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アドヴェント合同礼拝説教「ほんとうの光はどこに?」

日本基督教団藤沢教会 20081130

【招きの言葉】

1アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。

2 終わりの日に

主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち

どの峰よりも高くそびえる。

国々はこぞって大河のようにそこに向かい

3 多くの民が来て言う。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。

主はわたしたちに道を示される。

わたしたちはその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから

御言葉はエルサレムから出る。

4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし

槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず

もはや戦うことを学ばない。

5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。(イザヤ書 215節)

 

【聖書朗読】

8互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

11更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。12夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。13日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、14主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
         (ローマの信徒への手紙 13814節)


アドヴェントからはじまるカレンダー

教会は、今日から「アドヴェント(待降節)」と呼ぶ期節に入りました。クリスマス(1225)の前、4回の日曜日の間をアドヴェントと呼んで、クリスマスを迎えるための備えをします。アドヴェントから、教会の暦(カレンダー)は新しい一年の一巡りを数え始めます。今日が新しい一年のはじまりの日、ということです。

どうして、こんな中途半端な日から新しい一年が始まるのかと、不思議に思う人もいるかもしれません。アドヴェントが一年のはじまりだというのならば、世の中の人が皆そうするように、11日からアドヴェントが始まるようにしたら分かりやすいように思います。学校に合わせて、41日からアドヴェントが始まるようにする、というのも良いかもしれません。逆に、アドヴェントの始まる日を11日と呼んだらどうでしょうか。アメリカやヨーロッパのキリスト教国と言われる国であれば、そうすることもできたかもしれません。けれども、教会は、世の中のカレンダーとは別に、アドヴェントの始まる日を決めてきました。クリスマス(1225)の4つ前の日曜日。その日から、教会のカレンダーの一年が始まるのです。

教会のカレンダー。このカレンダーのことを、ある人が、「神さまのカレンダー」だと教えてくれました。教会のカレンダーには、神さまのご計画のカレンダーが記されている、というのです。

確かに、教会のカレンダーにあるのは、アドヴェント(待降節)、クリスマス(降誕祭)、レント(受難節)、イースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨祭)といったことです。皆さんは、それらがどれも聖書に書いてある出来事を記念している、ということを知っていると思います。イエスさまのご降誕のこと、十字架につけられるまでのイエスさまの歩み、そして、十字架で死なれたイエスさまの復活、そして、復活されたイエスさまから聖霊をいただいた弟子たちが「教会」という集まりの新しい歩みをはじめたこと。聖書は、それらの出来事がどれも、神さまのご計画であったこと、神さまご自身がしてくださったこと、と教えてくれています。そのような出来事を、教会は、自分たちの歩みのカレンダーにしました。ですから、教会のカレンダーのことを「神さまのカレンダー」と言うのも、その通りだと思います。

ところが、教会のカレンダーは「神さまのカレンダー」だ、ということを教えてくれたその人は、もう一つ別のことも教えてくれました。その人は、こう言うのです。教会のカレンダーが「神さまのカレンダー」だということの意味は、教会に集まる人(クリスチャン)が、生きていく上で、「世の中のカレンダー」よりも「神さまのカレンダー」に従って生きていくということを表しているのだ、というのです。つまり、「世の中」よりも「神さま」に従って生きていくということを表すために、教会のカレンダーは「神さまのカレンダー」だと言う、というのです。

そう言えば、私たちが普段使っている七日で一週間というのは、聖書の最初に、神さまが一週間を七日とされたことに従っています。七日のうちの一日を休みの日にするのも、神さまがそのように命じられたと聖書に書いてあるからです。今から二百年以上前、フランスという国で、王様の支配をやめて「共和国」という国を造ったとき、その新しい国の指導者たちが、一週間を七日ではなく十日にしようとしたことがありました。一週間が七日というのは、教会のカレンダー=神さまのカレンダーだから、自分たちの新しい国では、自分たちの考えでカレンダーを作ろう、と考えたのです。結局、それは失敗して、フランスでは、今でも一週間を七日とするカレンダーを使っています。

不思議なことに、私たちの住む日本の国も、キリスト教会は少なくて、聖書の神さまとは別の考えで世の中は動いていますが、今から135年前に一週間を七日とするカレンダーを使うようになりました。世の中で使われるカレンダーが、教会のカレンダーに合わせられてきたのです。ですから、実は、教会に来ていない日本の人たちも、知らないうちに、教会のカレンダー=「神さまのカレンダー」に従っているのです。けれども、自分の持っているカレンダーが「神さまのカレンダー」と関係があるということを知らなければ、その人は、日曜日に教会に来たりはしません。神さまを信じることも、イエスさまに従うことも、しないでしょう。聖書の神さまを信じ、イエスさまに従って生きる人は、「神さまのカレンダー」を大切にするのです。

アドヴェントに、私たちは、もう一度、「神さまのカレンダー」を思い出して、心の中に覚えます。子どもたちは、「アドヴェント・カレンダー」を飾るかもしれません。クリスマスを楽しみに迎えるためのカレンダーですが、その「カレンダー」をめくるときにも、「神さまのカレンダー」を思い出したいと思います。

 

光を待ち望む

アドヴェントに「神さまのカレンダー」を思い出し、心の中に刻み直すために、教会には、「アドヴェント・クランツ」、アドヴェントのロウソクを置きました。4本のロウソクを立てて、4週間のアドヴェントの日曜日を、一週ずつ過ごしていきます。今日は、1本目のロウソクを灯しました。来週は2本、再来週は3本、4週目には4本のロウソクを灯して、クリスマスの日を迎えて行きます。

いつの頃から言われるようになったのか分かりませんが、このアドヴェントの4本のロウソクの一つひとつに名前が付けられるようになりました。最初のロウソクは「預言のキャンドル」、2本目は「ベツレヘムのキャンドル」、3本目は「羊飼いのキャンドル」、そして4本目は「天使のキャンドル」、というようにです。それぞれ、「希望」、「愛」、「喜び」、「平和」を表している、とも言います。今日、灯された最初のロウソクは、「預言のキャンドル」。旧約聖書の預言者たちが、何百年も前から神の御子のご降誕を預言して、その希望を抱きながら待ち続けていたということを表しているのだそうです。

アドヴェントに、私たちは、神さまの御言葉を聴いて、私たちの中に与えられる新しい希望を確かめながら、一つのことを待ち望みます。御子イエス・キリストのご降誕です。御子のご降誕を待ち望む私たちを、導いてくれるのが、このアドヴェントのロウソク。小さなロウソクの灯す光です。

アドヴェントに合わせて、教会(幼稚園)の庭、道路から見えるところに並ぶ植木に、ライトのイルミネーションを飾りました。あちらこちらの家でも、きれいに飾られています。教会も、控えめですが、毎年このように飾っています。夜、すっかり暗くなってから、その前を通ると、不思議な気持ちになります。小さな豆電球の光に、吸い込まれていくような感覚です。でも、その豆電球のイルミネーションよりも、もっと不思議な気持ちになる光があります。アドヴェントのロウソクの光です。今は昼間ですから、ロウソクの光は、あまり輝いて見えません。じっと見ていても、あまり感動もしないかもしれません。ですから、私は、アドヴェントになると毎年、夜、教会に誰もいなくなってから、そっと一人で、アドヴェントのロウソクに火をつけてみることがあります。この礼拝堂の照明は点けないで、真っ暗なままで、です。小さなロウソクの炎が揺れながら光を輝かせると、不思議と、その小さな光だけで、この礼拝堂全体が明るく照らされているように思えます。決して、照明を点けたように明るいわけではないのに、小さなロウソクの光が一つ灯っているだけで、この礼拝堂のどこにいても、安心できる気持ちになるのです。

アドヴェントのロウソクを、1本、2本、3本、4本と増し加えながら、私たちは、クリスマスに、ただ、小さな一人の赤ちゃんをお迎えしようとしているだけなのではないということに、気づかされます。クリスマスにお迎えする小さな一人の赤ちゃん、イエスさまは、私たち一人ひとりのための「光」なのです。アドヴェントのロウソクに火を灯しながら、本当の「光」を待ち望む心を、もう一度確かめたいと思うのです。

 

ほんとうの光を見分けよう

イエスさまのことを世界中の人に伝えたいと思って旅をしたパウロの記した手紙の言葉を、聖書の朗読で聴きました。パウロは、イエスさまのことを信じる教会の人たちに、こう書いて教えています。

夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。(ロマ13:12)

イエスさまは、近くにおいでくださっている。ちょうど、夜明けが近づくと、まだ日の出にならなくても、まだ太陽が見えなくても、空が薄明るくなってきて、朝が近いことが分かるように、イエスさまが近くにおいでくださっているのは、私たちには分かる。イエスさまという本当の「光」が、まだ完全に見えていなくても、もう、その光を私たちのもとまで届かせている。イエスさまの「光」が、私たちのところにまで、もう来ている。その「光」が、ほかの偽物の光ではなくて、作り物の光でもなくて、確かにイエスさまの「光」だということを、私たちは、アドヴェントの歩みの中で、確かめたいと思います。

間違いなくイエスさまの「光」を見分けられるように、アドヴェントのロウソクと御言葉の光に導かれて、共に歩ませていただきましょう。

 

祈り  

主なる神。新しい歩みを始める時を迎えました。どうぞ、アドヴェントの光の中を歩ませてください。イエスさまの光の中へと進み行かせてください。アーメン