印刷用PDFA4版2頁 |
---|
聖霊降臨節第21主日礼拝説教「キリストを生きる」 日本基督教団藤沢教会 2008年9月28日 ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。 (ヨブ記42章1-6節) 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他すべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のこと聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。 牢に捕らわれたパウロの裁判の行く末を心配するフィリピの教会の人々。それに対して、パウロは、自分の身の安全や見通しについて話すのではなく、むしろ福音の前進について語る言葉を送りました。パウロの入獄がもたらした周囲への影響は計り知れないものがありました。パウロの誠実で賢明な言葉と行ないによって、ローマ総督府の兵営の間で、キリストの福音が知られるようになりました。そしてパウロの仲間たちの間でも、福音の伝道を勇敢に、大胆にすることが導かれていきました。そして、もう一つの存在がここでは語られますけれども、それは、違うグループのクリスチャンについてです。別の共同体のクリスチャンの存在です。当時のクリスチャンの間では、しばしば党派心のようなものによって摩擦が起こりました。「わたしはパウロ先生につきます。」「いや、わたしはアポロ先生につく。」(Tコリント3章)といった内輪争い、そこからくる嫉妬心や、自分たちの名ばかりを高めようとする利己心があったのです。パウロはそのような人々の伝道を、動機は不純ながら、福音の前進として数え、大きな目でとらえています。けれども、パウロ自身の言葉で、「獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機」があった、とあるほどですから、このようなグループの存在を肯定していくことには、パウロ自身、非常な苦しみを伴うものであったことが思われます。しかし、パウロにはもっと大きなビジョンがありました。人間的な仕方での計算を超えて、福音の前進ということに一つ焦点を合わせていくのです。伝道を矮小化せず、大きくとらえていくのです。 私たちの教会では、去る6月に、日野原重明先生をお招きして、隣のカトリック藤沢教会の聖堂をお借りして、創立90周年記念の特別伝道講演会を行ないました。「ひとりが一人を」という合言葉をもって、教会に来たことのない方、まだ神様を知らない方をお誘いするのですから、招待したその方々の内に、もう一度教会に行ってみようかな、という気持ちが起こされた時に、まず足を運ぶのは、私たち日本基督教団藤沢教会ではなく、カトリック藤沢教会だ、ということが起こりうる、そのようなことを懸念していた中で、私たちの教会の牧師は、この際ケチな考えはやめて伝道しましょう、と言い放ちましたが、私たちの群れは、非常に素直にその言葉を喜んで聞いた、とそのように感じていました。福音の種蒔きをするというときに、私たちは、必ず実りと、その収穫を期待します。しかし、自分たちが刈り取るのでなくていいという思いを持っています。「受けるより与える方が幸いである」と言われた主ご自身のみ言葉(使徒20:35)に、アーメンと言うのです。「受けるより与えるほうが幸い」。パウロには、それを超えた実感がありました。回心して後、自らを与えて、自らを費やし、献げ尽くした伝道者の生涯を全うしたパウロは、自分がぼろぼろになりながらも、その伝道活動に喜びを感じていました。パウロの言葉からは、その喜びがひしひしと伝わってきます。「わたしの救いとなる」とさえ言っています。 いったい、パウロが言っているこの「救い」とは何であるでしょうか。獄中の苦しみの中で、パウロは、気が変になっているのでしょうか。痛みが麻痺してしまったのでしょうか。そうではないのです。「このことがわたしの救いとなる」と、こう一言パウロが口走った言葉は、旧約聖書のみ言葉です。本日、私たちに示されました旧約聖書のみ言葉、ヨブ記を読んでまいりますと、13章14節以下には次のような言葉あります。「わたしはわが肉をわが歯にまかせ、わが生命をわが掌の中に置く。たとえ神が私を殺すとも、わたしはただ待ってはおられない。ただわが道を、神に面と向かって申し立てよう。それがわたしにとって救いとなるのだ。なぜなら、神を知らぬ者は彼の前には出られないからだ。」(ヨブ13:14-16)。身に覚えのない苦しみの中で、苦難の人ヨブが語った言葉です。今、私が読みましたのは、私たちが用いている新共同訳とは違う訳語でありますが、実際、パウロは旧約聖書をギリシャ語に訳した、70人訳という聖書を使っていました。パウロの手紙において、しばしば引用される(旧約)聖書のみ言葉は、ギリシャ語に訳された、この70人訳といわれる聖書のみ言葉です。「このことがわたしの救いになる」というパウロの言葉は、70人訳聖書の中で、ヨブが語る告白と、全く同じ語順の同じ言葉です。理不尽な苦痛の中での、神様の沈黙。その中でヨブが固執した「わたしにとっての救い」(13:16)、これをパウロは一心に見つめました。パウロは、捕らわれの身となった生活の中で、この苦難の人ヨブの書、ヨブの苦しみと、自分の苦しみというものを重ね合わせていました。苦しみの中で、ただ神の救いに固執するのです。神しか、この悲惨に応えるものはない。神の他、本当に慰めうるものはない、という深い信頼を繰り返し、このみ言葉を口にしつつ、祈っていたのでしょう。 なぜ、自分がこのような目に遭わねばならないのか?そのような問いが、パウロの頭をよぎらなかったと誰が言えるでしょうか。非常に劇的な仕方で、復活の主イエス・キリストと出会い、目からうろこが落ちるような鮮やかな回心を経験し、キリストを証してきたパウロは、しかし、自ら書き送った手紙の中で、自分の弱さや痛みというものを告白しています。自分にはトゲがある、と話しています。できれば取り除いてほしいと、苦痛に声を漏らすことがありました。そうしてとうとう牢に入り、パウロは、生と死という問題に悩みを深くします。生きるのか、死ぬのか。それは、当然、裁判にかけられて、解放されるか否かということがあったでしょう。フィリピの教会の人々はそこをこそ、不安に思っていました。しかしパウロは言います。私の身を案じて一喜一憂するのはやめなさい。むしろ、私の生き方を通して、そして死を通して、神を見つめなさい、ということなのです。いや、パウロ自身が、非常に緊迫した状況に直面して、自らの生命とは何か、死とは何であるか、深く考えざるをえなかったと言ってもいいでしょう。パウロは言います。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」死ぬことは、得ることなのだと言います。地上での命には、神様との間に肉の隔てがあります。肉の思い、つまり人間の罪が、神様との間に隔ての壁を作り出してしまうのです。神様の義しさから逃げようとする誘惑に出会います。神様の眼差に身を隠そうとする思いに駆られます。しかし、そういった肉の思いを抱えながらも、私たち人間は心の深いところで呻いている、それをやめたいと願っているのです。神様に造られたものすべて、この地上でからだを持つすべてのもが、この呻きの中にあります。だからこそ、パウロは、死んで、キリストとの隔てを全く取り除かれることを熱望するのです。しかしまた、死んでキリストとの深い結びつきを得る方がずっとすばらしいことなのだ、と語りながらも、パウロは生きる道を考えます。肉体がつくる、キリストとの間の分離の壁はあるが、しかし、その肉の汚れを洗う洗礼の出来事を、パウロは経験していたからです。肉のものでありながら、キリストに属するものとなったその洗礼を経験していたからです。汚れた者でありながら、聖い者として歩む。罪人でありながら、同時に神の義しさに歩む、キリストにおいて歩む歩みが与えられている。そこに、パウロは自らの大きな使命を受け止めました。残りの生涯のすべて献げよう、そういう伝道の熱心に導かれるのです。 キリストを信じることのみならず、キリストのために苦しむことも、賜物としていただくのだ。パウロは、牢獄の暗闇の中で、旧約聖書の苦難の人、ヨブと自分を重ねました。ヨブの信頼をもって、神様に嘆きました。そして、その激しい祈りの中で、神様の十字架が近いことを知って行くのです。神様が、「十字架にかけられた神」という姿で、私たちを憐れんでくださったという事実に深く、深く、入って行くのです。 ある神学者は、次のように語りました。「ある人が、とっぴな問いを出しました。『最も希望のない場所は世界のどこにあるのか?』という問いです。あなたはどう思うだろうか?」そう問いかけます。「ある人は、長い患いで衰弱しきっている者の病床を思い浮かべるかもしれない。あるいは強制収容所の拷問室を考えるかもしれない。あるいは、その中に押し込められるガスオーブンの一つを。あるいは死刑囚が刑の執行を待つ暗闇の独房を。あるいは盲目となった広島の犠牲者の一人の実存を。あるいは私の知らない、何らかの最も深い絶望の場を考えるのかもしれない。しかし、真にこの世でもっとも希望のない所とは、決して神を放棄したことのなかった人が、神ご自身によって見棄てられ、十字架にかけられたところである。」キリストの十字架の出来事である。キリストは、神の子としての見るべき面影もなく、軽蔑され、見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っておられます。キリストは、最も屈辱的な十字架の上で絶叫しつつ、ご自身の血を流されました。そしてキリストは、私たちが経験しうる悩みや苦しみの全てを経験されました。その根源にある私たちの罪をも全て究め尽くし、ガチガチになった罪の結び目を、解いていってくださるのです。私たちが、ガチガチの心を取り除き、柔らかい心へと変えてくださる。キリストがお住まいになる柔らかい心へと変えてくださるのです。 「キリストを生きる」とは、十字架上で死に、三日目に復活せられたキリストの生命を生きることです。裏切りや苦しみ、死に至る苦難を経験した主イエスが、復活し、永遠の生命を与えてくださったということが私たちの望みです。その希望があるからこそ、私たちは、試練の時、一寸先も見えないような闇の中を歩く時、いつも十字架の主イエスと共に生きていることを感じさせていただくのです。私たちは、それによって、自分の人生というものが、順風満帆の時にも、歯軋りするような辛さを覚える時にも、死ぬときにさえ、自分のものではない、キリストのみ業が働かれるところであることを、身をもって知っていくのだと思うのです。パウロは、この手紙の中でまた、フィリピの教会の仲間にこう書き送っています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(3:10-11)このパウロの祈りを、私たちも今、共に希望として祈り求めたいと思います。 |