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主日礼拝説教「起きて、行きなさい」

日本基督教団藤沢教会 200914

15 主はこう言われる。

ラマで声が聞こえる

苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。

ラケルが息子たちのゆえに泣いている。

彼女は慰めを拒む

息子たちはもういないのだから。

16 主はこう言われる。

泣きやむがよい。

目から涙をぬぐいなさい。

あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。

息子たちは敵の国から帰って来る。

17 あなたの未来には希望がある、と主は言われる。

息子たちは自分の国に帰って来る。
              
(エレミヤ書 311517節)


13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。

18「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。

ラケルは子供たちのことで泣き、

慰めてもらおうともしない、

子供たちがもういないから。」

19ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、23ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
                  (マタイによる福音書 21323節)



クリスマスの幼子を守れ!

福音書の御言葉にちなんだ、あまり歌われないかもしれない讃美歌を、説教に先立ってご一緒に歌いました。272番「おやすみなさい」。子守歌です。主イエスの母マリアが、その胸に抱く幼子をあやしている。ぐずって泣く赤子に、「こわがらないで。何も心配はいらない」と語りかけながら、静かに、眠るのを待つ子守歌。それが、讃美歌として教会で歌われるようになったものです。普段であれば、なかなか礼拝で皆さんとご一緒に歌う讃美歌としては選びにくい一曲です。しかし、今日の礼拝では、ぜひ皆さんとご一緒に歌いたいと思いました。ちょうど4年前の新年の礼拝でも歌いましたが、今回は、そのとき以上に、皆さんとこの讃美歌の歌詞を深く味わいながら歌いたいと願って、選ばせていただきました。

このクリスマスに、教会では、若い三人の兄姉が洗礼を受けられました。キリスト者として新しく生まれたのです。洗礼を受けることは、信仰生活のゴールではなく、スタートです。洗礼を受けたとき、たとえその人が何歳であろうと、キリスト者としては0歳です。もちろん、わたしたちは、幼児洗礼でなければ、洗礼を受けるに際して、一つの決断をし、自分の口で信仰の告白をいたします。そうであっても、洗礼を受けるに際して、その人の決断や自覚的な信仰が決定的なのではありません。何よりも重要なことは、その人をキリスト者として誕生させようという、神のご決断です。神のご決断を信じて、そのキリスト者を新しく誕生する神の家族の一員として受け入れ、迎え入れようという、教会の自覚です。

一人の子の誕生は命を与えてくださる神のご決断から始まります。新しい命は一人の母親の胎に宿されます。母親とその家族は、母体に新しい命が宿ったときから誕生してくる子を迎え入れる備えを始めます。しかし、本当に大切なことは胎から生まれ出てきたときから始まるのです。そのときから、その家族全体が誕生してきた子の命を守り育むために神から委ねられた責任を担い始めるのです。

クリスマスを祝いました。このたびのクリスマスに誕生したのは、御子キリストだけではありません。三人の新しい命を授かったキリスト者が誕生したのです。教会というキリストの家族のうちに誕生したのです。この生まれたばかりのキリスト者たちを、わたしたちは神から託されたのです。ちょうど、二千年前に幼子イエスを託された聖家族、ヨセフとマリアのように、わたしたちは、この三人の生まれたばかりのキリスト者を託されました。わたしたちは、この子らを連れて、御言葉の指し示す道を進みます。赤子のようにぐずって泣くときにも、わたしたちは、先に生まれさせられた兄として姉として、「こわがらないで。何も心配はいらない」と語りかけながら、どこまでも一緒に連れて行くのです。

甘やかすわけではありません。生まれたばかりのキリスト者が一人で歩んで行くには厳しい現実があるのです。幼子イエスの命を狙ったヘロデ大王のような、キリスト者としての新しい命を狙うものが、わたしたちの現実の中には数限りなくある。考えてみてください。今日まで自分の信仰心や信念で信仰生活を保ってきた、などと言える人が一人でもいるでしょうか。わたしたちすでに洗礼を受けた者も皆、洗礼を受けたときから、多くの教会の先達に守り助けられて、キリストに従う道を歩み続けてきたのです。ヨセフは、主の天使にヘロデ大王の存在を示されて、そこから逃れる道を進みました。わたしたちも、キリスト者としての命を奪い取ろうとする諸々を見抜き、そこから逃れる道を共に進むのです。

 

エジプトに逃れて

クリスマスの物語の終わり。占星術の学者たちの訪問を受けた幼子イエスとヨセフ、マリアら聖家族は、エジプトへの逃避行をいたしました。幼子の命を狙っているというヘロデ大王から逃れるためです。

ヘロデ大王は、残忍な暴君として知られていました。政敵ばかりでなく、愛する妻も自分の息子らも、疑心暗鬼に駆られた末に殺してしまったと言われます。そのヘロデ大王が、占星術の学者たちや律法学者たちの語るベツレヘムに生まれたという幼子の存在を不安に思い、その命を狙ったのです。その幼子が特定できないと分かったときには、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させたのでした。聖書学者の推測では、このときに殺された幼児は、二十〜三十人であったとも言われます。ヘロデの行った残忍な虐殺事件の中では、取るに足りない小さな事件であったかもしれません。けれども、そうであっても、このときの虐殺事件の背後で、どれだけの母親たちが悲嘆に暮れたことでしょうか。どれだけの家族が怒りと恐れを抱いたことでしょうか。そのような中で、聖家族だけが、幼子イエスだけが、天使のお告げによって難を逃れたというのです。

私は、この小さな、しかし関わったどの家族にとっても重大な事件のことを、主イエスは両親から聴かされて育たれたのではないかと想像するのです。「あなたが生まれたとき、実は、こういうことがあって…」と、両親は息子イエスに語り聴かせたのではないでしょうか。それを聴かれた主イエスは、何を感じられたでしょうか。きっと、「なぜ、そのような虐殺事件の中で自分だけは助かったのか」と、深く自問されたのではないでしょうか。両親を通して守りの御手を伸べられた主なる神の導きを、はっきりと知るようになられたのではないでしょうか。幼児虐殺というようなことの起こる暗い現実の中で、命与えられ、命保たれて、生かされていることの意味を、明らかに悟るようになられたのではないでしょうか。それほど重要な原体験となられて、だからこそ、この物語を弟子たちに語られた。弟子たちにも、そして、わたしたちにも、同じように自問させるためです。

多くの人が信仰に触れ、教会に触れ、キリストの命の萌芽をさえ与えられながら、信仰を見失い、教会から離れ、キリストの命を失ってしまいます。今も、《ヘロデ大王》のような何者かが奪い取ってしまう信仰の命は、少なくないのです。そのような中で、なお、キリスト者として生かされ、洗礼を受けた者として命保たれ、生かされ続けているわたしたちが、ここに集っている。なぜでしょうか。失われた命を回復させるためではないでしょうか。主イエスが、十字架に至る生涯をかけて、失われたイスラエルの民を救う御業に仕えられたように、わたしたちも皆、失われた信仰の命を回復してくださる神の御業に仕えるために、今、キリスト者として生かされている。そういうことなのではないでしょうか。

ヘロデの怒りから離れて

そこで、もう一度立ち戻って、物語に目を向けたいのです。

ヘロデ大王。ユダヤの王です。権力者です。残虐な暴君でした。それにしても、幼子一人のことで不安に思い、怒りにまかせて一帯の幼子を一人残らず殺してしまうというのは、乱暴すぎます。あのヘロデだからそういうこともあっただろうと、誰もが言います。しかし別の見方をするならば、ヘロデは王として当然のことをしたのだ、と言うこともできるのかもしれません。ヘロデの怒りは、あの占星術の学者たちの裏切りに対する怒りでした。ヘロデは、学者たちを送り出すときに、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(2:8)と命じたのです。学者たちも「はい」と言って出発したのでしょう。ところが、学者たちはヘロデとの約束を一方的に破って裏切ったのです。その裏切りに対してヘロデは怒った。大いに怒った。だまされ、裏切られたことに対して、決して怒ることなく、静かに寛容に見過ごしにできる人が、どれだけいるでしょう。そうであれば、ヘロデの怒り自体を、だれも「けしからん」とは言えないでしょう。しかし、その怒りは、幼児虐殺という、とんでもないことへと発展してしまった。弱く小さな命を根こそぎ奪い取ってしまったのです。

私は、皆さんに申し上げたいのです。このヘロデの怒りを、わたしたちも皆、心の中に持っているのではないか。その同じ怒りから、わたしたちは、離れられないでいるのではないか。過ぎた年を振り返って、わたしたちは皆、どれほど、このヘロデの怒りと同じ怒りを発して、自分の正しさを貫こうとして、周囲の者の心の命を蔑ろにしてきたことか、恥じ入らなければならないのではないか。

しかし、わたしは、皆さんを恥じ入らせるために、このようなことを申し上げたいのではありません。わたしたちは、ヘロデの怒りから逃れる道を、すでに与えられているのです。御子キリストを幼子として託されたヨセフが、主の天使の告げる言葉に従って、その子と母親を守る歩みへと進み出ることができたように、わたしたちにも、御子キリストが幼子として託されている。洗礼を受けて生まれたばかりの新しいキリスト者として、託されている。この人たちを託され、守る責任を負う者として、わたしたちは主の天使の告げる言葉を聴くのです。自分で行こうと思うところに行くのではなく、「起きて、行きなさい」と告げられるところに進み行くのです。そこにだけ、ヘロデの怒りから逃れる道がある。わたしたちの怒りが周囲の命を蔑ろにしてしまうことから離れる道がある。わたしたち自身と、わたしたちの周囲の者にとっての、幸いの道がある。

幼子イエスと共に、クリスマスから始まる歩みを始めました。御子を宿した信仰の家族と、互いに支え助け合いながら歩みます。主イエスの導いてくださる幸いの道、十字架と復活にたる道は、すでに備えられています。

 

祈り  

主なる神。ヘロデの怒りから離れさせてください。ご計画を聴く者とならせてください。御子の命を与えられた主の家族として共に歩ませてください。アーメン