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終末主日説教「小さな主、大いなる方」 2008年11月23日 日本基督教団藤沢教会 ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊の群れのように囲いの中に 群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。打ち破る者が、彼らに先立って上ると 他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み 主がその先頭に立たれる。 (ミカ書2:12-13) 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」 (マタイによる福音書25:31-46) 本日は、終末主日、教会の暦では、一年の終わりを迎えます。私たちの教会では、先々主日より<終末三主日>として「終わりの日」を心に留めつつ、祈りを深めて歩んでまいりました。特にこの11月は、私たちの教会で葬儀が行なわれました。先々週、ひとりの愛する姉妹を神のみもとへとお送りしました。葬儀に集い、姉妹の地上での生涯の終わりに立ち会うことを通して、別れの寂しさの中にも、それぞれに「死」という厳粛な現実を見つめるときが与えられたものであります。「別れは小さな死」というフランスの諺があるそうです。「別れ」によって、自分の小さな一部分が「死」ぬという意味です。私たちはまた、日々の生活の中で「別れ」を経験する毎に、「小さな死」を経験し、小さな寂しさや悲しみに涙を流しながら生きているのだと言えます。数年前には、隣にいて当然だと思っていた親がいない、毎日顔を合わせていたあの人がいない、ということが、自分の人生に何度起こっているだろうと考えると、数えることはできません。「別れ」ということに心を留めて過ごしている人は少ないと思います。日常の生活の中で私たちは、「終わり」ということを、どれほど真剣に考えられるでしょうか。 数年前に、「死ぬまでにしたい10のこと」という映画が上映されました。この映画の主人公は、20代前半の若い女性です。彼女は、若いけれども夫があり、幼い2人の娘がいました。若い夫婦だったので、暮らしも貧しく、家は、普通のアパートではなく、大型トレーラーを改造したような住居です。女性は、清掃のパートをしていました。子供たちが寝ているような夜の時間に、大学の教室などを掃除して歩きます。仕事をしていたある日、仕事仲間が最近ダイエットを始めたという会話になり、その友人との会話を通して、彼女は自分の体の異変に気づくのです。そこで病院へ行って検査をしたところ、彼女は途方もない事実を告げられることとなります。それは不治の病の告知でした。ここから、映画の本題がスタートします。「あと3ヶ月の命でしょう」という医者からの告知の後、いつもの道を歩くと、街がまるで違った色に見えてくると、その主人公は語ります。彼女の心の中の独白が語られるのですが、カラーだった世界がモノクロの世界になる、あるいは、今まで気にも留めなかったようなものが、とても美しく見えるようになる。彼女は、周りの誰にも、夫や親にさえ、その事実を話さないのでした。命の終わりを告げ知らされた主人公は、その事実を胸に秘めて、ひとり、今までと違った目で世界を見、そして違った生活、実にめざましい生活を始めようとします。余命の数ヶ月に何をしたいか、という、10個の箇条書きを作るのです。「娘たちが20歳になるまでの、誕生日に、毎年届ける分のメッセージを録音する」、「娘たちの新しい母親になってくれる人を探す」、・・・と、このようにして彼女は「死ぬまでにしたい10のこと」を書き出したわけですが、その中に「夫以外の人とデートをする」という項目がありました。彼女がそう思い立った理由は、とても単純なものでした。彼女は、高校生のときに出会った彼と結婚をしたので、他の男性とお付き合いをしたことがない、ということです。彼女のこの特別な状況を考えますと、彼女の決めたことがルール違反であるということに気を留める人は少ないと思います。むしろ、なぜ、彼女は、明日自分の地上の生を終えるというときに、今の家族の中で死を迎えようとしなかったのか、ということ、いったい彼女が、死を前にして求めたものは何だったのか、ということを考えるのではないでしょうか。この話の結末がどうなるかは別として、この彼女が、自らの死を前にして、「死ぬまでにしたい10のこと」を書き出したということは、とても興味深いことです。自らの命の終わりを知ったとき、彼女は、「明日地上の死を迎えるとしたら、今日は何をするか」という問いに、答えることをし始めたのです。しかしまた、このような物語に出会う私たちも、あと数か月の命と言われたら、特別にしたいこととは何でしょうか。もしかしたら、この映画の主人公のように、現在していることとは、全く別のことを考え始めるかもしれません。全く別のことをし始めるかもしれません。 このことを逆に言えば、私たちはまだ先があると思うからこそ過ごせるような毎日を送っているのではないか、ということです。もちろん、私たちの今日一日を、昨日と明日の間から取り出してみたところで、細切れで不完成なものであることに変わりはありません。今日一日のことは、私たちの目には、何に通じているのかわからないような、ゴールが思い描けないような、取るに足らないものであるのかもしれません。しかし私たちは、時に不安を抱えながらも、前へ進むことを放棄せずに、一歩一歩を歩むよう示されているのです。私たちの今歩む道にこそ、神の救いの御業のご計画があるからです。私たちの地上での一日、この一時一時が、壮大な神の作品の模様を成して行くとすれば、たちまち意味を持ち始めます。神こそが「初めであり、終わりである方」、完成と言いえるものはすべて神に属するものであり、神ご自身が、私たちの未完成の一時一時に意味づけをしてくださるからです。明日のことを思い悩むのでない、何よりもまず神の義を求めなさい、とキリストはそのように言われました。思い煩いを捨て、一心に神を見つめることをお求めになるのです。一心にキリストを見つめること、このことこそが、終わりの日<主の日>を見つめる信仰です。 今日の聖書には、主イエス・キリストが約束された、来るべき日、<主の日>のことが語られています。主イエス・キリストの昇天の出来事を思い起こしますと、それを目の当たりにした弟子たちには、即座にキリストの未来に関することが語られたのでした。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)。そしてまた、今日のマタイ福音書の25章31節以下で、主はこのように告げられています。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」とあります。「羊と山羊とを分けるように」、その日には、義しい者とそうでない者がより分けられるのだ、と言います。その日がやってくると、義しい者はこのように言われます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」すると、その義しい者たちが答えます。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そこで、王は答えます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 飢えや渇きをおぼえていたり、旅人のように彷徨ったり、裸であったり、病を抱えたりする、あるいは囚人であったりするこの弱い人間の姿を見て、多くの人が、その前を通り過ぎようとして行きます。その貧しさや乏しさの被害を受けまいとして、関わりを避けようとします。しかし、その弱くされた者を、主イエスは「わたしの兄弟である最も小さい者」と呼ばれました。事実、主イエスは、徴税人や罪人と言われた人々と共に食卓に着きました。病や障害を抱えた人々に近づいて触れ、その傷を癒されました。主イエスが、社会的に蔑まれていた人々を憐れまれた、ということは福音書が繰り返し告げ知らせるところです。それはしかし、上から下へ憐れみを施す偉業ではありません。主は、十字架上で死に、ご自身が最も低いところへ下られることによって、私たちの弱さや罪深さというものに気づかせてくださったのです。私たち人間が、飢え渇いていて、旅人のように孤独であり、裸であるということ、病をもっており、奴隷のようであるということ、そのことに気づかせてくださったのです。豊かであるのにも関わらず、弱い姿で現れたキリストとの出会いによって、目が開かれる経験をします。そしてそれは、私たちがいつも何に仕えて生きているか、ということを問わせ、自分がどれほどとんちんかんな暮らしをしているかということに気づかせ、方向転換を迫るのです。そのことにいつも目覚めていることが、「主の日」と呼ばれる終わりのときに備えつつ、真実な歩みをしていくことです。終わりの日<主の日>を見つめる信仰、それは、一心にキリストを見つめていくことです。いつも私たちのそばにいてくださるキリストに気づかされ、目を開かれていくことなのです。 毎週水曜日、この教会では「水曜コイノニア」いう、小さな交わりの会をもっています。先週は、7月から読み進めてきた一冊のテキストを読み終えました。ちょうどその最終章に、「終末」に関する教えが書かれていたので、会に出席された方から、このような質問がありました。主イエス・キリストが来られる「最後の審判」では、すべての人が救われるのではないのですか?それとも、永遠の火によって焼かれる人々と、天国で救われる人々と、二つに分けられるということですか?右の者が御国の幸福を受け、左の者は永遠の罰われるという、このキリストの「最後の審判」のイメージは、まさに今日の聖書のたとえが語るところです。天国と地獄、義しい者とそうでない者、私は、そのどちらに分類されるのだろうか?と考えることがあると思います。あるいは、もう洗礼を受けているのだから、私は当然天国だ、と安心している方もおられるかと思います。少し立ち止まって考えてみたいと思います。しかしながら、キリストの「最後の審判」は、人間の私たちには計り知れないものであると言わざるを得ません。私たち人間が、白か黒か判定を下し得ないものです。今日の25章31節以下の箇所では、非常に、白黒が鮮明であるかのような印象を受けます。天国か、永遠の罰か、ということがはっきりと語られるからです。けれども、必ずしもこの箇所が二つのものがあるということを強調しているわけではない、とも言えます。ある神学者(E・ブルンナー)はこの箇所について、次のように説明しています。「それはダイナミックな神の言葉であり、神に向かう私たちの運動を指し示すための、私たちに向かってくる神の運動の言葉である」。私たちが、神に向かって生き始めるように目覚めさせるために、神が私たちに向けた言葉なのだ、ということです。私たちの滅びの道へと別つのでなく、滅亡から救いの道へと呼び出そうという、神が私たちに向けたダイナミックな言葉なのです。私たちは声を大きくして告白しましょう。キリストこそが「かしこより来たりて 生ける者と死ねる者とを審きたまわん」ということ、神こそその審きを行なわれる方であるということです。その審きとは、底知れぬ恐怖であるのではありません。むしろ、恐怖の終わりを指しています。悲しみや涙が拭い去られ、私たちは慰めを受けるでしょう。悲しみの終わりと共に、神の義が開始されるのです。私たちが「神の御前に」、神との義しい関係に生きる命をスタートさせるのです。それは、主イエス・キリストが再び来られる<主の日>に完成されることであり、私たちが生きる現在の状況とは、あまりにもギャップが大きいようにも思えます。しかし私たちは、来るべき<主の日>の光に照らされて、今をどう生きるべきかを示されて行くのです。<主の日>を見つめる私たちの歩みの一歩一歩が、神の国の実現を用意するものとなります。私たちはこの地上にあって、キリストが見つめるように隣人を眼差すものとして、キリストがゆるすように隣人をゆるすものとして、怒りや嫉妬でなく、互いに愛し合い仕え合うよう召された者として、歩んで行きたいと願います。 |