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待降節第2主日礼拝説教「恵みの御業の放つ光」 日本基督教団藤沢教会 2008年12月7日 9 それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ、 25 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教 二本目のロウソクに導かれて アドヴェントのロウソクが二つ灯りました。ある人たちは、この二本目のロウソクを、「ベツレヘムのロウソク」と呼びます。クリスマスに、御子キリストが、ベツレヘムの町で、馬小屋の中に置かれた飼い葉桶の中へとおいでくださったことを、この二本目のロウソクの光の内におぼえてきたのです。小さな町の、さびしい馬小屋で、飼い葉桶の中に寝かせられている幼子。それがクリスマスにお迎えしようとしている御子キリストであることを、私たちも、二本目のロウソクの光に導かれながら、アドヴェントの祈りのうちにおぼえたいと思います。 今年のアドヴェントも、わたしたちの教会は、幼子のキリストをお迎えする備えをするとともに、もう一つの備えへと導かれています。新しいキリスト者の誕生する洗礼式〔バプテスマ〕に向けての備えです。先主日の臨時役員会で、私たちは、三人の方の信仰の試問をいたしました。いずれも、信仰者の家庭に育った、まだ若いバプテスマ志願者たちです。春から準備をしてきた者、三ヶ月前に準備を始めた者、それぞれですが、一人ひとりが、役員方の前で、自分の言葉で、自分の信仰を言い表し、バプテスマを志願しました。そして、それぞれの方について、役員方一人ひとりが、丁寧に勧めや励ましの言葉を述べました。 バプテスマを志願する人がどなたである場合も、必ず、時間をかけて、同じように信仰の試問をいたします。これは、本当に恵みに満たされるときです。一人の人が、信仰者の交わりの中で育まれ、いよいよ自分の言葉で信仰を語るときを迎えられ、そして、その信仰を確かめつつ、志願者と教会とが共に新しいキリスト者の誕生のための最後の備えを始める。いわば、母の胎の中で育った子が、いよいよ臨月を迎え、いつ産まれてきても良いように、母親も家族の者も皆で備えていく。もちろん、胎の子も一所懸命に生まれ出るときのための備えをしている。しかし、それ以上に、迎える母親や家族が備えて産まれてくるのを待つ。そのようなときが、バプテスマ志願者の試問会のときから教会の中で始められるのです。 私たちは、アドヴェントに、このための備えの歩みを、教会全体で共に始めるよう、導かれています。御子キリストのご降誕を祝うクリスマスが、また、一人の人の内に確かに御子キリストが宿ってくださり、キリスト者として誕生する祝いのときとして導かれる。それは、とても幸いなことでではないでしょうか。 古代の教会では、新しいキリスト者の誕生を意味する洗礼式は、ほとんどの場合、イースターの祝いの中で執り行われてきたと言われます。私たちの教会の伝統では、圧倒的に多いのは、クリスマスの祝いのときではないかと思います。イースターやペンテコステと比べて、クリスマスが祝いらしい祝いのときだから、好まれてきたのかもしれません。しかし、私は、もしかしたら、こういうこともあるのではないかということを、考えています。私たちの教会の伝統では、礼拝でロウソクを灯すということを、あまりいたしません。アドヴェントからクリスマスまでの祝いのときだけが、ほとんどすべてでありましょう。この礼拝でロウソクを灯すということが、もしかしたら、私たちがクリスマスに好んで洗礼式を執り行うことと結びついてきているのではないでしょうか。 古代の教会以来、新しく洗礼を受けた者に、「あなたがたは世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタ5:14,16)という御言葉を告げて、灯をともしたロウソクが手渡すという習慣があったそうです。洗礼を受ける。それは、神の光の中へと導き入れられ、神の子、光の子として新しく生まれること。ロウソクの灯は、そのような新しい命の光を指し示す役割を果たしてくれる。それは、もしかすると、そのような洗礼に際しての習慣を捨ててしまった私たちにとっても、大切な意味のあることなのかもしれないと、私は思っているのです。 先週の試問会で、何人かの役員方が異口同音に、こういう勧めをしてくださいました。「あなたは、今、素直にイエスさまを信じて、祈り、洗礼を受けたいと申し出てくださった。でも、これからの長い人生で、きっと、苦しいとき、悩むとき、躓くときがあると思う。そのときにこそ、祈って、御言葉と格闘して、信仰の歩みを歩み通して欲しい。もちろん、私たちも、一緒に歩んでいくから。」 私も、本当にそのとおりだと思いました。まだ、これから、たくさんの困難や衝突を経験しなければならないに違いない。若ければ若いほど、そういうことは、たくさん、前途に待ちかまえている。しかも、歩んでいかなければいけないこの世の社会は、信仰者として歩んでいく者に理解のあるところではないのです。むしろ、不正と悪が絶えず、災いの計画が遂行されることさえあるような、暗闇の世かもしれない。その中で、信仰者自身、自分の罪や過ちに絡め取られてしまって、よろめき、打ち倒れてしまうこともあるかもしれない。預言者イザヤが告げたような、目を覆いたくなるような現実の中に、私たちは、いつでも放り出されることを覚悟しなくてはならないかもしれないのです。そのような中にあって、私たちは、なお、神の光の中に立ち続けることができるのか。いただいた光を、この世に向かって輝かすことができるのか。いや、その光を、なお、自分の内に保ち続けることができるのか。そのことを、これから洗礼を受ける人たちだけでなく、すでに洗礼を受けて歩んできた私たちも、また、今一度、確かめ直さなければいけないと思うのです。 今日の御言葉で、預言者イザヤは、光の失われた世の現実を、これでもかというほどに示したのに続いて、こう告げています。 不正と悪のはびこる現実の中で、罪と過ちに絡め取られてしまう私たち弱い存在は、その暗い現実、闇の現実に、自ら光を回復することは出来ない。それは不可能だというのが、預言者たちが示したことでした。そしてまた、預言者たちが示したのは、そのような現実の中に置かれている私たちが、仮に光を回復することができるとすれば、それは、主なる神の御腕の救いによるしかない、恵みの御業によってしか、そのことはできない、ということです。そのことを真理として「アーメン」と認める、そして、主の御腕に我が身を委ねる。私たちにできることは、そのようにして主なる神に対する背きの罪を悔いることだけ。アドヴェントの悔い改めの祈りを、私たちは、まずこのところから始めたいと思うのです。 聖霊と御言葉は、あなたたちの口に このアドヴェントの悔い改めの先に、恵みとして用意されているクリスマスの光を、私たちは待ち望みます。預言者イザヤは、それを、こう告げました。 聖霊が与えられ、主の御言葉が私たちの口に代々与えられて、絶えることはない、という約束です。これからバプテスマを受ける方にも、すでに洗礼を受けている方にも、この約束の御言葉を、深く心に留めていただきたいと思います。この約束は、聖霊と御言葉が私たちから離れることはない、というのです。私たちの心ではない、頭でもない、口に御言葉が与えられ、そこから離れることはない、というのです。不思議な言い方ではないでしょうか。私たちは、聖霊を心に感じたい、御言葉を頭で理解したい、と思う。ところが、イザヤの告げる約束は、御言葉が私たちの口に与えられる、口から離れることはない、というものです。 なぜ、聖霊が降り、私たちの口に御言葉が与えられ、そこから離れない、と言われるのでしょうか。私は、こう思うのです。それは、私たちの口(舌と言っても良いかもしれません)こそが、最も、私たちにとっては災いの元だからです。口が、心や頭にも増して、最も、私たちに罪や過ちを犯させるものだからです。口から産まれてきたような者であれ、口べたな者であれ、私たちは、口で失敗する。自分の心や頭以上に、私たちは、自分の口をコントロールしきれない者なのです。心も汚れ、頭も間違いを犯すかもしれませんが、私たちの口こそ、私たちの中で最も汚れ深いところなのです。この言葉を告げた預言者イザヤも、その活動を始めるに際しては、その唇を神に聖めていただかなければならなかったのです(イザ6:5〜7)。そうであれば、私たちは、なおさらではないでしょうか。 だからこそ、そのような、私たちの汚れ深いところにこそ、神は聖霊と御言葉をもって、臨んでくださる、おいでくださる、宿ってくださる。ちょうど、貧しく汚らしい馬小屋に置かれた小さな飼い葉桶の中に御子キリストがおいでくださったように、私たちの中の、もっとも貧しく汚らわしいところに、主は、聖霊と御言葉をもっておいでくださる。そこでこそ、神は恵みの御業を行ってくださって、その光を灯してくださる。そのことを、私たちは、飼い葉桶の中に幼子キリストをお迎えする物語を目の前にして、確かに信じさせていただくのです。 主なる神。御子を迎え、また新しいキリスト者の仲間を迎える備えを導いてください。今こそ私どもに宿り、御業の光を灯してくださいますように。アーメン |