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降誕節第1主日礼拝説教「星の光、ここに輝く」

日本基督教団藤沢教会 2008年12月28日

1起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。2見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。3国々はあなたを照らす光に向かい 王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。4目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから 娘たちは抱かれて、進んで来る。5そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ 国々の富はあなたのもとに集まる。6らくだの大群 ミディアンとエファの若いらくだが あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
                    
(イザヤ書60:1-6)

1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
               
(マタイによる福音書2:1-12)

 降誕節第1主日を迎えました。このクリスマスは、教会に招かれた多くの方々と、御子イエス・キリストのご降誕を祝う喜びのときを共にすることができました。先週は、主日のクリスマス礼拝と夕礼拝、クリスマスイヴの燭火礼拝が恵みのうちに守られました。そして本日は、高校生会のクリスマスです。CSクリスマスの祝いには、教会員の方も幾人かご出席くださり、小さい子どもたちと共に、小さな、小さな飼い葉桶を囲む礼拝をお献げしました。CSクリスマスは、恒例となっているページェントを中心にした礼拝です。子どもたちが、マリアとなり、天使となり、羊飼いや羊となって、それぞれの役のうちに、イエス様のお生まれを喜びました。教会学校では、3年ほど前から、同じページェントを行っています。セリフなしで、聖書の御言葉と讃美歌によって、進行していくページェントです。聖書朗読があり、讃美歌の前奏で子どもが登場して、身ぶりで役をし、共に讃美をします。そして、讃美歌の後奏で、席に戻って行く。そしてまた聖書朗読が始まる、といったことを繰り返しながら、物語が進められていきます。簡素ながら、古典的で、非常に美しいページェントです。今年はさらに、「舞台」という舞台を作らずに、会衆席と同じ高さでページェントを行いました。「舞台」になる積み木をすっかり捨ててしまったから、という理由もありますが、しかし、会衆席の人々も、役を持たない人々も、皆、イエス様のお生まれに立ち会う一員となること、それが私たちのページェントのコンセプトでした。礼拝者が用いるプログラムには、「マリアとうじょう、ひざまずきいのる」などという動作の指示が書かれています。劇の「台本」としてではなく、礼拝の「式文」として――それによってイエス様のお生まれに立ち会うことができる礼拝の「式文」として、礼拝者全員に同じものをお配りしたのでした。子どもたちにわかりやすいように、しかも式文にふさわしい言葉で、ということで、教師会のメンバーでプログラムの校正を重ねました。
 
 今年も、そのようにして張り切ってページェントの練習を始めたのですが、いざ練習が始まると、一つだけ、決まらない役がありました。ヘロデです。子どもたちは誰もヘロデをやりたがらず、結局は、直前になって、高校生の教会員にお願いしてヘロデになってもらったのでした。残忍な王として知られているヘロデ王です。今日の箇所の直後には、ヘロデが幼児虐殺を命じた記事がありますが、歴史上のヘロデを知っていると、私たちは、ヘロデを威張った、こわい顔をした人物として思い描きます。ページェントのプログラムにも、以前は、「ヘロデ王、威張った様子で登場」という書き込みがありましたが、プログラムの校正段階で、チェックしていただいているときに、ここでヘロデが威張っているのは適切だろうか、という指摘がありました。聖書ではヘロデ王は、「不安を抱いた」とありますが?という牧師の一言で、それもそうだ、ということになり、今年のプログラムでは、「ヘロデ王、イスをもってとうじょう、ふあんなようすですわる」と、指示を変えました。確かに、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の星を見たという、東方の占星術の学者(博士)たちの知らせは、あのヘロデに、「不安」を抱かせたのです。ヘロデは、急いで、祭司長や律法学者たちを集めました。メシア預言について、知っていそうな人に何となく相談したということではありません。とにかく、集められるだけの宗教指導者のエリートたちを「皆」集めて、メシアがどこに生まれることになっているのかと問いただしました。まるで余裕というものがない、焦燥に駆られたヘロデがいます。しかし驚くことに、その不安は、「エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)と言います。

 いったいなぜでしょうか? 悪い王ヘロデが、義しい王の誕生の知らせに狼狽するところは合点のいく話ですが、なぜ、メシアを待ち望んできたはずのエルサレムまでもが、ヘロデと同様の思いを抱いたのでしょうか。実に興味深い、聖書の洞察です。このエルサレムは、私たちのこの世界の様子と、似てはいないでしょうか? そのことを聖書は、今日私たちに問うているのです。

 この世の秩序の中に生きることに上手になり、長いものに巻かれる方が楽だと思うようになる、私たちです。自分を守ってくれる保証を、この世のものに求めようとしてしまう、私たちなのです。そういった時、義しい王がやって来るという知らせを聞くと、私たちの心を支配するのは、「喜び」ではなく、「不安」であるかもしれません。悪い陰謀の主導権を握るヘロデにはならないけれども、「ヘロデの不安――ヘロデの心のグレーな部分」を、私たちが少しでも持っているのではないだろうか、ということです。約束された神の救いを信じることに、非常に消極的になってしまっている自分に気づかされる、ということがしばしばあります。

 事実、義しい方、主イエス・キリストは、この地上に生まれてすぐにヘロデの手によって殺されることはありませんでした。しかし、三十数年の後、主は十字架の極刑へと赴かねばならなかったのです。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」た主イエスを、裁判の席で追い詰めたのは、ポンテオ・ピラトというよりは、エルサレムの民衆の叫びでした。

 祭司長や律法学者たち、聖書に精通した人たちも含めて、ここでは、ヘロデの陰謀に仕える者となっています。祭司長や律法学者たちは、その場所を知っていました。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています」。ヘロデの詰問に、聖書の言葉を引用して精確な回答を送ります。それを聞いたヘロデは、博士たちを「ひそかに呼び寄せ」ました。ある翻訳では、ヘロデが賢者たちにプライベートな相談を送った、とあります。ヘロデは、自分のプライベートな領域で、この出来事に片を付けようと思いました。何か大事になりそうな因子を見つけたら、すぐにでも、もみ消してしまえるように、予め、公のことにはすまいと考えたのです。

 その場所は、ユダヤのベツレヘムだ、という情報をつかんだヘロデは、博士たちを呼んで教えました。博士たちが見出したら、自分も教えてもらうために。「見つかったら知らせてくれ、わたしも行って拝もう」(8節)と言います。権力を持った王の陰謀。この闇の中に、小さな光は消えんばかり、といった状況です。しかし、小さな光は、ヘロデの手中にもみ消されることはありませんでした。博士たちが見た星の光が、再び天に現れ出たのです。その星は、人間の手の届かないところで、公然と輝き出します。星は先立って進み、幼子のいる場所の上に止まるまで、博士たちを導きました。

 占星術の学者である博士の役は、ヘロデとは対照的に、ページェントで非常に人気がありました。ページェントで通例の人ではおさまらず、今年は小学年生の仲良しの5人が博士。献げ物こそ、黄金、乳香、没薬、と3つではあるけれども、聖書には、博士は複数形で「占星術師たち」と書かれてあるだけですから、何人いてもいいでしょう、ということで、ヘロデ不在、博士5人の練習が重ねられてきたのでした。占星術の学者というのは、オリエントの異邦人の知恵の代表者です。異邦人であるのにも関わらず、この最初のクリスマスを、正確に受け止めた人々です。「ユダヤ人の王」となる方を表敬訪問すべく、星が導くままに旅立ちました。それは、神の導きにまったく身を委ね切っている人々の姿です。

 この博士たちの真剣さは、彼らが持参した贈り物に現れています。黄金、乳香、没薬、非常に高価な宝物を準備して、その旅を始めました。3つの贈り物のうち、「黄金」は、王としてのキリストの支配を表す贈り物だと言います。「乳香」は、薫香として祭儀に用いられた、オリエント地方の代表的香料です。そのため、この贈り物は、キリストの祭司職を暗示しているとも言われています。「没薬」は、「乳香」と同様のオリエント地方の産物です。「没薬」は、「ミルラ」とも言いますが、古代エジプトでは遺体をミイラにするために使用されたことで有名な植物の樹脂です。ですから、「没薬」は、埋葬のしるしであると言われます。赤ん坊の誕生に、「埋葬のしるし」を贈るとは、奇妙なことです。それはむしろ、一人の人が死んだとき、葬りの際に持ち寄るのがふさわしいものではないのでしょうか。あるいは、この3つの贈り物は、それぞれを別個に考えるべきでなく、博士たちの国の風習にしたがって献げられた特産物のセットなのだという人もあります。それは私の親が、この藤沢に、地元(福島)の特産の桃やきゅうりを持って挨拶に現れようとした、というのと同じような感覚だったのでしょうか。そうではないと思うのです。

 主イエス・キリストの葬りの場面を思い出しますと、弟子であるヨハネが、福音書に次のように書き記しています。「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。(ヨハネ19:38-40)

 主イエスの葬りに加わったニコデモは、ヨハネ福音書の3章に登場しています。ファリサイ派に属し、また議員であった、周囲の人々からは尊敬の眼差しを受けていた人物でありました。けれどもニコデモは、魂に渇きを覚えて、ある晩、主イエスを訪ねたのでした。「人は新たに生れなければ、神の国に入ることはできない」と説かれる主イエスの言葉に、戸惑いながらも、耳を傾けるニコデモ。主イエスは、そのような求道者のニコデモに向かって、告げられました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)ニコデモは、主イエスのこの言葉を胸に帰って行きました。次に、福音書にこのニコデモが登場するのは、主イエスが捕らえられたとき(7:50主イエスの反対勢力となった宗教指導者たちを訴える)、そしてさらにその次は、主イエスの葬りのあの場面(19:39)です。ニコデモはそのとき、高価な「没薬」を混ぜた香料を、主イエスの身体に添えたのでした。それはニコデモの、主イエスに対する信仰のしるしでした。誕生の贈り物であった「没薬」は、主イエスの歩む地上での最期を「葬り」を指し示すしるしとなりました。無惨にも十字架の極刑に死なれた主イエスの歩みは、飼い葉桶の中から、備えられたのです。私たちの<使徒信条>は、「処女マリヤより生れ」の後、直ちに、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と告白しております。多くの説教を垂れ、数々の奇跡を行なった、主イエスの公生涯の諸々の中身には言及せずに、ヘロデから、「ポンテオ・ピラトのもと」への道をまっすぐに描きます。「誕生」から「十字架」を直視しているのです。むしろ、「十字架」から「誕生」を直視している、と言った方がよいかもしれません。「十字架」の出来事によって、私たちは、クリスマスの深い憐れみを知るようになったからです。「その独り子をお与えになったほどに」私たちを愛された神の愛を知るようになったからです。神は、主イエスの犠牲の死によって、私たちが罪を乗り越えて、私たちのうちに主イエスを生まれさせてくださいます。私たちのうちに、主イエスが生まれてくださる、それはクリスマスの光の誕生です。

 クリスマスの星の光は、思いがけない人々を導きました。さらに思いも寄らなかったことに、その星は、「ユダヤ人の王」の誕生にはふさわしくないような場所に止まりました。神に遠いと感じている人々に、神は、最初のクリスマスを用意されたのです。神はいないと感じるような寂しいところに、神を忘れてしまうようなちっぽけなところに止まって、クリスマスの光を灯してくださったのです。博士たちは、来た道とは別の道を帰りました。「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12節)のです。その道のりに、もはや星の光の導きは描かれていません。夜が明けたのです。私たちもまた、クリスマスを導いた星の光を心に灯しながら、帰りましょう。クリスマスの光が私たちの内に留まり、私たちが「その独り子をお与えになったほどに」愛してくださる神の愛に留まることができるよう祈りつつ、年の瀬を越えて行きましょう。