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クリスマス礼拝説教「神の光の中へ」 日本基督教団藤沢教会 2008年12月21日待降節第4主日 10主は更にアハズに向かって言われた。11「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」 12しかし、アハズは言った。 「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」 13イザヤは言った。 「ダビデの家よ聞け。 あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。 14 それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」 18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。 (マタイによる福音書 1章18〜25節) 迎え入れる アドヴェントのロウソクに4本、火を灯しました。ロウソクの色も、典礼布も、先週までの紫色から、今日は白色に変えられました。今日は「待降節第4主日」ですが、今年も、わたしたちは、この日を、クリスマスの祝いの礼拝、御子キリストのご降誕の出来事をおぼえての礼拝を執り行う日といたしました。 この礼拝に、多くの皆さんは、いつもとは違った心持ちでおいでくださっているのではないでしょうか。今日ばかりは、一年に一度の特別なときとしておいでくださっているのではないかと思うのです。幾人もの教会員の方から、クリスマスカードや季節のご挨拶をいただいています。その中で、「今年も、気が付いたら、一年間、礼拝に行けずじまいでした」と記してくださっている方がありました。もしかすると、皆さんの中にも、いらっしゃるのではないでしょうか、この一年間、なかなか教会に行くことができなかったけれども、せめてクリスマス礼拝だけは出ようと、奮起しておいでくださった方が。藤沢教会は、クリスマス礼拝だからといって、出席者が倍になるようなことはありませんが、わたしの育った教会では、クリスマス礼拝とクリスマスイブ礼拝では、普段の出席者数の倍以上の人が出席するのが通例でした。幼いときからその様子を見ていたわたしには、クリスマスだけは特別なのだ、何としてもクリスマス礼拝には出席するのだという、強い意識が植え付けられているように思います。皆さんの中にも、そういう思いをお持ちの方があるのではないでしょうか。 つべこべ言う必要はありません。わたしたちにとって、クリスマスの祝いは、特別なときなのです。そうではないでしょうか。そうです。クリスマスは、特別なときです。神の救いがおとずれました。神の御子が、真の救い主が、お生まれになられました。そのことを、もしかすると、わたしたちは、普段の生活ですっかり忘れてしまっていたかもしれないけれども、クリスマスが近づいてきたときに、思い出すのです。思い出して、そうだ、教会へ行こう、クリスマスを祝おう、神の救いがすでに訪れてくださったこと、御子キリストがおいでくださったことを、もう一度確かめよう。そういう気持ちを、どういうわけか与えられるのです。 神さまは、今年も、教会に、世界に、クリスマスのときを与えてくださった。考えてみれば、不思議なことです。わたしたちの住む日本では、普段、教会に行く人は百人に一人もいないのに、クリスマスのことは、多くの人が知っているのですから。ある教会のクリスマスのポスターを見ましたら、やっぱりというのでしょうか、書いてありました。「教会でクリスマス! ホンモノのクリスマス! 教会で祝い歌いましょう!」。巷にたくさんのクリスマスがあふれているけれども、本物のクリスマスは教会のクリスマスだけ。だから、クリスマスには教会へおいでください。そういう意図が伝わってくるポスターです。私も、以前は、そういう気持ちがありました。けれども、最近は、少し考えが変わりました。 神さまは、本気でクリスマスをわたしたち人間にお与えくださろうとしている。だから、クリスマスが、教会の中だけでは収まらなくなっているのではないか。最初のクリスマスが、夜通し野宿して羊の番をしていた羊たちに告げられたように、東方の占星術の学者たちに告げられたように、神さまは、どうにかして世界中の人々にクリスマスを告げようとなさっている。いや、もちろん、神さまが一所懸命にクリスマスを告げてくださっていても、世の中にはそれを曲解してしまう人々も数多くあるのでしょう。それでも、神さまは本気でクリスマスをわたしたち人間に告げようとしてくださっている。救いの訪れ、御子キリストの訪れを、全人類のためのものとしてくださろうとしている。ですから、わたしたち、もちろん、教会でクリスマスを祝うのですし、教会で祝うクリスマスは特別なものに違いないのだけれども、むしろ、クリスマスには、神さまが、わたしたち教会や信仰者を通してではなくても、直接、神さまご自身がこの世界に働きかけてくださっているのだということを、もっと信じてもよいのではないかと思うのです。 聖書のクリスマスの物語。正しい人ヨセフが、結婚前に身ごもった婚約者マリアを迎え入れるかどうかさんざん悩んだあげく、夢の中で天使の告げる言葉を聴いて励まされて、結局、マリアを妻として迎え入れました。ヨセフは、こうして、クリスマスの御子キリストのご降誕という出来事を、自分のこととして経験することになったのです。本物のクリスマスを迎えて、クリスマスが特別なことになりました。けれども、この物語を繰り返し聴き直してみると、確かにヨセフがマリアを迎え入れるかどうかと思い悩んでいるお話しなのですが、それ以上に、神さまが、ヨセフに働きかけて、どうにかしてマリアを迎え入れられるようにと、そしてヨセフが御子イエスを受け入れられるように、本物のクリスマスを迎えられるようにと、行動してくださっているお話しのように考えられないでしょうか。神さまは、ヨセフの最初の決断をひっくり返すことまでして、マリアを迎え入れさせて、ヨセフがクリスマスを迎えることができるようにされたのです。 今日は、この教会に初めておいでくださった方がいらっしゃるのでしょうか。まだ、おいでくださってから日の浅い方もいらっしゃると思います。そのような皆さんを、わたしたちは、心から歓迎して、この礼拝に、またわたしたちの交わりにお迎えしたいと思っています。わたしたちの教会は、初めての方に対して、あまり親切な教会ではないかもしれません。むしろ、おいでになっていることを知っていても、そっと脇目で見ながら見守っているという教会員の方が多いかもしれません。ですから、この教会では、もしかしたら、自分が大歓迎されていると感じないかもしれません。あまり歓迎されていないのではないかと感じるかもしれません。教会の皆さんにはお願いしたいのですが、そういう方々に対して、ヨセフがマリアを迎え入れたように、一歩踏み出す勇気をもって声をかけていただきたい。声をかけたら、お互いの名前を確かめ合っていただきたい。クリスマスはわたしたちにとって特別なのですから、その特別なときぐらいは、普段とは違う特別な自分になることを祈って求めていただきたい。そう願っています。 しかし、それでも、初めての方、日の浅い方、あるいは若い人たちは、自分がこの教会で歓迎されていると、あまり感じられないかもしれません。ですから、そういう皆さんには、こう申し上げたのです。ヨセフとマリアも、自分たちの気持ちでは、当初お互いに歓迎し合えたわけではなかったのです。それでも、神さまが、それぞれに直接働きかけてくださって、それで二人は互いを受け入れ合い、迎え入れ合うことへと至りました。そういう迎え入れ合うところでこそ、クリスマスが現実のものとなるからです。御子キリストとの出会いが経験されるところになるからです。そういうクリスマスへと、皆さんはすでに神さまの働きかけによって、押し出され、導かれているのです。その神さまの働きかけに対して、「はい」と答えていただきたい。「はい」と答えて、わたしたちと互いに受け入れ合い、迎え入れ合う歩みを始めていただきたい。そのように申し上げたいのです。 今日は、この後、三人の若い人たちの洗礼式があります。神さまの働きかけに、本当に素直に「はい」と答えて、洗礼を受ける決心を語ってくださっています。洗礼を受けて教会員になりますが、それは、ただ会員資格を得るということではありません。神さまが、わたしたちを互いに受け入れ合える者にしてくださるために、クリスマスの御子の出来事へと導いてくださっていることを、これからは共に確かめながら歩んでいく者となる、ということです。教会は、洗礼を受ける三人を群れの中に迎え入れます。しかし、それ以前に、神様が一人ひとりに働きかけてくださり、わたしたちと結びつけてくださるためにクリスマスの御子を与えてくださっていることを、わたしたちは、今日、心に刻み直したいと思います。 インマヌエルの光 説教題を「神の光の中へ」としました。アドヴェントの初めから、「光の中へ」というテーマで、クリスマスを迎える備えを重ねてきました。アドヴェントのロウソクを灯し、クリスマスの光を灯しながら、最後にもう一度、想い起こしたいと思うのです、この光が暗闇の現実の中に灯された光であるということを。 「光の中へ」というテーマを掲げて歩みながら、それでもなお、わたしたちがこの日々の歩みの中で感じてきたのは、現実の暗さでありましょう。どんより曇っている。いや、すでに暗闇が覆っている。暗黒に包まれている。ただ経済のことではありません。社会風潮のことだけでもありません。わたしたち、自分の心の曇りを、暗闇を、暗黒を、どうしたって拭い切れない。見ないで蓋をしてしまおうと思っても、何かの拍子に蓋が開き、穴が開き、暗闇が吹き出てくる。今日洗礼を受ける三人のように若い人たちには、そういう暗闇など無いかと言えば、決してそうではないでしょう。むしろ心配なのは、光などどこにもない、暗闇に慣れるしかないのだと、諦めの境地で生きることを、若い人たちが驚くほど早くから覚えてしまうことです。本当にそうなのか。光など、どこにもないのか。 いいえ、クリスマスの祝いに集まっているわたしたちは、光はある、と答えなければいけません。どこにあるのでしょうか。ここに、あるのです。神の光は、ここにある。キリストがおいでくださっている「あなた」の中にある。キリストの光が、「あなた」の中から輝き出てきている。互いを受け入れ合い、迎え入れ合い、そのことを認め合うならば、わたしたちは、この御子キリストのご降誕を祝うクリスマスの交わりの中で、神の光を知るのです。ヨセフは、マリアの中に宿った御子を認め、迎え入れました。マリアも、また、ヨセフの中にヨセフが受け入れた御子を認めたでしょう。ヨセフとマリアは、そこに、共にいてくださる神、インマヌエルと呼ばれるキリストの光を認めたのです。キリストの光を、互いに遮り合うのではなく、外へ外へと輝き出でさせる営みを共に続けたのです。 この後、三人の方の洗礼式をいたします。神の光、キリストの光が、新たに三つ、この教会の中で掲げられます。三人を迎え入れ、光の中へと導き入れようとするわたしたちが、また、新しい神の光、キリストの光の中へと迎え入れられ、導き入れられることを、共に喜び祝いたいと思います。 祈り 主なる神。御子のご降誕に感謝します。真の光を輝かせてくださることに感謝します。私ども皆、互いに迎え入れ合い、光の中に留まらせてください。アーメン |