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主日礼拝説教「助けて! と言えますか?」
日本基督教団藤沢教会 2009年2月15日
1アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。2アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。3少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」4ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、5アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。6彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」7イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」8神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
9ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。10エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」11ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。12イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。13しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」14ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
(列王記下 5章1~14節)
21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
29イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。30大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。31群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
(マタイによる福音書 15章21~31節)
「お助けください」
教会には、実にさまざまな人が、訪ねてこられます。今、ここにお座りの皆さんと同じように、礼拝を献げるために、祈りを共にするために、訪ねて来られる方があります。キリスト教の教えを学びたいと考えて、訪ねて来られる方もあります。一夜の宿や食事、場合によっては交通費や食事代の名目でお金を求めて、訪ねて来られる方もあります。そして、案外少なくないのが、キリスト者ではいらっしゃらないけれども、ご本人やご家族の病気や死に際して、さまざまな助けを求めて、訪ねて来られる方々です。
「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」(22節)
「主よ、どうかお助けください。」(25節)
今日の福音書の御言葉に物語られているカナンの女のような、必死に助けを求めて訪ねて来られる方があるとき、そのような方に接することになる牧師で、一瞬でも戸惑いを感じない者はいないと思います。それが教会員のどなたかであるのならばともかく、あるいは、すでに存じ上げている方であるならばともかく、見ず知らずの、信者でもないという方が訪ねて来て、何か必死の様子で助けを求めてこられる。それが、何の予定も入っていない日であれば、まだ、動揺を隠して、平静を装いながら、お話しをうかがうこともできるかもしれません。けれども、それが、土曜日のような礼拝に備えているときであったり、集会や面会の約束が立て込んでいるときであったりするならば、私などは、心の中で激しく動揺を覚えるのです。牧師として果たさなければならない教会の務め、教会員の方のための備えを犠牲にしてまで、今、目の前にいる人の話しをゆっくり聴いていてもよいのだろうか。今初めて会ったこの人のために、自分がして差し上げられることは、たかが知れているだろうし、本気で関わろうとしたら、もしかすると厄介なことに巻き込まれたりするのではないだろうか。そのような思いが、一瞬にして心の中を渦巻くのです。
カナンの女が助けを求めて近寄り、叫んだとき、それを聴いた主イエスの心のうちにどのような思いがおありだったのか分かりません。けれども、主イエスに従っていた弟子たちの中には、もしかすると、厄介なことには巻き込まれたくない、面倒なことにならないうちに、早いところ片付けてしまいたい、そういう思いが生じていたかも知れません。彼ら弟子たちは、主イエスにこう言ったのです。
「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」(23節)
「追い払ってください」とは、ずいぶん失礼な物言いですが、原語の意味からするならば、「去らせてやってください」というぐらいの意味のことを弟子たちは言っているのです。「早いところ、この女の娘の病気をいやすと言ってやってください。そうすれば、この女はすぐに帰るでしょうから。」恐らく、弟子たちは、そのようなつもりで言い、主イエスの行動を促そうとしたのです。
わたしたちは皆、洗礼を受けたキリスト者として歩んでいる者であれ、まだ洗礼を受けていない方であれ、主イエスに何かを期待して、ここに集っています。キリストが教会の働きの中で為してくださる何かを期待して、教会に来るのです。たとえば、病気のいやしや、苦しみからの解放、必要なパンの提供、といったことを、わたしたちは期待している。
「いや、自分は、そんな御利益を期待していないよ」とおっしゃられる方があるかも知れません。それは、そうかもしれません。そういう方は、自分が利益を得ることは期待していないかも知れません。けれども、そのように言われる方でも、他の人が利益を得ることは期待しているのではないでしょうか。自分はともかく、周囲の人が、家族が、隣人が、心の平安を得ること、病の苦しみをいやされること、必要なパンを得られること、そういったことを期待して祈ることは、わたしたち誰でも、当たり前にするのではないでしょうか。そういうことを、わたしたちは、主イエスに期待している。弟子たちが、カナンの女の娘の病気がいやされること、この女の心に平安が与えられることを期待したように、わたしたちも、主イエスに期待するのです
子供たちのパン、食卓から落ちるパン屑
わたしたちが主イエスに期待することがあるのは、間違っているのでしょうか。わたしは、決してそんなことはないと思います。なぜならば、福音書が伝えるところによれば、主イエスは、確かに、人々の期待に応えて、そのお働きを為してくださった方であったからです。このカナンの女の物語でも、もちろん、最後にその娘の病気はいやされたと語られています。続く箇所には、主イエスが、大勢の群衆に連れてこられた足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、その他多くの病人をいやされた、とありますし、何千人もの人々にパンと魚を提供したという物語も忘れることができません。わたしたちは、誰かに期待しなければならないとすれば、真っ先に主イエスに期待したらよいのです。誰か他人に期待して、裏切られて腹を立てるよりも、主イエスに期待したらよい。自分に期待して、自分の無力さに気づかされて落胆するよりも、主イエスに期待したらよい。福音書の主イエスの物語に触れると、わたしは、はっきりとそう思わされます。
さらに、わたしはもっと大胆に告げたいと思うのです。そのような主イエスに対する期待は、何も、洗礼を受けたキリスト者だけにゆるされているものではありません。だれでもが、主イエスに期待してよい。まだキリスト者とされていらっしゃらなくても、主イエスのお与えくださる恵みに期待してくださってよいのです。しかも、それをどのように期待していただくことができるかと言えば、これは、わたしどもにしてみれば一つの覚悟がいることですが、すべての人は、キリストの教会を通してこそ、主イエスに期待していただくことができるのです。
主イエスは、カナンの女との対話で、実に意味深な言葉を交わされました。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)。
「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(28節)。
教会という団体は、ときにどこか排他的な集まりに見られます。何よりも、洗礼を受けているかどうかで区別する。礼拝で聖餐を執り行うときにも、洗礼を受けている者はパンと杯にあずかることができるが、洗礼を受けていない方はご遠慮いただく。そういう一線を、洗礼というしるしによって敷いているのが教会です。それは、何よりも主イエスその方が、洗礼を受けた者が聖餐卓つまり主の食卓に着いて主の体を意味するパンにあずかる者の群れを形づくることを、ご指示くださったから、そうするのです。
しかしながら、今日の物語の対話を聞くならば、ことはそう単純ではない。そのキリスト者かどうかを区別する聖餐、主の食卓の交わりが保たれている、まさにその場所で、主は、その食卓からパン屑を、恵みを、あふれさせてくださっている。いまだ主の食卓に着くことができないでいる人にさえも、その恵みを注いでくださっている。主の食卓、聖餐に直接あずかることができなくても、その下で、その周囲で、主イエスの恵みに期待することがゆるされている。だから、ここでこそ、主の食卓の交わりが持たれているここでこそ、だれもが、主イエスに期待してよいのです。ここでこそ、主イエスへの期待を、打ち明けてよいのです。
《小犬》の大きな信仰
洗礼によってキリストと結ばれ、神の子と呼んでいただくことになったわたしたちは皆、主の食卓から離れることなく、ここで主の体なるパンにあずかる交わりを保たせていただきたいと思います。そしてまた同時に、わたしたちは、主がこの交わりのもとでこそ、すべての人に恵みを味わわせてくださることに、思いを向けたいと思います。いや、わたしたち洗礼を受けた者もまた、食卓から落ちるパン屑を食べさせていただく小犬のような者として、主の恵みに大いに期待する祈りに生きたいと思います。主イエスは、そのような者に、「あなたの信仰は立派だ」と告げてくださいます。主イエス・キリストにこそ期待し、恵みのときを待つ。わたしたちの大きな期待に、主は必ず恵みをもって応えてくださいます。
祈り
主よ。あなたへ期待することが小さかったのです。あなたにこそ期待し、助けを求めます。この交わりのもとであなたの恵みにあずからせてください。アーメン
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