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終末前主日礼拝説教「神からの預言者に聞く」

日本基督教団藤沢教会 20081116

15あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。16このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。17主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。18わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。19彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。20ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」21あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。22その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。
                
(申命記 181522節)

 

11さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。12これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。14聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。15あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。16あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。17ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。18しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。19だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。20こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。21このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。22モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。23この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』24預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。25あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。26それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」            (使徒言行録 31126節)

自然の命》と《信仰の命》

私たちは、《終末》を憶えていく期節の中で、二つの対照的な《命》に関わる記念のときを守るよう、導かれました。《死者》を記念する《永眠者記念》のときと、《幼子の命》を記念する《幼児祝福》のときです。それは、神が私たち一人ひとりにお与えくださる地上の《自然の命》の《終わり》を記念するときと、その《始まり》を記念するとき、と言ってもよいかもしれません。私たちは皆、地上を生きる者として、生物としての《自然の命》を与えられています。だれもが、《自然の命》を与えられた者として、当たり前のように人生を生きていくのです。もちろん、私たちは、その《自然の命》も、神から与えられた恵みであると、信仰をもって語ることができます。だからこそ、私たちは、《永眠者記念》のときにも、《幼児祝福》のときにも、たとえ私たちと同じ信仰に立っていると言えなくても、それでも信仰をもって、一人ひとりを記念させていただくのです。

けれども、私たちの信仰の営みは、もう一つの《命》の《始まり》と《終わり》を見つめるところに、もっと重要な焦点を持っています。《自然の命》ではなく、《信仰の命》《復活の命》《永遠の命》、そのように呼ばれる《命》の《始まり》と《終わり》。このことに、私たちの信仰の営みの焦点は合わせられるのです。

《信仰の命》の《始まり》。それは、一つのキリストがお示しくださった営みによってしるし付けられています。《洗礼・バプテスマ》です。私たちは皆、まず《自然の命》を与えられて生きています。その私たちが、洗礼を受けることによって、そのときから、《信仰の命》に生きるようになる。それは、新しく生まれるに等しいことだと、私たちは言います。そこで、私たちは、一人の人が新たに《洗礼》を受けてキリスト者として歩み始めることを、この上なく喜ぶのです。この世では、新しく《自然の命》が与えられても、喜ばれないことがあるかもしれません。しかし、一つの《信仰の命》が誕生するとき、私たちの間で喜ばないということが、あり得るでしょうか。私たちは、喜びます。喜びの表現は、大げさではないかもしれない。もしかしたら、控えめかもしれない。けれども、喜ばないではいられないのではないでしょうか。なぜなら、一つの《信仰の命》が誕生するときには、神の天使たちの間に喜びがある(ルカ15:10)からです。天使たちや信仰の先達の集う天上の礼拝から、喜びが告げられるのです。その喜びを、私たちは、共に喜ばないわけにはいかないのです。

すでに洗礼の恵みにあずかって《信仰の命》に生きてきた私たちは、そのように言うことができると思います。今、洗礼の準備を始めてくださっている皆さんも、それが自分にとって、また他の信仰者にとって、喜びであるということが、だんだん分かってこられていると思います。けれども、いまだ洗礼を受けるにいたっていらっしゃらない方、その決心を与えられていらっしゃらない方には、なぜそれが喜びなのかさっぱり分からない、という方もあるかと思うのです。どうして洗礼を受けて新しく《信仰の命》に生き始める、等と言うことができるのか、分からない。自分は、そうしたいとは思わない。いや、そうしたいとは思っても、どうしても躊躇がある。そういう方が、いらっしゃるのではないでしょうか。

そう思われるのは、ある意味で当然なのだろうと思います。洗礼を受けてキリスト者になるということ、キリストに与えられる新しい《信仰の命》に生き始めるということは、そこで一つの大きな飛躍が起こるということだからです。母親の胎内にいた子がこの世界へと生まれ出てくるような、這い回っていた幼子が立ち上がって歩き始めるような、大きな飛躍です。当人はあまり意識がなくても、周りの者からすると、驚かないではいられないようなこと。洗礼を受けてキリスト者になる、新しい《信仰の命》に生き始めることは、そのような驚きを禁じ得ない、大きな飛躍を伴うことです。だからこそ、それを自分自身に起こることとして簡単には受けとめられないということが、あるのではないでしょうか。

 

人を立ち上がらせ、歩かせるもの

今日、与えられた使徒言行録3章の箇所には、初代教会の指導者の一人、ペトロの説教が伝えられていました。祈りをささげるために神殿に来ていたペトロらが、一人の生まれながら足の不自由な男(3:2)をいやして立ち上がらせ、歩き回らせた出来事(3:110)を巡って、周囲の人々が驚きのあまり、ペトロにそのわけを問いに来た。それに答えて語ったのが、ここに伝えられているペトロの説教です。

この説教に至った出来事は、有名な逸話の一つです。生まれてから40年間、足が不自由で自由に歩いたことのない男が、神殿の境内で毎日物乞いをしていたのです。そこを通りがかったペトロらに施しを乞うたところが、ペトロが、じっと見つめて、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:5)と告げて、手を取って立ち上がらせた。すると、たちまちその男は立ち上がって、歩き出し、ペトロらに付いて回るようになった。それが、この逸話の出来事です。

この逸話は、どうも、ただの奇跡物語ではありません。一人の信仰者の誕生、一人の人が《信仰の命》に生き始めたことを物語っているようです。

一人の人が、イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩き出します。自分の力や意志によってではありません。ペトロら信仰者の力や信心によってでもありません。いや、ペトロは、ほんのわずかの手伝いをしています。イエス・キリストの名を告げて、この人が立ち上がるために手を貸しました。しかし、それ以上ではありません。決定的なのは、イエス・キリストの名であり、その名をお与えになられた神である。今まで座り込み、うずくまり、人任せに生きていた一人の人が、その名によって立ち上がり、自由に、自分の責任で歩き出す、そういう生き方を始める。驚くべきことに、イエス・キリストの名によって、そういうことが起こる。そう、この逸話は物語っているのです。

ここには、洗礼ということは出て来ません。けれども、洗礼によってしるし付けられる、信仰者の誕生、新しく《信仰の命》に生き始めることが、一人の人の出来事としてどのように起こるのか、それを、この物語は、私たちに教えている。ペトロの説教も、そのことを教えている。(16)

そのことを、私たちは、ここから深く聴き取りたいのです。

契約の子として

ペトロは、イエス・キリストの名を語ります。しかし、それを何か呪文のように用いることを教えているのではありません。イエス・キリストの名というお札を貼れば、たちまち《信仰の命》を新しく生き始める、というのであれば、こんなに簡単なことはありませんが、ペトロは、決して、そのようなことを教えているわけではないのです。しかし、だからといって、私たちは、イエス・キリストの名ということを、あまりに難しく考えすぎてもいけないのかもしれません。

ペトロは、ここで繰り返し預言者について触れています。その預言者とは、預言書の預言者たちだけではなく、モーセから始まる、すべて神のお語りくださることを告げた信仰者たちのことです。あるいは、神のお語りくださったことを記した聖書のことを指して預言者と呼んでいる、と言ってもよいかもしれません。

ペトロは、その預言者=聖書に聴き従うべきことを教えます。聖書に耳を傾けるならばイエス・キリストのことも分かるようになると言います。そして、あなたがたは預言者の子孫だという。預言者=聖書を受け継ぐ者だという。聖書を神のお語りくださる書物として受け継ぐ者。そのようなところに歩むならば、あなたがたは契約の子、祝福の約束を受け継ぐ者だと、ペトロは教えているのです。

多くの教会で、信仰者の家庭に生まれた子のことを契約の子と呼んで、幼児洗礼を授けてきました。聖書から神のお語りくださることを聴くことを受け継ぐ群れの中で《自然の命》を与えられた者は、すぐにも《信仰の命》を宿すことができると信じられたからです。それほどに、聖書の御言葉の力ある働きが、素朴に信じられてきたのです。聖書の告げるイエス・キリストの名による力が、素直に信じられてきたのです。いや、今でも、私たちも、そう信じてよいはずです。

教会が幼児洗礼を授けることは意義深いこと、大切な使命だと思います。教会が、聖書の御言葉の力ある働きを、何よりも第一のものとして聴き、従い、信じる群れとして歩むならば、幼児洗礼の営みは、必ず実を結ぶはずです。教会が、聖書を軽んじ、他のものを第一のものとして歩むことがあるならば、幼児洗礼の営みは、むしろ大きな躓きになるかもしれません。そうなることがあったならば、私たちは、悔い改めて立ち帰らなければなりません。いや、むしろ、そうならないように、私たちは、いつもキリストによって歩み方を正していただくのです。

「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と告げたペトロが、幾度となくキリストによって歩み方を正していただいたことか、想い起こしたいと思います。私たちもまた、キリストによって歩み方を正していただきながら、キリストに新しい《信仰の命》を与えられた群れとして、聖書の御言葉に聴き続ける。そして、ペトロと共に「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と告げ続ける。この営みの中へと導かれた方は、いつか必ず、新しい《信仰の命》に生き始めるときを備えられていると、私たちは信じてよいのです。

 

祈り  

主よ。御言葉に聴き、イエスの名によって立つ者とならせてください。アーメン