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主日礼拝説教「主イエスに従う群れ」 日本基督教団藤沢教会 2009年1月18日 2:1彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」2彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。3主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。4恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。5彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。6人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。7たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。8人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」9わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。10彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と呻きと嘆きの言葉であった。 3:1彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」2わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、3言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。 4主はわたしに言われた。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。5まことに、あなたは、不可解な言語や難しい言葉を語る民にではなく、イスラエルの家に遣わされる。6あなたは聞き取ることができない不可解な言語や難しい言葉を語る多くの民に遣わされるのではない。もしわたしがあなたをそれらの民に遣わすのなら、彼らはあなたに聞き従うであろう。7しかし、イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。まことにイスラエルの家はすべて、額も硬く心も硬い。8今やわたしは、あなたの顔を彼らの顔のように硬くし、あなたの額を彼らの額のように硬くする。9あなたの額を岩よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らが反逆の家だからといって、彼らを恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」 (エゼキエル書 2章1節〜3章4節) 18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20二人はすぐに網を捨てて従った。21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。 23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。24そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。25こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。 (マタイによる福音書 4章18〜25節) 「わたしについて来なさい」 昨年は、三人の受洗者、三人の転入会者、一人の客員の方が、藤沢教会の群れに加えられました。神がお招きくださって、わたしたちと共に歩むようにと、この群れに加えてくださった皆さんです。洗礼を受けるまで、あるいは転入会するまで、牧師や伝道師は、細心の注意を払って、この教会の群れの中に迎えるための備えをさせていただきました。これからの歩みで、その一人ひとりが、中でも、洗礼を受けて信仰者として歩み始めたばかりの一人ひとりが、この信仰の家族の中で受け入れられ、愛され、教会家族の一員になってよかったんだという思いを確かにしていっていただきたいと、願わないではいられません。教会の皆さんにもそのことを心から願っていただきたいのです。「あなたは、わたしたちの教会家族のかけがえのない一人。あなたを決して置いてきぼりにはしない。自分の足でしっかり歩いていけるようになるまで、あなたの手を引いて行く。病んで、弱って、自分の足で歩けなくなったときには、あなたを背に負ぶって行こう」、と。 このようなことを申し上げるのは、牧師や伝道師だけでは、到底、この教会家族に新しく生まれる一人ひとりを、また加えられる一人ひとりを、十分に心に掛けさせていただくことができないからです。今日の礼拝でもお一人の兄弟の転入式を執り行いますが、他にも、今すでに洗礼に向けての準備会を始めている方々が、少なからずいらっしゃいます。まだ洗礼を志願する決心には至っていないけれども、洗礼志願を目標に歩んでいきたいと申し出てくださっている方もいらっしゃる。その一人ひとりのために、わたしたちは、主イエスのあの大宣教命令を果たすことが求められているのです。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタ28:19〜20)。 けれども、そうは言っても、変に気負う必要はないとも思います。主のご命令だからと言って、一人の人を主の弟子にするために、洗礼を受けさせるために、主の教えを守る生活を始められるように、わたしたちがあれこれ手を尽くさなければいけない、ということではないと思うのです。なぜなら、洗礼を受けようと決心して申し出てくださる方はもちろん、まだ迷っていらっしゃる方も、いや、それどころか、「自分は洗礼を受けない」と考えていらっしゃる方でさえ、ここにおいでくださり、共に礼拝に加わってくださっている皆さんは、すでに、あの主の呼びかける御声を、心のどこかで確かに聴いていらっしゃるはずだからです。 「わたしについて来なさい」(19節) ガリラヤ湖のほとりで、主イエスは、漁師の兄弟、シモン・ペトロとアンデレに呼びかけて、そう言われたと、福音書は伝えています。けれども、その呼びかける声を聴いたのは、ペトロとアンデレだけではない。十二人の愛弟子たちだけではない。今に至るまで、数知れない人たちが、この呼びかける声を聴いてきました。ペトロやアンデレのように、それぞれの生活の場で、仕事に勤しむ中で、多くの人が、主の呼びかける声を心のうちに聴いてきて、だからこそ、教会へと導かれてこられた。礼拝へと導かれてこられた。 洗礼を受ける決心に至った人というのは、もしかすると主イエスが特に大きな声で呼びかけてくださったのか、その呼びかける声をはっきりと知るようになった者なのでしょう。すでに洗礼を受けてキリスト者として歩んでこられた皆さんは、どうでしょうか。「そんな声を聴いたおぼえはない」とおっしゃられる方もあるかもしれません。けれども、この際、本人の自覚が重要なのではありません。現にキリストと結ばれる洗礼にあずかられて、主イエスに従うキリスト者とされている。その事実があるということこそ、主がその人に向かって、「わたしに着いてきなさい」と呼びかけてくださったことの、紛れもない証拠なのですから。 弟子たちも、大勢の群衆も 四人の漁師たち。ペトロと呼ばれるシモンと兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ。この四人に、主イエスは声をかけられて、従わせられました。この聖書の箇所には、この四人が「弟子になった」とは書いてありませんが、このときから四人が弟子になったのは、間違いないでしょう。福音書の後のほうでは、何の断りもなく、この人たちは「弟子たち」と呼ばれています。 確かなことは何も分かりませんが、この四人の弟子たちは、このとき、洗礼を授けられたのかもしれません。主の大宣教命令でも、「弟子にする」ということは、「洗礼を授け」「命じたことを守るように教える」ことだと言われています。そうすると、この四人の漁師たちは、主イエスの呼びかける声を聴いて、それに応じたときに、弟子になり、洗礼を授けられ、主の教えを学び始めたのです。新しい、今までの生き方とは違う、主の弟子としての歩みが始まったわけです。今まで歩んできた自分の過去と一線を画し、また、他の人たちの生き方とも一線を画する、弟子としての歩みが始まった。それは、わたしたちの間で、キリスト者としての歩みが始まることと、同じことです。今も、わたしたちは、最初の弟子となった漁師たちと同じようにして、洗礼を授けられた主の弟子としての歩みを始めます。主イエスに従う歩みを始めるのです。 主に従う。それは、重い言葉でしょうか。厳しさを伴う言葉でしょうか。そういうところもあるかと思います。弟子は先生に服従するのです。先生に服従する気がなければ、師弟関係は解消すべきでしょう。そうでなければ、「わたしは出来の悪い弟子です」と開き直るしかないかもしれません。「主に従う」という言葉には、わたしたちが、そういう極端な態度を取りかねない難しさがあるかもしれません。すでに洗礼を受けてキリスト者になったわたしたちの中に、そういう、「主に従う」ということに対する葛藤がある。そして、これから洗礼を受けることになるであろう皆さんの中にも、実は、そういう「主に従う」ということに対する葛藤や引っかかりがあるのではないでしょうか。 そうであればこそ、わたしは、今日、皆さんに、よく御言葉の語るところに耳を傾けて、聴き取っていただきたいのです。 主に従う。それは、もっと単純なこと、もっと素朴なことです。 四人の漁師たちが主イエスに従った、と語られたのに続いて、福音書は、主イエスの評判を聞きつけた多くの人々がやってきて、主イエスのところに、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来た、と語っています。そして、このようにして集まってきた大勢の群衆が、イエスに従ったと、福音書は語っているのです。 この人たちは、四人の漁師たちのように、主の呼びかける声をはっきりと聴いて従ったというわけではないようです。弟子になり、主イエスを先生と仰ぐようになって、従ったのではありません。ただ、評判を聞いて、主イエスのところに行けば良いものを得られると思って、やってきて、従い始めた。そうであっても、福音書は、四人の弟子たちの場合と同じように、イエスに従ったと言うのです。 この人たちは、ただ、主イエスの歩んで行かれるところに、ぞろぞろとついて行ったのです。主イエスの後ろ姿を見失わないように、いや、直接には主イエスの姿が見えていなくても、先に行く者たちが、「自分たちはイエスの後ろについて行っているのだ」と言うのを頼りに、主イエスの後について歩いていった。何か烏合の衆のようですが、けれども、それでも、その人たちこそ、主イエスに従っていった人たちなのです。弟子たちと何も違わない。主イエスに従うとは、要するに、主イエスの後ろ姿を見つめながら、その後について行くことです。主イエスの歩んで行かれたところを、他の者たちと一緒に、自分も歩んで行くことです。主イエスを先頭にした、主イエスの団体旅行に加わることです。 主イエスに従う旅をご一緒に この主イエスに従っていった大勢の群衆の中から、日ごとに、弟子としての歩みを始める者が生まれていったのでしょう。主イエスに従う大きな群れの中にあって、「わたしについて来なさい」という主の呼びかけが、他でもないこの自分に対する呼びかけなのだと気づかされて、主から離れられなくなって、洗礼を受ける決心を与えられて、キリスト者として新しく生まれさせていただくときを備えられて、教会家族の一人として名前をおぼえられて、そしてなお、その主に従う大きな群れの中で、主に従う歩みを続ける。主が四人の漁師を弟子になさったときから、今に至るまで、教会の中で、そのことが延々と行われてきました。 今日、教会においでくださって、礼拝を共にしてくださった皆さんと、わたしたちは、主イエスの後ろ姿を見つめながら、主に従う営みをさせていただいております。教会家族を中心とした教会の群れの中に加わって、主に従う。洗礼をすでに受けた者も、これから受けるであろう方も、まだ何とも言えない方も、皆、すでに主に従う歩みを始めています。始めさせていただいています。主が、すでに、わたしたち皆の者に、実は呼びかけてくださっているからです。 「わたしについて来なさい」 祈り 主よ。招かれて主に従う群れの内に参りました。主の呼びかけを聴かせてください。主の弟子とならせていただく幸いを喜ぶ者とならせてください。アーメン |