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終末前々主日礼拝説教「与えられたところで」

日本基督教団藤沢教会 2008119

1アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。2アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。3ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。4そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。5アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。6その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。7アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。8アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。9あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」

10ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。11ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。12アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。13ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。

14主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。15見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。16あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。17さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」18アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。
                           (創世記 13118節)

 

1ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。2あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたがを受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。3あなたがたは、それほど物分かりが悪く、によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。4あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……5あなたがたにを授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。6それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

7だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。8聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。9それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。10律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。11律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。12律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。13キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。14それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束されたを信仰によって受けるためでした。
               (ガラテヤの信徒への手紙 3114節)

信仰の旅を続けて

「聖徒の日」の永眠者記念礼拝を終え、教会暦の一年の終わりを告げる期節、《終末三主日》と呼ばれるときを迎えました。教会暦の一巡りの終わりにあたって、私たちキリスト者の歩みが、いつも神の御業の完成される《終わりの日》に向かって導かれているものであることを、教会は繰り返し確かめてきました。

ヘブライ人への手紙11章に、旧約の信仰者について語った御言葉があります(ヘブ111316)人生はしばしば「旅」にたとえられますが、聖書は、信仰者の人生こそ「旅」にたとえるのにふさわしいと言います。自分が出て来たところには決して戻ることがない、ただ神の約束くださっている「天の故郷」をはるかに望み見ながら、それだけに目を向けて歩み続ける「旅」。どこかに安住してしまうのではなく、つねに仮住まいの、どこにいてもよそ者としての歩みを続ける「旅人」。それが信仰者の人生だというわけです。そのような信仰の旅を続ける者が、いつも「天の故郷」を心に留め、また思い描いている。旧約聖書に登場する信仰者たちのそのような「旅人」としての姿の中に、初代のキリスト者たちは、《終わりの日》に向かって導かれて生きる信仰者の模範を見てきたのです。

今日与えられた御言葉は、私たちが「信仰の父」とも呼ぶアブラハムの旅路のごく初期の物語です。パウロも、しばしば、このアブラハムのことを自分の手紙の中で取り上げています。私たちが、信仰者としてこの世の人生を歩んでいく上で、しかも《旅する信仰者》として歩んでいく上で、一つの模範として繰り返し想い起こすべき人物の一人です。主イエス・キリストを別格とすれば、まず第一に想い起こすべき人物と言っても良いかもしれません。

しかしながら、私たちが創世記の物語から示されるアブラハムという人物は必ずしも立派な揺らがない信仰の持ち主というわけではないようです。信仰の父とか信仰の人と言って、理想化したアブラハム像を、私たちは抱いているところがある。ところが、そのような先入観を取り除いて創世記のアブラハムの物語に耳を傾けるとき、そこにあるのは、まさに私たち自身の信仰の歩み、信仰者としての旅路の物語なのだということに、気づかされるのです。

 

決断

創世記13章は、アブラハムがまだ「アブラム」と名乗っていた旅の初期にあたる物語を伝えています。

アブラムは、七五歳で主なる神の祝福を約束する御言葉に従って、信仰の旅を始めました。妻サライ、甥ロト、それに蓄えた財産と、雇い入れた人々。それが、旅するアブラム一行の全てでした。その旅は、ある意味では順調そのものであったようです。飢饉に際してはエジプトに避難し、そこで妻をファラオのもとに送り込むということさえして一財産を築き上げることさえいたしました。そのエジプトから再び、最初の約束の地であるカナン地方に戻って来たときの出来事です。

甥のロトも財産を殖やすことに成功していました。アブラムの指南を受けて、実業家としての実力を身に着けていったのかもしれません。いずれにしても、アブラムもロトも、たくさんの財産、羊や牛を所有するようになっていたのです。当然、大勢の羊飼いらも雇い入れていたのでしょう。小さな家族として旅を始めたアブラム一行は、今や、ちょっとした部族組織のような大集団になっていました。人が増え、財産が増えれば、何かと衝突やもめごとも増えてくるものです。アブラムに率いられて大きくなったこの集団でも、アブラムの管理下にある者たちと、ロトの管理下にある者たちとの間で、互いに争いが起きるようになりました。そこで、アブラムは、ロトに、それぞれ分かれて別々の土地で生きていくことにしようと提案したのです。行き先を先に決めるように促されたロトは、豊かな、将来有望そうな町を目指して、別れて行きました。一方のアブラムは、ロトと別れると、そのまま、カナン地方に残って、生きていく場所を定めました。

アブラムは、ここで一つの決断をいたしました。ロトと別れて行くという決断です。お互いの間で、またお互いの羊飼いの間で、争いがこれ以上続けられないための、一つの「おとな」の判断が働いたのだと言っても良いかもしれません。確かに、状況は、別れて行くことを良しとするものでした。家畜も財産も人も増え、一緒に住むには土地が十分ではなくなっていたのです。一部の者たちが新しい土地を求めて別れて行くのも、一つの方法であると言えるでしょう。思い切ってそのような決断をし、また皆にその決断を受け入れさせるために、行き先の決定権をロトに預けたアブラムのやり方を誉める人も、少なくないと思います。

けれども、よくこの物語を読んでいただきたいのですが、アブラムは、このとき本当に決断をしているのでしょうか。決断することができているのでしょうか。私は、このときのアブラムについては、そうとは言えないと思うのです。

アブラムは、信仰の旅をはじめたとき、わざわざロトを連れて旅立ちました。ロトは、信仰者として旅路を歩み始めたアブラハムにとって大切な同行者であり、共に信仰の旅路を歩み続けていこうと励まし合ってきた仲間でもあったでしょう。妻だけでなくロトを伴ったそのとき、アブラムは、信仰の旅路を、ただ孤独にやり遂げるものとしてではなく、仲間を伴い共に歩んでいくものとして歩んでいく決断をしたのです。その考えは、おそらく、エジプトから帰ってきてからも変わってはいなかったでしょう。むしろ、たくさんの羊飼いらを雇い入れて、共に歩む信仰共同体の交わりを、ますます豊かな広がりを持ったものとして造り上げていきたいと願っていたのではないでしょうか。

ところが、そのようなときに、ロトから、また雇い人である羊飼いらから、訴えられたのです、「この土地では、皆が一緒に住むには十分ではありません」。「財産が多すぎるから、我々はもう、一緒に住むことができません」。

アブラムは、この訴えを聞き入れました。そして、別れて行く提案をしました。しかし、それは、おそらく、決断をしたというようなことではない。訴える信仰共同体の仲間たちに押し切られて否応なしに、そのような決定をロトに提案したのです。しかし、アブラムの心のうちは、本当は、違うところにあった。なお、ロトと共に歩んでいきたいという思いがあった。だからこそ、アブラムは、別れた後の行き先を自分では決断できずに、ロトに預けたのではないでしょうか。

私たちの信仰の旅路にも、そのような場面が数知れずあると思うのです。本当に心からの決断をして前に進んでいくこともあります。しかしまた、仲間たちの思いに押し切られるようにして、どこか不本意な思いを残しながら、状況だけはどんどん進んでしまう。

 

「さあ、目を上げて!」

しかし、私たちは、この物語から教えられるのです。私たちは、何が何でも自分自身で心からの決断をして、確かな思いをもって歩まなければならないというわけではない。自分の中では不本意な思いを残しながらも、それでも、実は、与えられたところに導かれていくのが、信仰の旅路を歩んでいくことなのだ、と。

ロトのように、自ら目を上げて眺め見渡し、自分の判断力に頼ってよい選択をすることを、私たちは望みがちです。しかし、そこに、必ずしもよい結果が約束されているわけではありません。悪と罪が待ち伏せして、私たちの行く道を絡め取ろうとしているかもしれないのです。

アブラムは、不本意な形で事が進んでいく中で、あるいは顔を伏せ、うなだれていたかもしれません。しかし、そのようなアブラムに対して、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と告げてくださる方があった。人が、自分の決断力も実行力も揺らいでしまうときに、いや、そのようなときにこそ、本当に見るべきものへと目を向けさせてくださる方、主なる神です。アブラムはこのとき、神が、「不十分なもの」ではなく、「見渡す限り豊かな広がりのあるもの」を備えてくださる方であることを知ったのではないでしょうか。

主なる神が、そのようなお方なのであれば、私たちは、この信仰の旅路を、遮二無二ならずにもっと肩の力を抜いて歩んでいけるのではないでしょうか。ただ、「目を上げて、見なさい」との主の声に耳を傾けて、見渡す限りの神の恵みの広がりに目を向けさせていただきたいと思うのです。神は、私たちの信仰の旅路を、大きな広がりの中に、自由に歩き回れるところとして、お与えくださっています。

 

祈り  主なる神。心が折れ、うなだれるしかない者です。あなたの呼びかけに耳を傾け、目を上げます。ただ主の恵みの豊かさを知る者とならせてください。アーメン