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主日礼拝説教「主イエスが来られる」
日本基督教団藤沢教会 2009年1月11日
1主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」2サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、3いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」4サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」5「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」
サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」8エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」9エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」11サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。
13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。 (マタイによる福音書 3章13〜17節)
洗礼〔バプテスマ〕から始まる
今日の主日は、新年明けて2回目の日曜日ですが、わたしたちの教会暦の呼び方では「降誕節第3主日」と呼びます。12月25日のクリスマスから数えて3番目の日曜日ということです。味も素っ気もない呼び方ですが、しかし、今日はぜひ、この「降誕節第3主日」には別の呼び名があることをおぼえてお帰りいただきたいと思うのです。それは、「主の洗礼の主日」という呼び名です。日本基督教団で公式の呼び名になっているわけではありませんが、古くからの教会の伝統で、この時期には主イエスが洗礼を受けられた出来事が記念されてきました。わたしたちの聖書日課でも、毎年必ずこの「降誕節第3主日」に主イエスの洗礼の出来事を伝える福音書の御言葉が読まれるように定められているのです。そういう伝統だから、というだけのことではありません。主イエスの洗礼の出来事は、クリスマスやイースターの出来事と同様に、わたしたちが繰り返し、心に刻み直し、学び直すだけの意味のある出来事だからだと思います。
主イエスの洗礼の出来事。この出来事を伝える物語は、クリスマスに洗礼を受けたばかりの皆さんには、とても印象深いものだと思います。つい先日ご自分の受けられた洗礼と、主イエスの洗礼とを、比べてみていただきたいと思います。いや、洗礼を受けたばかりの皆さんだけでなく、すでに洗礼を受けていらっしゃるすべての皆さんに、この主イエスの洗礼の出来事を伝える物語を通して、ご自分の受けられた洗礼を想い起こしていただきたいと思うのです。
主イエスの洗礼の出来事は、何よりも、わたしたちすでに洗礼を受けた者に、自分の受けた洗礼のことを想い起こさせるものなのではないでしょうか。皆さんは、どのように洗礼を受けられたのでしょうか。どこで、誰の司式で、どのような人たちに見守られて、洗礼を受けられたのでしょうか。そのとき、何を感じ、何を心の中に思っていたでしょうか。そのとき、何をされて、何を告げられたのでしょうか。洗礼を受けたときの物語は、おそらく、洗礼を受けた者の数だけあるのでしょう。皆、違う洗礼体験をしてきました。たとえ同じときに洗礼を受けても、それぞれに違ったものとして、洗礼を体験してきたと思います。そのことを語っていただくのも、わたしたちのお互いのために大切なことだし、また、これから洗礼を受けるであろう方のためにも有益なことだと思います。
けれども、今日、わたしたちがおぼえたいのは、主イエスの洗礼の出来事は、そのような私たち一人ひとりが体験してきた幾多の洗礼の出来事の一つに過ぎないのではない、ということです。
使徒パウロが、わたしたちは「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」(ロマ6:3)と教えていますが、わたしたちは、主イエスが受けられた洗礼を受けて、キリストと結ばれた歩みを始めます。まず、主イエスの洗礼の出来事があって、だからこそ、その主イエスの洗礼と同じ洗礼を、わたしたちは受けさせていただくことになったのです。もちろん、その儀式形式が同じだということではありません。たとえば、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたから、わたしたちもヨルダン川で洗礼を受けなければいけない、ということではないでしょう。わたしたちが主イエスの洗礼と同じ洗礼を受けるというのは、わたしたちが主イエスのお命じになられたとおりに洗礼を受けるとき、主イエスが洗礼を受けられたときと同じ出来事がわたしたちの身に起こっていると信じる、ということです。
…そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(16〜17節)
ご自分の、また教会の兄弟姉妹の洗礼式を想い起こしていただきたいのです。もしかしたら自覚がなかったかもしれませんが、洗礼を授けるとき、わたしたち教会は、その人に向かって天が開かれ、神との通路が確かに通じたことを信じて告げたのです。聖霊がその人に与えられるのを見たのです。そして、「あなたは神の子だ」と呼ばわってくださる主の声を、確かに告げ伝えたのです。
洗礼を受けた者として、わたしたちは、主イエスによって神との通路を確保して、聖霊を与えられた者として教会の交わりのうちに、「神の愛する子」と呼ばれる者として歩み始めました。主イエスが歩まれたのと同じ道を、主イエスに導かれて、歩み始めました。振り返るとき、もしかすると、わたしたちは、その歩みから大きく逸れてしまっていたかもしれません。離れてしまっていたかもしれません。「神の愛する子」と呼んでいただくようになった誇りも責任も、どこかに放り出してしまっていたかもしれません。しかし、今、クリスマスに新たに洗礼を受けられた、生まれたばかりのキリスト者たちと共に、もう一度、主イエスの洗礼の出来事から、わたしたちの歩みを歩み直したいと思うのです。
洗礼を授ける者とされる
ところで、この主イエスの洗礼の出来事の物語では、主イエスだけでなく、もう一人、「洗礼者ヨハネ」という人物が登場しています。ヨハネは、主イエスに洗礼を授けることになった人物です。
このとき、ヨハネは、主イエスに洗礼を授けることを躊躇したといいます。
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(14節)
主イエスが来たるべき方であることを悟ったヨハネの謙虚さを示している場面だと説明されたりします。そういうこともあるかと思います。けれども、わたしは、最近、このヨハネの言葉を聴き直すたびに、謙虚ということとは少し違う、畏れのような感覚をおぼえないではいられなくなってきました。牧師として、教会から委ねられて洗礼式を執行するたびに、その畏れの感覚は深まるのです。
洗礼を授ける。ヨハネは、自分の信仰の考えに基づいて多くのユダヤの民衆に「悔い改めの洗礼」を授けてきました。洗礼の儀式を行うこと自体は、ヨハネにとって、何ということはない、慣れたことであったでしょう。ところが、主イエスに洗礼を授けるとき、ヨハネは立ち止まったのです。洗礼を受けようとしている者が、主イエスであったからです。「神の子」と呼ばれるべき人であったからです。元来、洗礼を授けるという儀式には、授ける者と受ける者の間に師弟関係を生じさせる意味があったようです。ヨハネの洗礼を受けるということは、ヨハネの弟子になるということでした。ですから、ヨハネは躊躇したのです。立場が逆だと、訴えたのです。ところが、主イエスは、それでよい、これは正しいこと、神の御心に適ったことなのだと言われて、ヨハネから洗礼を受けられたのです。
牧師は、教会に委ねられて、新しくキリスト者として誕生しようとしている人に洗礼を授けます。そのとき、洗礼を受けた人が牧師の弟子になるのでないことは当然です。ですから、どの牧師から洗礼を受けたかは、重要なことではありません。しかし、逆に、洗礼を授ける牧師が、あるいはそのことを牧師に委ねる教会の皆さんが、自分たちが誰に洗礼を授けようとしているのか、そのことに目を向けることは、重要なことなのではないでしょうか。洗礼を決心したバプテスマ志願者が、洗礼式に臨み、司式者の前に跪くとき、そこにいるのは、「○○さん」であるだけではないのです。「キリストと結ばれて神の子と呼ばれるべき人」なのです。その人の中に、その人と共に、主イエス・キリストがいらして、その人の受ける洗礼を、ご自身のものとして完成させようとなさっている。そのことを、わたしは、洗礼式を執り行うたびに思わざるを得ないようになってきたのです。
しかし、それは、畏れ多いと同時に、光栄なことなのだと思います。教会の皆さんにとっても、そうだと思います。主イエスは、わたしたち教会の群れに向かって、お命じになられました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19〜20)。教会は、ヨハネのように洗礼を授ける者として立ちなさいと命じられたのです。そこに、主イエスは、おいでくださる。ヨハネのところに来られたように、主イエスは、洗礼を授ける教会の群れに、おいでくださるのです。
主イエスが来られたのだから…
わたしたちは、新しくキリスト者として誕生する人に洗礼を授けるごとに、主イエスが、今もわたしたちの間に来てくださっていることを、確かめさせていただいている。そのように言っても、もちろん、洗礼を授けられた方が、「自分は主イエスと同等だ」と言って高ぶったりはなさらないでしょう。そうであっても、なお、わたしたちは、畏れをもって、「神の子とされた」者の誇りと責任をもって歩ませていただきたいと思います。主イエスが来られたのです。主イエスが、直々においでくださったのです。そのことを確かめさせていただいたのです。そうであれば、わたしたちは、主に従う者として、「神の子」の誇りと責任を、喜びをもって掲げつつ、ここに立ち、また、歩ませていただこうではありませんか。
祈り
主なる神。主の洗礼に与らせてください。主がおいでくださることを悟らせてください。主と共に「神の子」として歩む道を進ませてください。アーメン
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