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受難節第1主日礼拝説教「四十日間の祈り」 日本基督教団藤沢教会 2009年3月1日 15見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。16わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。17もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、18わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。19わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、20あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。 1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。 「神の子なら、飛び降りたらどうだ。 『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。 『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』 と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。 洗礼志願者の四十日 今日から、聖壇上の典礼布が紫色に換えられました。教会が、先週の水曜日から受難節=レントの期節に入ったことを示しています。古代教会以来の古くからの習慣にならって、わたしたちの教会もまた、主イエスの十字架への道行きを辿りつつ過ごす期節を歩み始めました。この期節に、わたしたちは、四十日の祈りの日々と、六回の日曜日の礼拝の日々を重ねます。その歩みの先には、主の復活を記念するイースターの祝いの日が備えられている。そのことを期待のうちにおぼえながらも、なお、その前に過ぎ越していかなければいけない主の十字架の出来事に向けて、わたしたちは、少しずつ祈りを深め、悔い改めを深め、心の奥深いところで神の御声を聴き取る備えをしてまいりたいのです。 イースターの祝いの中で洗礼式を執り行うことを大切にしている教会の中には、受難節=レントの初めに、「洗礼志願式」という儀式を執り行うところがあります。イースターに洗礼を受けようとする洗礼志願者が、教会の中で公に紹介されて、洗礼の備えを始めるのです。その洗礼志願式から始まる洗礼への備えの歩みの中で、一つ大切にされてきたことがあるそうです。それは、「悪魔祓い」です。といっても、オカルト映画に出てくるような悪魔祓いではありません。たとえばローマ・カトリック教会では「解放を求める祈り」の儀式と呼ばれるそうですが、教会が、洗礼志願者のために罪と罪に誘う悪魔からの解放を祈り、それに対して洗礼志願者は、悪魔から離れることを宣言するのです。 罪から解放され、悪魔から解き放たれた者として、主の十字架と復活に結ばれる洗礼にあずかる。そのことを、洗礼志願者一人のこととしてではなく、教会の営みとして大切にしている。そのことを教えられて、深く考えさせられました。教会が一人の人に洗礼を授けて、新しいキリスト者として誕生させるために、わたしたちの教会は、どれだけの祈りと備えとをもって過ごしているだろうか、と思わないではいられないからです。 受難節の最初の主日、わたしたちは、教会の伝統にならった聖書日課に従って、主イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた出来事を伝える御言葉を聴きました。主イエスが、まず、ご自身、その公生涯の歩みを始められたとき、ただちに、荒れ野で悪魔と向き合われて、悪魔から解放される道筋を拓いてくださった。この御言葉の物語を聴くことから歩み始める受難節の歩みの中で、皆さんにお覚えいただきたいのです。わたしたちの教会にも、今、洗礼を志願してイースターに向けて備えのときを歩んでくださっている方があります。また、イースターには準備が整わないけれども、ペンテコステに向けて、またその先のクリスマスに向けて、すでに洗礼を志して備えの歩みを始めてくださっている方があります。その一人ひとりの方が、特に今、受難節の歩みの中で、罪からの解放、悪魔からの解放ということを、主イエスによって導いていただけるように、皆さんにおぼえて祈っていただきたいのです。その方たちが、悪魔から離れて、ただ主イエスの後に従う歩みを確かなものとして知ることができますように。 キリスト者の四十日 ところで、罪からの解放、悪魔からの解放ということは、何も、洗礼を受ける前の志願者だけに関わることではありません。すでに、洗礼を受けてキリスト者として歩んできたわたしたちにも大いに関係がある、と言わなければなりません。 福音書の御言葉の物語は、主イエスが荒れ野で悪魔からの誘惑を受けられたのは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた直後だったと伝えています。わたしたちが朗読を聴いたマタイ福音書だけではありません。他の福音書でも同様に伝えられている。しかも、主イエスは、洗礼を受けられたときに天から降ってきた聖霊を受けていらっしゃいますが、あろうことか、その聖霊に導かれて、悪魔から誘惑を受けるために…荒れ野に行かれた(1節)というのです。つまり、こう言ってもよいかもしれません。主イエスが悪魔から誘惑を受けられたのは、洗礼を受けた者として必然的に通らなければならないことだったからだ、と。 わたしたち、すでに洗礼を受けた者も、振り返ってみれば、そのとおりなのだと思います。もちろん、洗礼を受ける前にも、自分の罪に悩み、悪魔の試みに躓き、動揺することがありました。しかし、それ以上に、洗礼を受けてからの歩みの中で、わたしたちは皆、より深い意味で自分の罪に悩まされるようになったのではないでしょうか。より狡猾な悪魔の試みに、足をすくわれ、大きな過ちを犯してきたのではないでしょうか。 それは、一つには、わたしたちが皆、洗礼を受けたからといって、その日から清く正しく美しい品行方正なキリスト者らしいキリスト者になれるわけではないからでありましょう。わたしたちは、洗礼を受けた途端、罪を犯さなくなるとか、悪魔の誘惑に負けることがなくなる、というのではない。むしろ、洗礼を受けたときから、今まで以上に、罪を厳しく問われるようになり、悪魔の誘惑を深刻なものとして受けとめなければならなくなる。洗礼を受けると、そのような歩みを始めざるをえなくなるのです。 そして、それはまた、わたしたちは皆、洗礼を受けた日からは、主イエスがそうしてくださったように、この世にある罪の現実のただ中で、悪魔の試みから離れていくための道筋を、ただ自分が歩んでいくだけでなく、後から来る人々にも示し続ける歩みを歩むように導かれている、ということでもあるのだと思います。 福音書の御言葉には、主イエスが向き合われ、そしてそこから離れていく道筋を示された、三つの悪魔からの誘惑が物語られています。 悪魔は、こう言って、主イエスを試みます。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(3節)。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(6節)。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(9節)。 主イエスは、それに対して、こう答えられました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(7節)。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(10節)。いずれも、旧約聖書・申命記(8:3、6:16、6:13)の御言葉を引いて、主イエスは、悪魔の誘惑から離れる道筋をお示しくださったのです。 ここに、わたしたちがこの受難節の祈りのときに、どのような歩み方をすればよいのか、その祈りの道筋が示されていることを、心に留めたいと思います。神の御言葉に聴くのです。その口から親しく語られる御声を聴き取るようにして、その御声の向こう側にある御心を尋ねるようにして、神の御言葉に耳を傾けるのです。神の御声を聴き取れるほどの心の静まりを、深い静まりのうちにある祈りを、この受難節の日々に、毎日少しずつでも確保したいと願わずにいられません。 教会の四十日 受難節に入って、私は、牧師室の机の上に一冊の小さな本を置いています。『イエスの示す道〜受難節の黙想』(ヘンリ・ナウエン著)という書名の小さな本です。受難節に入る水曜日から始まってイースターの日に至るまでの毎日、数ページずつ、御言葉の黙想が記されています。受難節の日々の黙想と祈りを、この書物と共に過ごしてみたいと思い、書棚から取り出して、手元に置いてあるのです。 その本の今日の黙想は、わたしたちが聴いている福音書の同じ箇所から10節の御言葉をもとに記されています。そこに、こういう黙想の言葉があります。 神は、わたしたちの心と精神と思いのすべてを望んでおられます。神に対する無条件ですべてをささげる愛によってこそ、隣人への心遣いが生まれます。それは、神から心をそらしたり、神への思いと競い合う行為ではなく、すべての人々の神として、ご自身を明らかにされたお方への愛を示しているのです。わたしたちが隣人に心をとめ、隣人への責任に気づくのは、神が間におられるからです。こうも言えるかも知れません。神においてのみ、隣人となり、神においてのみ、また神を通してのみ、奉仕が可能となります。(18頁) もう一度最後に、主イエスが荒れ野で受けられた悪魔からの誘惑の言葉を、思い出しておきたいと思います。悪魔は、「あなたが○○ならば」と繰り返し問いました。「あなたが神の子ならば…」「あなたがひれ伏すならば…」と、悪魔は、わたしたちの関心を、わたしたち自身に向けさせようとしています。 その悪魔の問いかけに対して、主イエスが示された道を、心に留めたいと思います。主イエスは、わたしたちの関心を神に向け直すように、繰り返しお示しになられています。「人は…神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」「あなたの神である主を試みてはならない」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。 この主イエスが示された道に思いを向ける祈りのときを、共に過ごしたいと思います。ここに、わたしたちの生きる道がある。教会の生きる道がある。すべての人が、本当の意味で隣人と共に生きるようになる道がある。そのことを、あらためて祈りのうちに、黙想のうちに、確かめてまいりたいと思います。この道の先には、主の十字架があります。わたしたちが自分の十字架を負っていかねばならない道があります。しかし、そこに、主は、命の道を拓いてくださっています。ご自身の御体と御血をもって、命の道を拓いてくださっています。受難節の歩みの初めに備えられた聖餐に、主の導いてくださる祈りをもってあずかりましょう。 祈り 主よ。主の歩まれた祈りの道を歩ませてください。自分の中の悪魔に囚われ、思いを縛られている私どもの祈りを、ただ主にのみ向かわせてください。アーメン |