいし、皆でお祝いをしたいと思います。

今日の「合同礼拝」は「敬老の日」の合同礼拝です。「敬老の日」は、教会だけの行事ではありません。日本中で「敬老の日」の行事が行われます。お年寄りの人たちが、これまで世の中のためにたくさん働いてきてくださったことをおぼえて、尊敬と愛をもって、長寿をお祝いします。百歳以上のお年寄りが、今は日本中で三万人以上いらっしゃるそうですが、町によっては、市長さんがそういう特別に長寿の方を訪ねて、皆でお祝いしたりすることもあります。「子どもの日」が、子どもたちの健やかな成長を祈るお祝いの日であるように、「敬老の日」は、お年寄りの健やかな長寿を祈るお祝いの日だと言ってよいでしょう。ですから、教会でも、この日に合わせて、神の家族の教会全体でお祝いの気持ち、祝福の祈りを一つにするために、子どもたちと大人が皆一緒に、合同礼拝を守るのです。

子どもたちの中に、お祖父さんお祖母さんと一緒の家に住んでいる人がいますか。大人の人はどうでしょうか。お年寄りの世代と若い世代、孫たちの世代が、一緒の家に住んでいる人は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。

私は、生まれたときから、祖父母のいる家で育ちました。祖父は私が中学生の頃に亡くなりましたが、祖母は、私が結婚して家を出るまで、ずっと一緒に過ごしました。大きな家でしたが、今よくある二世帯住宅のように、お年寄りの部屋と若い世代の部屋とが完全に分かれている、という家ではありませんでしたから、家にいるときは、祖父母がいつもすぐそばにいるのが当たり前でした。

一つの家で一緒に生活するということは、ときには喧嘩もするということです。子ども同士だけでなく、親子で、大人同士で、そして孫と祖父母で、喧嘩をします。特に私の家は、子ども(私の兄弟)が五人いましたから、その分、人と人が衝突することも多く、いつもとても騒がしい家だったと思います。母親に叱られたり、兄弟げんかをしたりすると、大騒ぎで祖父母の部屋に駆け込んで、助けを求めたりしたことを思い出します。ですから、もしかしたら、私の祖父も祖母も、ときには自分たちだけで静かな家で生活したいと思っていたかもしれません。

子どもであった私たち兄弟にとっても、祖父母は、いつも優しく助けてくれる存在であったわけではありません。ときには、祖父母から厳しく叱られたり、懇々と教え諭されたりしたこともありました。父親、母親から叱られるばかりでなく、祖父母からも叱られる。そういう意味では、私の兄弟たちは、子どものときに、お祖父さんお祖母さんのいない他の家の子どもよりも余計に、大人から叱られる経験をしたかもしれません。けれども、そうであっても、私は、祖父母と一つの家でいつも一緒に過ごすことができたことを、とても幸せなことだったと思っています。祖父母から、父親、母親からはもらえない物、教えてもらえないことを、たくさんいただくことができたと、今は思っているからです。

 

富・知恵・知識

教会には、神に集められた神の家族がいます。赤ちゃんからお年寄りまで、いろいろな人が、この家族の中にいて、いつもは別々の家で生活しているかもしれませんが、日曜日だけはここに集まって、一緒に礼拝を守ることを通して、お互いに神の家族なのだと確かめます。ここで、子どもたちは、たくさんのお年寄り、神の家族のお祖父さんお祖母さんに出会います。高齢の皆さんは、ここで、たくさんの子どもたち、神の家族の孫たちに出会います。普段は一緒に過ごすことがほとんどないかもしれないお年寄りと子どもたちが、また大人たちが、共に過ごし、出会っています。私たちは、ここで、お互いに、たくさんのものを与え合い、受け取り合うという歩みを、神さまから与えられていることに感謝したいのです。

子どもたちにとって、大人、特にお年寄りの人からいただくことのできるもの、受け取るものは、どのようなものでしょうか。

私は、子どものころ、祖父母は、《富》つまりお金や財産をたくさん持っていると思っていました。お年玉を一番たくさんくれるのは、いつも祖父母でしたし、祖父母さんの部屋に遊びに行くと、とてもおいしいお菓子を出してくれたり、めずらしい物をいろいろと見せてくれたりしました。私が大人になってから分かるようになったことですが、私の祖父母は、そんなにお金持ちではありませんでした。でも、子どもの私は、一番たくさん良い物を持っているのが、祖父母なのだと思っていたのです。そして、今でも、昨年亡くなった祖母を思い出しながら、「お年寄りの人たちは、神さまから、それぞれに必要なだけの《富》、お金や持ち物を預けられているのだ」と思っています。

また、私は、子どものころ、祖父母は、父親や母親よりももっと良い《知恵》をたくさん持っていると感じていました。皆が一緒に生きていくための《知恵》、人とつきあっていくための《知恵》、また、もっと日常的な生活の《知恵》を、私は祖父母からたくさん教えてもらったように思います。長い人生を歩んできたお年寄りは、何でも良く知っている物知りでなくても、生きていく上でのたくさんの《知恵》を持っていらっしゃるものです。それを、私たち若い世代、子どもたちがいただこうとしないとしたら、とてももったいないことだと思うのです。

そしてまた、私は、子どものころ、祖父母が知っている《知識》に、驚かされたことを覚えています。私の祖父母は、昔のことを良く知っていて、知っていることをよく話してくれたのです。今考えてみると、それは、当たり前かもしれません。祖父母が自分の生きてきた時代に見たり聞いたりしてきたことを、話してくれていたということなのですから。けれども、私は、学校で歴史を習う前に、大正時代の学校のこと、関東大震災のこと、太平洋戦争のことなどを、祖父母から聞かされて、とても驚いたし、自分でも関心をもって調べるようになりました。長い人生を経験してこられたお年寄りは、幅広い《知識》ではないかもしれませんが、その人生の歩みと結びついた《知識》を持っていらっしゃる。そのような《知識》に触れさせていただくときに、私たち若い世代や子どもたちの《知識》が、本当の意味で生きた《知識》となっていくのではないかと、私は思うのです。

《富》と《知恵》と《知識》。そういったものを、お年寄りは、特別な形で持っていらっしゃる。それは、神さまが、長い人生を歩んでこられた一人ひとりに与えてくださっているものなのだと思います。そして、それを次々に受け継いでいくことを、神さまは望んでいてくださっていると思うのです。

 

神から出て、神によって保たれ、神に向かう

ところで、これで話しを終わりにするわけにはいきません。教会に来ているお年寄りの人たちは、世の中のお年寄りたちは持っていないかもしれない、特別なものを持っていらっしゃる方たちだからです。私たちは、教会に来ているからこそ、神さまの家族だからこそ、お年寄りの人たちから受け渡してもらえるものがあるのです。それは、信仰です。神さまを信頼する生き方です。神さまがすべてのことを備え与えてくださると信じて生きる人生の幸いです。

パウロの記した言葉を聞きました。こう言っていました。

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

お年寄りは、神さまから特別な富と知恵と知識を与えていただいている人たちだと、先ほど言いました。けれども、神さまを信じて歩んでこられたお年寄りは、その自分に与えられている富や知恵や知識とは比べものにならない、神さまの富と知恵と知識のその深さを、ずっと深く知るようになっていらっしゃるに違いありません。もしかしたら、若いころには、神の定めを究め尽くそう、神の道を理解し尽くそうと考えていらしたかもしれませんが、年を重ねられるに従って、神の定めを究め尽くすことも、神の道を理解し尽くすことも、人間には不可能なことなのだと、より深い意味で知るようになられているのではないでしょうか。少なくとも、私は、昨年亡くなった私自身の祖母や、教会に連なられるお年寄りの信者の皆さんの信仰の歩みに触れさせていただくたびに、そう確信するのです。

そのような信仰の深みを、お年寄りからこそ、教えていただくことができる。信仰の深みを知って人生を歩むことが幸いなことなのだということを、お年寄りから、受け継がせていただくことができる。パウロも、そのことを受け継いで、自分自身年齢を重ねた者として、記しました。

すべてのものは、神から出て、神によって保たれて、神に向かっているのです。

これは、私たちの人生の歩み方を教えている言葉だと思います。私たちは、まず、幼い日々、子どものときに、自分が神のもとから送り出されてきた者であると知るようになる。次に、成人して社会や家族を支えて生きる時期には、すべての働きや営みが神さまの与えてくださるものによって保たれ、行われるということを知るようになる。最後に、歳を取って人生の晩年を迎えたときには、私たちの人生の目標は神さまに向かうことなのだと知り、神さまの備えてくださる目的に向かって歩み続ける人生の最終コーナーを走り抜けていくのです。

私たちは、神の家族として集められています。この中で、神さまの与えてくださっている一人ひとりの富と知恵と知識とを受け継いでいきましょう。そしてまた、それ以上に、何よりも、神さまの富と知恵と知識のその深さを知って生きる人生の歩みを、共に受け継いでいきましょう。

 

祈り  

主なる神。小さな子どもから高齢者まで御前に共に集めてくださり感謝します。あなたの富と知恵と知識の深さを知る信仰を受け継がせてください。アーメン