印刷用PDFA4版2頁 |
---|
主日礼拝説教「ここは祈りの家です」 日本基督教団藤沢教会 2009年2月1日 10ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。11とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。12すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。13見よ、主が傍らに立って言われた。 「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。15見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 16ヤコブは眠りから覚めて言った。 「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 17そして、恐れおののいて言った。 「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」 18ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、19その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。 20ヤコブはまた、誓願を立てて言った。 「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、21無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、22わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」 12それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。13そして言われた。「こう書いてある。 『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」 14境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。15他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、16イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」 「主よ、わたしたちは祈ります」 501番「主よ、わたしたちは祈ります」。わたしたちの用いている讃美歌集『讃美歌21』の編纂に際して公募採用された、新しい讃美歌のひとつです。皆さんが歌い慣れなくて戸惑われるのではないかと思いながらも、今日はぜひ、これをご一緒に歌いたいと願い、説教前の讃美歌として選ばせていただきました。 「主よ、わたしたちは祈ります、新しい時が来るように」と繰り返します。歌った後、わたしの頭の中では、この部分だけが繰り返し鳴り響いているような感覚が残りました。わたしたちの祈りを導いてくれているようです。祈りについて歌う讃美歌は、わたしたちの従来の讃美歌の中にもたくさんあります。そのいくつかは、多くの方に共通の愛唱讃美歌であろうと思います。わたしたちを祈りへと誘ってくれる讃美歌、と言ってもよい讃美歌です。そのような讃美歌のひとつに、ぜひ、この讃美歌を加えていただきたい。今まで歌ってきたものとはまた違う、新しい祈りの境地へと誘ってくれる讃美歌だと思うからです。 「主よ、わたしたちは祈ります、新しい時が来るように」。 《主の祈り》の「み国を来たらせたまえ」の祈りに通じる歌詞です。この歌詞を繰り返しながら、わたしは、ふと立ち止まらせられるような感覚に陥ります。どうして「わたしたちは祈ります」とはっきり言えるのだろうか、と。 わたしたちは、日々祈りの言葉を口にいたします。多くの方が、朝夕ごとに、食事ごとに、祈ることを習慣になさっている。日常生活の中だけでなく、集会や礼拝に際して、何度も祈ってきました。これからも、幾度となく、祈りの機会を与えられるに違いありません。わたしたちは、今までそうであったように、これからも、祈ります。祈り続けます。主イエスが弟子たちに教えてくださり、先達を通して受け継いできた祈りの言葉を手本にして、わたしたちは、祈り続ける。それが、わたしたちキリスト者の、そして教会の営みだからです。 けれども、わたしは、この讃美歌の歌詞を繰り返し口ずさんでいるとき、ひとつの思いにとらわれ、立ち止まらないではいられなくなるのです。「どうして、わたしたちは祈ることができるのだろう」と。 この讃美歌は、三節まで歌った後、終わりに、結びの詞を加えて終わっています。「ただ主に望みがあるゆえに」。これが、わたしの立ち止まって自問した問いへの答えなのでありましょう。「ただ主に望みがあるゆえに、わたしたちは祈ります。祈ることができます」。しかし、それは、どういう意味でしょうか。 《強盗の巣》にしていないか? 洗礼を受けることを願われる方と、受洗準備会を重ねていく中で、私どもは、共に祈ることを大切にしています。ただ、牧師や伝道師が祈るのではなく、準備会を重ねてくださっている方にも、自分の口で祈っていただくのです。すでに祈りの習慣を身に着けていらして、準備会の初めから、すんなり祈りの言葉が出てくる方もあります。一方で、初めはなかなか祈りの言葉が出てこない方もあります。中には、準備会で祈るために、祈りの言葉をノートに書いてこられる方もある。確かに、祈りの言葉というものは、幼いときから祈りの言葉を聴いてきたのでなければ、初めからすんなりと出てくるものではありません。わたし自身、キリスト者の両親の元で育ちましたが、家庭で一緒に祈る習慣は希薄でしたので、中学生、高校生の頃、教会の祈祷会に誘われて仲間と一緒に出るようになった頃は、毎回、牧師や信者の方の祈る言葉を覚え、真似て祈ることに一所懸命でした。祈りの言葉は、黙っていても自然に心の中から湧いてくる、というわけではないようです。恐らく、わたしたちは皆、先輩の信仰者の祈りの言葉を聴き覚えて、それを自分の祈りの言葉として身に着けてきたのです。 けれども、そのようにして祈りの言葉を身に着けてしまうと、わたしたちは、いつの間にか、たくさんの祈りの言葉の中から時と場合に応じて自動的に選んで祈りの言葉を整えて口にする術をも身に着けてしまうようです。わたしは、そういうことを否定的に考えているわけではありません。受け継いできた祈りの言葉が自然に口を衝いて出てくるようになる。それは、確かに恵みとして与えられることであり、わたしたちが望むべきことです。そうであっても、なお、そのような状態にある自分の祈りの生活を振り返ってみたとき、わたしたちは、どこかで、「これでいいのだろうか」と立ち止まることがあるのだろうと思うのです。口を衝いて出てくる言葉が、いわば上滑りを始める。立派かどうかはともかく、祈りらしい言葉は並べられるのです。ところが、祈っているのに、本当には祈っていない。祈りの言葉を並べながら、神と向き合うのではなく、むしろ自分ばかりを見ている。周りの他人ばかりを見ている。そして、祈りの言葉が、自分や他人の前で、信仰者としての自分を言い表すための言葉になってしまっている。そういう自分の姿に気がつかされて愕然とすることが、あるのではないでしょうか。 主イエスが、弟子たちや多くの群衆を従わせてエルサレムの町に入られたとき、すぐに神殿に赴かれて、そこに詣でてきていた多くのユダヤ人巡礼者に向かって、こう告げられたと、福音書の御言葉が伝えていました。 「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。」(13節) 神殿の境内で売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された(12節)ときに告げられた言葉です。主イエスは、このとき、年に一度の巡礼や、神殿への献金や献げものなどを、きちんと無難にこなしていく多くのユダヤ人巡礼者をご覧になられて、しかも、その巡礼者たちが、神殿礼拝を通して神と向き合うことをすっかり忘れて、自分が間違いなく献金や献げものをすることができているかどうか、というようなことばかりに関心を向けてしまっていることに気づかれたのではないでしょうか。 「あなたたちは、ここで何をしているのか。何のために宗教的な営みを熱心にしているのか。あなたたちの信仰は、本当に、それでよいのか」。 主イエスは、そのように問いかけられたのです。そして、そのように、わたしたちに対しても、今も問いかけておいでのように思うのです。 目の見えない人や足の不自由な人たち、そして子供たち 主イエスは、信仰者らしく、礼拝者らしく振る舞うことのできた多くの巡礼者たちを境内から追い出されました。今、この場所に主イエスがおいでになられたら、自分は真っ先にここから追い出されるのではないかと、心配になることがあります。皆さんは、そういうことはないでしょうか。牧師として聖壇に立つ務めを担わせていただいているわたしのような者は、立派にとはいかなくても、間違いなく、そつなく務めを果たさなくてはいけないという思いにとらわれて、神に向ける思いよりも、自分と会衆の皆さんに向ける思いの方が圧倒的に強くなってしまっているのではないか。そうだとしたら、いったい、どうして、主イエスの前で、なおここに残していただけるというのでしょうか。 それでも、なお、ここに立ち続けることがゆるされている。皆さん一人残らず、ここから追い出されることなく、共に礼拝に留まることがゆるされている。なぜでしょうか。それは、誰あろう主イエスが、わたしたちの眼前に立ち現れてくださるからではないでしょうか。 主イエスは、巡礼者たちを追い出されて、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と告げられました。そして、ご自身の周りに、目の見えない人や足の不自由な人たちを招かれて、いやされました。また、「ダビデの子にホサナ」と歌う子供たちを、その境内のうちに招き入れられました。皆、満足に献げものや献金をすることのできないような者たちです。宗教的な営みを滞りなく行う準備のできていない者たちです。けれども、主イエスは、そのような者たちをこそ、境内の中に残されて、ご自身のもとに招かれた。あるいは、ご自身の周囲で自由に遊ぶことをお許しになられた。「祈りの家」と呼ばれるべき場所を、そのようなところとしてお示しになられたのです。 この人たちのように、わたしたちも、もっと素直に、主イエスの前に進み出させていただけばよいのだと思います。自分自身や周りの人の目を気にしすぎて、神に向けて心を開くことの遅いわたしたちですが、それでも、主イエスは、わたしたちの前においでくださって、向き合ってくださる。わたしたちが心の奥深いところを開かざるを得ないように、手引きをしてくださる。 主の食卓、聖餐にあずかります。わたしたちは、主イエスが、本当に、わたしたちの集うこの群れの中で、わたしたち一人ひとりの前に立ち現れて、向き合ってくださり、心開く手引きをしてくださっていることを、確かめさせていただきます。聖餐にあずかる一人ひとりが、牧師の執り行う礼典の中に、主イエス・キリストその方をこそ見る者とされますように。主と向き合い、主に心開いていただいて、主のおいでくださる真の祈りの家を、一人ひとりの中にお造りいただくことができますように。 祈り 主なる神。わたしどものただ中においでくださることを悟らせてください。一人ひとりを導き、主の家、祈りの家に住まう者とならせてください。アーメン |