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受難節第2主日礼拝説教「言い逆らってもよい!?

日本基督教団藤沢教会 200938

1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。

2 花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。

砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。

人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

3 弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。

4 心おののく人々に言え。

「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」

5 そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。

6 そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。

荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。

7 熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。

山犬がうずくまるところは、葦やパピルスの茂るところとなる。

8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。

主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。

9 そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。

解き放たれた人々がそこを進み

10主に贖われた人々は帰って来る。

とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。

喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
               
(イザヤ書 35110節)


22そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。23群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。24しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。25イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。26サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。27わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。28しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。29また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。30わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。31だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、に対する冒涜は赦されない。32人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
                (マタイによる福音書 122232節)

驚いてもよい!?

「受難節」の祈りの期節を歩んでいます。そのような歩みの中にあって、もしかすると、この礼拝で共に歌うように選ばれている讃美歌が、この期節には少しふさわしくないのではないか、ちょっと明るすぎるのではないか、と思われる方がいらっしゃるかもしれません。確かに、今歌った讃美歌290番「おどり出る姿で」は、昨年はイースターの祝いの礼拝で歌った讃美歌です。主イエスのご生涯を歌い、復活の主に従っていく喜びを歌っています。主の復活を歌う最終節は歌わないことにしましたが、この讃美歌をもって、今日与えられている御言葉を味わいたいのです。主のご受難を思って悔い改めと克己の歩みに身を沈めながらも、その中ですでに与えられている救いの約束に目を向け、耳を傾けたいのです。

今日の御言葉は、旧約のイザヤ書も、新約のマタイ福音書も、不思議な明るさを放っています。もちろん、それは真昼のような明るさではありません。夕闇が迫る中で一番星が煌々と輝いているような明るさ、とでも言ったらよいでしょうか。背景には暗闇が広がっているのだけれども、その暗さを忘れさせるような明るい存在が舞台の中央に進み出てきている、と言ってもよいかもしれません。

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。(1)

イザヤ書の御言葉は、そのように始めて、救いの約束を力強く告げていきます。

心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。(4〜6)

このように告げられていく救いの約束、救いの喜びが、まさに、主イエスのおとずれによって、そのご生涯の歩みの中で実現し始めたと語るところから、もう一つの今日の御言葉、マタイ福音書は始まるのです。

そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。(22〜23)

病気の人を主イエスがいやされる。そんな奇跡を目撃すれば、だれでも驚かないではいられないでしょう。群衆は皆驚いたといいます。けれども、それは、ただ病気が奇跡的にいやされたことに対する驚きだけではなかったと思います。それは、イザヤ書が告げているように、神がお出でになられている、神がそこに立って御業をなされている、神が自分たちの前を先立ち歩まれようとしている、そのことに気づかないではいられなくなった驚きであったのではないでしょうか。

わたしたちは、教会という群れに連なって共に歩んでいます。その歩みの中で、主イエスが共に歩んでくださる方であることを、繰り返し確かめる営みを続けています。二千年の時と世界大の空間の隔たりを越えて、キリスト教会という大きな一つの連なりの中で、主イエスを先頭にした一つの集団、群れとして、主イエスに今も導かれている、そのことを確かめる営みが、わたしたち教会の続けていることです。この教会の営みの中で、わたしたちは、神がお出でくださっていることに気づかされます。神がここに立って御業をなさっていてくださることに気づかされます。神が先立ち歩み、道を拓いてくださっていることに気づかされます。それは、どんなときでしょうか。あらゆるとき、と言っても良いでしょう。しかし、何よりもそのことに気づかされるのは、そして驚かされるのは、今まで神の恵みを見ていなかった人の目が開かれて、神の恵みをはっきりと見るようになるときではないでしょうか。今まで神の御声を聞いていいなかった人の耳が開かれて、御声をはっきりと聴き取るようになるときではないでしょうか。人生の歩みが定まらずにいた人が、神の恵みに生かされる人生を躍り上がりながら歩むようになるとき、神の御業を喜ぶことのなかった口が、喜びの賛美を歌うようになるとき、ではないでしょうか。つまり、信仰者が新しく生まれ、歩み始めるとき、また、失われていた人が信仰者へと回復されるとき、わたしたちは、神が、その人のところにおいでくださり、御業をなさってくださり、わたしたちに先立ち歩んでくださっていることに気づかされ、驚かされるのです。

今、わたしたちの教会の群れの中で洗礼を受けることを志願して備えていらっしゃる方が幾人もいらっしゃいます。自然な形で洗礼の志願に至られた方もあります。人生の中でキリストとの接点を幾度か持ちながら、遠回りして、時間をかけて、ようやく洗礼の志願に至られようとしている方もあります。お一人おひとりのその歩みをうかがうとき、わたしは、本当に驚かないではいられないのです。神が、その人の前にお出でくださっている、御業をなしてくださっている、先立ち歩んでくださっている。そのことに気づかされないでは、いられないからです。

 

言い逆らってもよい!?

わたしは、洗礼を志願する人が、今、同じ教会の中にいるのに、そのことを醒めて見ている方があると、本当に残念な気がします。洗礼志願者の試問会を役員会でいたしますが、そのときに、神がなしてくださったことに目を向けず、人の思いばかりを語られる方があると、正直がっかりします。一人の人が、神にお出でいただいていることを信じて告白し、神の御業の中に置かれて歩んでいる事実があるのです。どうして、そのことを目撃し、立会い、共に歩むことが許されている者が、驚きをもって受けとめないでいて良いでしょうか。

マタイ福音書の伝える物語。そこで、目が見えず口の利けなかった人が、主イエスの前で、ものが言えるようになり、目が見えるようになったとき、大勢の群衆は、驚きをもって神の御業を受けとめ始めました。しかし、その事実を醒めた目で見ている人たちもいた、といいます。ファリサイ派の人々、と紹介されています。主イエスのお出でになられたことで起こっていること、神の御業に驚くのではなく、むしろ、そこで起こっている事実に難癖を付け始めたのです。いわく、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24)。言葉をもって、主イエスの御業の事実に反対意見を表明したのです。

このとき、主イエスが彼らファリサイ派の人々に告げた言葉を、今、丁寧に聴き直すことはできません。けれども、ここに伝えられている主イエスの言葉に耳を傾けると、私は、主イエスの、怒りや憤りというよりも、悲しみを感じないではいられません。主イエスは、このファリサイ派の人々の態度に、悲しんでいらっしゃる。心の中で涙を流していらっしゃる。そう思わないではいられないのです。だからこそ、主イエスは、ここで、最後に、こう言われるのです。

だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。(31〜32)

ご自分に対する言いがかり、言い逆らう言葉は、お赦しになるのです。けれども、聖霊を冒涜してはならない、聖霊に言い逆らってはならないと、主イエスは厳しく繰り返して言われるのです。すべてを赦される。ご自分の命を奪うことさえお赦しになられる。その主イエスが、これほどまでに厳しく、はっきりと、それは赦されない、と告げられているのは、どういうわけでしょうか。

それは、聖霊が神の御業そのもののことであるからでありましょう。神の御業の現実、その御業の中に引き込まれた人たち、つまり、見えなかったのに見えるようになった人たち、聞こえなかったのに聞こえるようになった人たち、歩けなかったのに躍り上がるようになった人たち、口が利けなかったのに喜び歌うようになった人たち、その人たちの現実こそが、聖霊の事実であるからでありましょう。神の御業を冒涜し、御業の現実を証しする器とされた人たちに難癖をつける。そのようなことをわたしたちが犯すとすれば、それは、何と悲しむべきことでしょうか。恥ずべきことでしょうか。主を悲しませることでありましょうか。

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28)

聖霊のお働きを認めるところ、神の御業の現実を驚きをもって認めるところに、神の国は到来していると、主イエスはおっしゃられます。ご自分に対するどんな悪意も敵意もお赦しになられるという主イエスが、そうおっしゃられているのです。そうであれば、わたしたちは、もう、聖霊に言い逆らわないだけでなく、主イエスに対しても、言い逆らうのをおしまいにしたいと願います。主イエスが、ご自身の体としてお建てくださっている教会の中で、語り、教え、なしてくださることの、どんな小さな事にも、難癖をつけたり、言い逆らったり、言葉をもって反対することが、まったく止むように願うのです。お赦しくださるからといって、主を悲しませる言葉を、これ以上、口にすることがないように、わたしたちの唇を、舌を、心の中に貯め込まれた言葉を、聖霊によって清めていただく。主がそれを望んでくださるのですから、わたしたちは、へりくだって、心も体も虚しくして、そのようにしていただくことを、祈り願いたいと思うのです。

 

祈り  

主よ。あなたはわたしどもの間で驚くべき御業をなしてくださいます。主に逆らわず聖霊に言い逆らわず、御業を喜び賛美する者とならせてください。アーメン