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待降節第3主日礼拝説教「来たるべき方の光」 日本基督教団藤沢教会 2008年12月14日 2その名をマノアという一人の男がいた。彼はダンの氏族に属し、ツォルアの出身であった。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがなかった。3主の御使いが彼女に現れて言った。「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。4今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ。5あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」6女は夫のもとに来て言った。「神の人がわたしのところにおいでになりました。姿は神の御使いのようで、非常に恐ろしく、どこからおいでになったのかと尋ねることもできず、その方も名前を明かされませんでした。7ただその方は、わたしが身ごもって男の子を産むことになっており、その子は胎内にいるときから死ぬ日までナジル人として神にささげられているので、わたしにぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないようにとおっしゃいました。」8そこでマノアは、主に向かってこう祈った。「わたしの主よ。お願いいたします。お遣わしになった神の人をもう一度わたしたちのところに来させ、生まれて来る子をどうすればよいのか教えてください。」9神はマノアの声をお聞き入れになり、神の御使いが、再びその妻のところに現れた。彼女は畑に座っていて、夫マノアは一緒にいなかった。10妻は急いで夫に知らせようとして走り、「この間わたしのところにおいでになった方が、またお見えになっています」と言った。11マノアは立ち上がって妻について行き、その人のところに来て言った。「この女に話しかけたのはあなたですか。」その人は、「そうです」と答えた。12マノアが、「あなたのお言葉のとおりになるのでしたら、その子のためになすべき決まりとは何でしょうか」と尋ねると、13主の御使いはマノアに答えた。「わたしがこの女に言ったことをすべて守りなさい。14彼女はぶどう酒を作るぶどうの木からできるものは一切食べてはならず、ぶどう酒や強い飲み物も飲んではならない。また汚れた物を一切食べてはならない。わたしが彼女に戒めたことは、すべて守らなければならない。」15マノアは主の御使いに言った。「あなたをお引き止めしてもよいでしょうか。子山羊をごちそうさせてください。」16主の御使いはマノアに答えた。「あなたが引き止めても、わたしはあなたの食べ物を食べない。もし焼き尽くす献げ物をささげたいなら、主にささげなさい。」マノアは、その人が主の御使いであることを知らなかった。17そこでマノアは主の御使いに、「お名前は何とおっしゃいますか。お言葉のとおりになりましたなら、あなたをおもてなししたいのです」と言った。18主の御使いは、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えた。
昨夕、私たちの教会附属幼稚園のクリスマス礼拝が、この礼拝堂で行われました。昨年よりもずっと多くなった園児とそのご家族が、ここで進められた一つひとつの営みに目を向け、心を向けて、クリスマスの祝いのひとときを過ごしました。多くは、キリスト者の家庭ではありません。他の宗教を大切にしている家庭もあります。それでも、ここにクリスマスの祝いのために集ってくる一人ひとりの表情には、喜びが与えられていました。もちろん、我が子の演じるページェント(聖誕劇)や歌、祈りなどを見て、親として喜びを隠せないということもあります。しかし、それだけではないと思います。そこには特別な喜ぶべきものがあるのだということを、子どもも大人も皆、どこかで知っていて、それゆえに喜ばないではいられない。喜びのおとずれへと、互いに誘い合わないではいられないのです。それは、クリスマスを祝い、ページェントを演じる営みの中にある、ひとつの大いなる《不思議》ではないでしょうか。 私も、園児らと共に、3週間弱の準備のときを過ごしました。その中で、私が子どもたちと繰り返し確かめてきたのは、私たちのことをクリスマスの祝いの出来事、御子キリストのご降誕の出来事へと導き誘ってくれる《天使たち》が無数にいる、ということです。マリアやヨセフへの受胎告知、羊飼いらへの降誕の告知。それらは天使たちによることであったと、皆さんもご存じでしょう。しかし、それは何も二千年前の最初のクリスマスのときだけのことではありません。ページェントの中に登場する《天使たち》が、時と場所を越え、またその姿さえ変えて、今の時代に生きる私たちのところにも現れてきて、私たち一人ひとりをクリスマスの祝いの出来事へと、御子のご降誕の出来事へと、導き誘ってくれている。いや、実は、私たち一人ひとりが、家族や友達を御子キリストのもとへと導くための《天使》の役割を与えられている。自分では気づかなくても、そういう役割を神から与えられている。《天使》の群れに加えられているのです。 《来るべき方》の不思議 今日は、待降節第3主日。《喜びの主日》とも呼ばれるこの日に、教会は古くから、洗礼者ヨハネについて伝える福音書の御言葉を聴いてきました。 私たちが今日聴いた御言葉の物語は、洗礼者ヨハネの晩年の物語ですが、私たちがアドヴェント(待降節)に聴く物語として親しんでいるのは、このヨハネの誕生物語でありましょう。ザカリアとエリサベトいう老夫婦のもとに《天使》が現れて男子の誕生を告げ、その名をヨハネと名付けるようにと命じた。これは主イエスの誕生の6ヶ月前のこと、しかもヨハネの母となったエリサベトと主イエスの母となったマリアとは親類の関係にあって親しく行き来をしていた。そういうヨハネ誕生の物語を、クリスマスの物語の一部として聴いてきたと思います。 このヨハネが、今日の福音書で、自分の弟子を介して主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(3節)と尋ねたということが物語られていました。多くの方はご存じだと思いますが、ヨハネは主イエスの先駆者と呼ばれる人です。洗礼者として主イエスに洗礼を授けましたが、そこに至るまでの活動ですでに、人々を悔い改めへと導いて、主イエスがおいでになられるための道備えをした、とされます。そのような主イエスに先駆けるヨハネの歩みは、その誕生の時から始まっていたというのが、クリスマスの物語の中で聴くヨハネ誕生の物語です。ですから、洗礼者ヨハネという人は、生まれたときから主イエスを指し示して、人々の目を主イエスに向けさせることに揺るぎない確信を持っていたのだろうと、私たちは思いがちです。ところが、ここに伝えられているヨハネは、思い惑っています。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも…」と、確信を持てない心の思いを吐露しているのです。 アドヴェントの歩みの中で私たちを主イエスのもとへと導いてくれるはずのヨハネが、思い惑い、確信を持てないでいる。そういうことがあってよいのでしょうか。見知らぬ町を訪ねたときに、道案内をしてくれると期待していた人が道に迷い始めたら、困ってしまいます。誰か初対面の人と会おうというときに、その人を紹介してくれるはずの人が、実はその人のことを良く知らなかったとしたら、そもそも会うことさえできないということになりはしないでしょうか。 しかしながら、翻って自分自身をこのヨハネに重ね合わせて考えてみれば、私たちは、信仰者として歩みながらも、いつも、このヨハネのように思い惑い、確信を持てない思いを心の内に抱き続けている者であるのではないかとも思います。わたしたちは皆、洗礼を受けたときに、イエスという方を自分の主であり、キリストであると告白して、キリスト者としての歩みを始めました。そのときから、キリストに倣い、キリストに従う歩みを、曲がりなりにも続けてきたのです。それでも、私たちは皆、思い惑うことがあるのです。この方、主イエスに従っていって良いのだろうか。この主イエスが、本当に、自分にとって最後、待ち望むべき方、神の御子でいらっしゃるのだろうか。それとも、他の道があるのではないだろうか、他の信ずべきものがあるのではないだろうか。そのように、私たちは、思い惑うことがある。いや、心のどこかで、いつも、そのように思い惑い続けている。そういうところが、私たちにはあるのではないでしょうか。そのような思い惑うものを持ちながら、アドヴェントの歩みを進めて、クリスマスを喜びの祝いとして迎えても良いのでしょうか。迎えることができるのでしょうか。 私は、それでも良いのだと思います。そうすることができるのだと思います。なぜなら、ヨハネもまた、そのような歩みを歩んだのだからです。誕生のときから、主イエスのごく近くを歩み、その生涯を主イエスと共に過ごしたと言えるヨハネでさえ、そのような歩みを歩んだのです。そのようにしか、主イエスとの共なる歩みを歩むことはできなかった、と言うべきかも知れません。「大食漢で大酒飲み」(19節)。そのように揶揄されることさえあった主イエスが、一方では、権威ある者としてお教えに(マタ7:29)なられて、人々を驚かされました。それよりも何よりも、主イエスがおいでくださったことで人々の間で起こったことは、不思議としか言いようのないことばかりでした。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(5節)。そのような不思議なこと、人の理解を超えたことを、主イエスはもたらされる方なのです。そのようなことを私たちの間にもたすために、主イエスはおいでになられた。今も、おいでになられる。そういう方を《来るべき方》として見つめるならば、私たちには、どうしても思い惑いが生じるのではないでしょうか。人の理解を超えた、神の不思議を、主イエスは、私たちにお示しになられる方だからです。 クリスマスの不思議に目を向けながら 主イエスその方が、来たるべき方なのか、待ち望むべき方なのか、信じ、お迎えすべき方なのか。確信を持てずに思い惑い続けたヨハネは、それでも、自分の弟子たちに対して主イエスを指し示し、主イエスのもとへと導き誘いました。主イエスもまた、このヨハネのことを、「…預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」(9〜10節)とお告げになられたのです。 祈り 主なる神。御子をお迎えするために、天使をまたヨハネを遣わしてください。私どもも天使やヨハネと共に御子をお迎えするためにお仕えいたします。アーメン |