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降誕前第9主日説教「日々、主を楽しませる者」 日本基督教団藤沢教会 2008年10月26日 知恵が呼びかけ 英知が声をあげているではないか。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」「だから、だれでも人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
本日の箴言の言葉からは、主なる神の<創造>ということが大きなテーマとして聞きとることができます。朗読されました言葉の多くは、神の<創造>を語る言葉であります。「主が天をその位置に備え 深淵の面に輪を描いて境界とされた」(27節)、「主が上から雲に力をもたせ 深淵の源に勢いを与えられた」(28節)、「この原始の海に境界を定め 水が岸を越えないようにし 大地の基を定められた」(29節)。この神の<創造>の讃美を、私たちは今日、招きの讃美として耳を澄ませて聞きました。また、聖書の御言葉への応答として、共に讃美をいたしました。本日はまた、午後にも教会音楽祭で聖歌隊の兄弟姉妹が、教会の外にまでその讃美を運んでくださることです。
さて、この箴言の第8章において、神の<創造>は、「知恵」が証言する言葉で語られています。「主は、その道の初めにわたしを造られた。」(22節)とあります。知恵が、神の<創造>の初めであり、地と海、山と丘がおかれる前から造られていたということ(24-26節)、そしてまた、天地の創造と万物の定められるとき、すでに存在していたのだ(27-29節)、という知恵の証言が続きます。知恵は、世界の何よりも先に作られたことで、神の<創造>の場面に居合わせたのだ、と言います。この知恵の言葉を聞いて、新約聖書のヨハネ福音書の冒頭の讃歌を思い起こされる方があるのではないでしょうか。「初めに言があった。言は神と共にあった。……万物は言によって成った。成ったもので言によらずになったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1,3)、という言葉です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)この「言」とは、人となられた神、イエス・キリストを示します。「初めにイエス・キリストがあった。イエス・キリストは神と共にあった。イエス・キリストは神であった。…万物はイエス・キリストによってなった」、「イエス・キリストは肉となって、わたしたちの間に宿られた」、こういった具合に置き換えることができます。万物の創造の初めにおられた、イエス・キリストと、本日、私たちが聞いています「知恵」とは、非常に似たものを感じ取ることができます。新約聖書の他の箇所ではまた、キリストは「神の知恵」であるとも記されています(Tコリント1:24)。
この言葉からまた、私たちは、箴言の語っている神の<創造>が、単なる原初の<創造>物語の情景描写でない、ということに目が開かれていきます。神は、「神の知恵」によって、つまり、キリストにおいて世界をお造りになったということ(箴言3:19; コロサイ1:16)です。神は、この世界を、混沌ではなく、本来、秩序を持つものとして造られました。世界は、この神の秩序によって、生かされ、導かれてきたのです。しかし人間は、その世界の中で、神の秩序に従い、「神の知恵」を求める道を歩んできたとは言えません。むしろ、人間の知恵ばかりを求めた歴史を積み上げてきました。
私たちは、この聖書の時代から比べれば、人間の知恵の、ある到達点に来ている、そういう時代を生きていると言っても過言ではないでしょう。私たちの教会では、現在、この教会堂の耐震診断を緊急の課題としておりますが、これは、数年前に耐震偽装の事件が起こり、表面化してきた新たな問題であったと言うことができるかと思います。聖書には、もちろん耐震偽装のような事件は書かれていないわけですが、しかし建造物ということで言えば、原初の物語に、「バベルの塔」という有名な物語があります(創世記11:1-9)。「天まで届く塔」のある町を建てることを目指した、人間たちの「バベルの塔」の物語です。天まで届く塔によって、名をあげ、神のようになることを願った彼らの企ては、しかし、真の神の介入によって脆くも崩れ去ります。彼らは、散り散りに全地と散らされ、町の建設はたちまちに挫折させられるのです。「バベルの塔」の物語は、私たちの時代には、もはや重ねることはできない話でしょうか。建物に崩れる心配があることを知り、必死になって耐震のための原理を追究する時代となりました。コンクリート造りの高層ビルが、数々立ち並ぶ今、大地の震動に耐えうる能力を建築素材の中に埋め込もうとする、人間はそういった域にまで踏み込みました。コンクリート造りの建物が崩れやすい、という問題が出てきた時、私たちは、その建物を低くすることは考えません。むしろ、高い建物が、高いままで、揺れやすく折れにくい構造に、ということを考えるのです。人の発想とは感心なことだ、と思わされます。しかし、立ち止まって考えますと、人間の発想は、多くの場合「人間の知恵」を求める方向へと傾いてしまいやすいものであることに気づきます。
一方、聖書は、絶えず私たち人間に、心を開いて「神の知恵」に目を向けるよう促しています。旧約聖書、ヨブ記の第28章には、「神の知恵の賛美」という小見出しの付けられた、次のような詩が置かれています。「銀は銀山に産し 金は金山で精錬する。鉄は砂から採り出し 銅は岩を溶かして得る。人は暗黒の果てまでも行き 死の闇の奥底をも究めて鉱石を捜す。……鉱石にはサファイアも混じり 金の粒も含まれている。猛禽もその道を知らず 禿鷹の目すら、それを見つけることはできない。獅子もそこを通らず あの誇り高い獣もそこを踏んだことはない。だが人は、硬い岩にまで手を伸ばし 山を基から掘り返す。岩を切り裂いて進み 価値あるものを見落とすことはない。……では、知恵はどこに見いだされるのか 分別はどこにあるのか。人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない。深い淵は言う 『わたしの中にはない。』 海も言う 『わたしのところにもない。』」
この詩の前半は、一見、人間の能力の勝利を語っているかのようです。しかし、この詩は続けて、人間の限界を語るのです。この洞察は、時代を経ることによって色あせるものではありません。現代を生きる私たちは、「人間の知恵のある到達点に来ている」、と先に申しました。その「到達点」とは、人間の能力の達成、ということではありません。人間が直面した「行き詰まり」や「限界」という意味でもあります。ヨブ記の記す言葉は、聖書の時代から何千年もの時が経過し、人間の文化が発展を遂げた今であるからこそ、いよいよ鮮明に、私たちの耳に響いてくる言葉なのではないでしょうか。今日、自然のメカニズムについて、私たちに多くを教えてくれる自然科学さえも、究極的な問いの前に、立ち尽くします。自然科学は、この万物の創造の事実を検証することができても、その意味までは、知らせてくれません。「なぜ?」という問いの前に、私たちは沈黙するのです。不条理が起こる、その度に、この「なぜ?」に出くわします。法則通りにならないことが起こってくる、その度に「なぜ?」と問うのです。しかし、「知恵」の探求が、ここからこそ、始まります。この世界はまったく謎に満ちている、と首をかしげる時、この世俗の現実の中に、神の導きを見出していく歩みが始められるのです。「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる。」(ヨブ28:23)。
これは、聖書が語る一つの答えです。ここで人間は、神という究極的存在に出会うのだということです。あるいは、この答えに満足しない人もあるかもしれません。私たち人間が、「神の知恵」、神の道というものを探求し、それに親しむことによって得られるものとは、いったい何であるのか。すぐさま、神との出会いを押し退けて、ただその出会いの意味を問うのです。しかしその問いを発する時、一つの答えがまた、返ってきます。それは、「喜び」。喜ばしい関係。神との出会いの意味は、喜ばしい関係にある、という一つの答えを今日の聖書は語っています。箴言は、端的に言います。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり 日々、主を楽しませる者となって 絶えず主の御前で楽を奏し 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し 人の子らと共に楽しむ」(30-31節)。喜ばしい関係とは、いつも、造り主の御前にあることです。それは、神経が細るような恐ろしいことではありません。非常にリラックスした姿、親の前を離れずにあそび続ける子どもの姿です。すべてを委ね切った者の、安心して御前に憩う姿です。30節の「巧みな者」という言葉は、「工匠」をいう意味があります。つまり旧約聖書の時代、宮廷に仕えていた名匠のことです。彼らは、王の傍らにあって、王の心を明るくした存在でもあったと言われます。それは時に、「楽を奏する」音楽の名匠のイメージで描かれました。本来は、もっと広く、「戯れる」というようなニュアンスを持った言葉です。父親の傍らで、何の不安もなく無邪気に戯れ、あそんでいる子どもの様子です。父はその様子を喜び、楽しみます。この父はいったい、どのような方でしょうか。 それは、わたしたちの「髪の毛までも一本残らず数え」ておられる父です(マタイ10:30)。すべてを究めておられる造り主、全能の父なる神です。
私たちは、この地上を歩む肉の人でありながらも、しかし「神の知恵」をいただいて、神様の子どもとして、「日々、主を楽しませる者」となるのです。「神の知恵」は、このような神との喜びの関係と同時に、「人の子ら」と、喜ばしい関係を結ぶものです。「主に造られた地上の人々と共に楽を奏し」て、楽しむのです。人々を、神の御前に喜び憩うよう導く存在として、「知恵」ははたらきます。神に属するものでありながら、「人々と共に」ある。私たちもまた、この「神の知恵」を帯びた者であります。神に属する者として生きているのです。「神に属する」という言葉は、言い過ぎに感じるでしょうか。もちろん私たちは、「天まで届く塔」のある町を立てて、神のようになるような仕方で、神に属するのではありません。神ご自身が、私たちを神の子としての歩みに招かれるのです。
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