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降誕節第5主日礼拝説教「始まりの場所」                      
 日本基督教団藤沢教会 2009年1月25日
23先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。

1闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。2あなたは深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように 戦利品を分け合って楽しむように。3彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を あなたはミディアンの日のように 折ってくださった。     (イザヤ書8:23-9:3)

12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、 異邦人のガリラヤ、16暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。      (マタイによる福音書4:12-17)
 
 私たちのプロテスタント教会は、この2009年を特別な年として迎えています。2009年は、横浜開港と共に、プロテスタント日本伝道150年として覚えられる年です。私たちの教会の属する日本基督教団でも、この伝道150周年を記念しながら、様々な形で伝道礼拝や講演のプログラムが計画されていることです。私たちの教会も、昨年は創立90周年(宣教125年)の節目を迎えて、「一人が一人を」を合言葉に、伝道に一層力を入れていく決意を新たにした1年でありました。150年、125年、90年、いずれも、言葉では語り尽くせない教会の歴史の重みを思わせる数字です。しかし、日本はまだまだ、若い教会であるとも言えます。新約聖書で言えば、教会が生まれたばかりの100年、150年というものは、迫害の歴史でした。日本の教会はまだ、これから!そのような言葉もよく聞かれることです。プロテスタント教会自体の誕生まで遡れば、500年近い歴史を持っています。プロテスタント教会は、1517年に、宗教改革者のマルティン・ルターが、ヴィッテンベルクの教会の壁に95か条の提題を貼り出した出来事に発しています。「私たちの師にして主であるイエス・キリストが悔い改めよと言われた時に、それによって主イエスは、キリスト者の全生涯が悔い改めであるべきことを求めておられたのである」、これがルターの第一の提題です。ここでルターが言う、主イエスの「悔い改めよ」という言葉は、本日共に聞きました、マタイ福音書4章17節の御言葉です。ルターは、『大教理問答』という著書の中でもまた、「もしわたしが罪の告白を勧めるなら、それはわたしがキリスト者であることを勧めているのである。」と、そのように言っています。私たちが真のクリスチャンになることへの招きは、罪の告白への招きにある。そう言い切られてしまうと、なんだかスッキリするような気がします。私たちが信仰者として、どのように生きていったらよいのか、それは「悔い改め」だ、とハッキリ示されたようで、ルター先生に感謝、という思いにもなるのですが、それは何よりも、主イエス・キリストの御言葉の中心的メッセージであるのです。「悔い改めよ」。この言葉をもって、主イエスは「公生涯」といわれる、福音伝道の歩みを始められるのです。

 そして主イエスの最初の弟子たちもまた、「悔い改め」を語ったのでした。使徒言行録2章に、ペトロの説教の言葉を聞くことができます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:14)悔い改めること、洗礼を受けること、罪の赦し、これらのことが分かちがたく結びつけられて語られています。罪の「悔い改め」こそが、「民を罪から救う」(マタイ1:21)方としてこの地上に来てくださった主イエスの伝道でした。

 主イエスの伝道の初めは、非常に消極的な動作です。「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(マタイ4:12)とあります。ヨハネが捕らえられたことについては、マタイ福音書の14章の初めの部分に書かれていますが、ガリラヤの領主、あのヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスの不正な結婚について批判したための投獄であったようです。そしてそのヨハネの投獄を知った、主イエスはガリラヤに退かれたと言います。「退く」という逃げ腰にも聞こえるこの言葉は、まだ赤ん坊であったころに、ヘロデ大王の虐殺の手から「逃れ」、「エジプトを去」(マタイ2:14)った、場面を連想させます。しかし主は、ヘロデ大王を恐れるようにして、その息子ヘロデ・アンティパスを恐れたから「退いた」のではありません。人間が力を奮っている中、神の力をもって衝突することをしない、主イエスの姿勢は一貫したものです。荒れ野の試みにおいても、主は、神の力を誇示する道を選ばれませんでした。主が選ばれた道は、「退」くことでした。捕らえられたヨハネの代わりとなって、出て行くことをしなかったのです。

 主イエスは、故郷ナザレを離れて、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれました。そして、それは紀元前8世紀の預言者イザヤが語った預言の成就であるということが、マタイによって語られています。「ゼブルンの地とナフタリの地、 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、 異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタイ4:14)。

 「異邦人のガリラヤ」と言われる、この地域は、新約聖書の時代には、ユダヤ人の住民が多かったということなのですが、その一昔前に、外国の侵入により混血が進んだ地域として、ユダヤ人からは厭われた場所であったと言われています。特に、この預言が書かれた、イザヤの時代(紀元前8世紀)は、ガリラヤを含むパレルチナ北部(北イスラエル王国)は、アッシリア軍の侵入を受け(紀元前722年)、荒らされていました。たくさんの外国人が移住してきた時代です。当然のごとく、新しい血が混じるということが起こってくるわけですが、系図を大切にするユダヤ人はこの混血を非常に嫌がりました。やがて「異邦人のガリラヤ」、「暗闇に住む民」、罪深いところとして、軽蔑を受ける地域となっていきます。新約の時代には戻されて、ユダヤ人の居住地となっていたガリラヤが、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる所以は、外国による侵入という強烈な歴史の記憶にあります。

 教会で、私が担当する組会では、イザヤ書の学びをしていますが、外国の侵入を受けて、捕囚となる民について、なかなか現在の日本に生きる自分たちとは重なってこない、という感想をお話してくださった方がありました。確かに、日本の本土においては、外国の侵入や民族について、深く考えるチャンスが少ないように思います。そのことが日本人の気質にも影響しているのかもしれません。他方、この「異邦人のガリラヤ」は、度重なる、外国の侵入を経験し、また交易のための大きな通路も持っていて、新しい血と新しい思想が流れ込んだ地域でもありました。「ガリラヤの風」という言葉がありますが、風通しの良い、新しいことを受け入れやすいような特徴があったようです。その地を、主イエスは、公生涯の初めの地とされました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。天の国、神の支配が「近づいた」のです。この良い知らせは、「悔い改めよ」という戒めの響きをもって、私たちのもとにやってきたのです。

 さて、この「悔い改めよ」という戒めは、私たちにとって、いったい何の役に立つものでしょうか。今、罪の問題と正面対決している、具体的に戦っておられるという方がおられるかと思います。日々、罪の現実が、私たちを取り巻いています。世界には飢えがあり、政治の横暴があり、私たちの身近なところにも、経済の不況があり、人間関係の破れがあります。遠くを見ても近くを見ても、紛争や犯罪が後を絶たない時代です。この世界の現象の中に、罪の闇を見つけるのは容易いことですが、誰もこのままでいいとは思っていないのです。誰もが、この闇の現実に、反省や後悔の念を抱き、ため息をもらしながら過ごしています。「悔いること」は、何もクリスチャンでなくても、多くの人が心がけていることです。時には、心に痛みを覚えながら悔います。それによって自分を否定して病を得ることさえあるほど、悔いる、そういう人間の姿が一方では現れてきます。「悔いること」それ自体は、何の喜びもないことです。それならば、なぜ、主イエスは、そのような辛いことをよい知らせとして告げ知らされたのでしょうか。反省することによって人はよりよく生きていけるからでしょうか。主イエスの語る「悔い改め」は、そのような向上心によるものではありません。自己を、美しく正していくことが目的であれば、そうなっていけない自分に気がつくとき、私たちは愕然とするでしょう。

 「悔い改め」は、単に罪を自覚したり、嘆いたりすることを意味しません。新約聖書のギリシャ語で、「悔い改め」は、「回心」を表す<メタノイア>という言葉です。「悔い改める」とは、「回心すること」なのです。180度方向転換をし、向き直って新しく歩み始めること、それが「悔い改め」た人間の生き方です。180度方向転換をする、つまり、自分に向かっていた矢印を、神に向けて行く動きなのです。悔い改めて、新しい出発をする、ということは、洗礼により、私たちのからだに現実のこととなります。洗礼によって私たちは、決定的な新しさに生きることになるのです。180度の方向転換をするとき、私たちは、罪を嘆くことを超え、神を愛する生き方へと導かれていくのです。「クリスチャンの全生涯が悔い改めであるべきである」と言ったルターの言葉の通り、私たちは絶えず、悔い改めの祈りを神に向かって献げるべきでしょう。しかし、神は「悔い改めなさい」という戒めによって、いつも私たちを裁き、要求し続ける方であるでしょうか。神の戒めは、私たちに謝罪を要求するものではなく、むしろ、神に立ち帰ること、私たちに向けられる神の眼差しに、私たちが目を開かれていくことなのです。

 今日からちょうど一月後、2月25日には、教会の暦で「灰の水曜日」を迎えます。その日から教会は、レントの期節を迎えます。クリスマスを過ごし、新しい主の年を迎えたこの1月、主イエスの公生涯の初めを共に聞きました。主イエスはそのとき、30歳であったと伝えられています。そして3年余りの公生涯の後、十字架の刑死を迎えるのです。

 十字架に向かう歩みの中で主イエスは、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」(マタイ26:32)と言われました。これは、主の最後の晩餐の後、弟子たちの離反を予告する場面で、主イエスが語られた言葉です。「今夜あなたがたは皆わたしにつまずく」(マタイ26:31)。その主イエスの言葉に対して、主の一番弟子を自負していたペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と言います。けれども、そのペトロも結局は、主イエスが捕らえられた後、裁判を覗き見ながら、自分も捕らえられてしまうのではないかと恐くなって逃げ出します。三度も主を知らないと言い捨て、その場所から逃げ去ってしまうのです。

 主イエスはそのような人間の裏切りの中で、十字架の死を迎えました。ところが、十字架の死を遂げられ、復活された主イエスは、最初に出会った婦人たちにまた、このように言うのです。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタイ28:10)。「ガリラヤに行くように」と言います。ガリラヤは、主イエスが、その公生涯の初めに、福音を告げられた地です。「悔い改めよ、天の国は近づいた」。そこで主イエスは、弟子たちに出会い、弟子たちを召されました。そして復活の主イエスは、そのガリラヤで新しく、弟子たちと出会い、弟子たちを召し出されたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさい(マタイ28:19)。ガリラヤは、弟子たちの始まりの地であり、再出発の地でありました。悔い改めの地、回心の場所であったのです。

 また、あのシモン・ペトロに再び言及すれば、ペトロの回心の場面に、復活の主がこう尋ねます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネ21:16)ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」。主はペトロに、「わたしを愛するか?」と三度も問われました。繰り返し「わたしを愛するか?」と問われる主イエスの言葉に、ペトロは、繰り返し主を「知らない」と言った自分を思い出さずにはいられませんでした。「主よ、あなたはなにもかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(ヨハネ21:17)。ペトロの口から出たこの「主を愛する」という言葉は、甘美な愛の言葉ではありません。おなかの底から深く悔いる呻きをもって、やっとの思いで出てきた「愛する」なのです。自らの罪以上に深い、主の罪の赦しの愛に気づいたからです。私たちは胸を打ちつつ嘆く敬虔な信仰によって、罪の赦しが得られるというのではないのです。自分の信仰によって、悔い改めの道を歩いて行くことはできません。主イエスにつながること、キリストのからだに連なることによって、ペトロのように、主を愛する悔い改めの道を歩んでいくことができるのです。

 「悔い改め」の恵みは、主イエスに出会うところからやってきます。本当の「悔い改め」は、主イエスに出会うことなしには起こらないと言ってもよいでしょう。私たちもまた、主イエスに出会わされた者として、この弟子たちが歩んだ道の列に加えられています。主イエスは、私たちが絶えず、あの場所に向き直ることを求めておられます。私たちの悔い改め、主イエスと出会った場所に立ち帰るよう、求めておられるのです。それは、一人一人に備えられている場所、始まりの場所、私たちのガリラヤです。私たちが主に出会うこの交わりです。ここに立ち帰り、神に心を向ける時、神の国は私たちの間に広がっていくのです。主イエスは言われます。「ガリラヤで会おう」。主イエスの呼ぶ声を聞きつつ、私たちが神に向かう真実な歩みをなしていくことができるよう、祈り願いましょう。