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受難節第3主日礼拝説教「捨てて得るもの」
日本基督教団藤沢教会 2009年3月15日
1ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。2七人の息子と三人の娘を持ち、3羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。
4息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。5この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。
6ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。7主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。8主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」9サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。10あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。11ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」12主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。
13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
「サタン、引き下がれ」
今日与えられた福音書の御言葉には、受難節第1主日の御言葉の響きが大きくこだましています。
「サタン、引き下がれ」(23節)。荒れ野で誘惑を受けられた主イエスが、最後に悪魔に向かって「退け、サタン」(マタ4:10)と告げられた言葉が、ここで再び告げられたのです。そして、あの荒れ野の出来事の中で悪魔が世界のすべての国々の繁栄ぶりを見せて「これをみんな与えよう」(同4:9)と誘惑したことを思い出させるように、主イエスはここで、弟子たちにこうお語りになられたのです。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(24〜26節)
主イエスがわたしたちに向けて告げられた招きの御言葉です。キリスト者がいつも心に覚えないではいられない御言葉の一つです。自分を捨て、自分の十字架を背負って、主イエスに従う。そうするとき、得るものがある。自分を捨てて初めて得るものがある。命を得る。全世界を手に入れるよりも貴い本当の命を得る。サタンを退けて、この道に従ってきなさいと、主は、お招きになられたのです。
「主よ、とんでもないことです」
「サタン、引き下がれ」。主イエスは、このとき、この言葉を、見るからに悪魔面をしたサタンに向かって言われたのではありません。ペトロに向かって言われました。弟子のペトロ、いや一番弟子と言ってよいペトロに向かって、主イエスは、あろうことか、「サタン、引き下がれ」と告げられたのです。
「サタン、引き下がれ」。これは、きつい言葉です。わたしたちの間でこういう言葉をお互いに面と向かって口にしたら、大抵は関係が壊れてしまうか、頭がおかしいと思われてしまうか、いずれにしてもお互いの間に溝を作る結果に終わるだけでしょう。しかも、わたしたちがそういう言葉を口にしてしまうときというのは、大抵、何かを言い争ったりしていて、冷静さを失い、興奮して、腹立ち紛れに、口を滑らせて、そうしてしまうのではないでしょうか。
そういうきつい言葉を、どうして主イエスはペトロに向かって発しなければならなかったのか。主イエスも、ペトロの態度に苛立ちを覚えて、思わず冷静さを失い、腹立ち紛れに口を滑らせられたのでしょうか。そうではないでしょう。主イエスは、ご自分が荒れ野に出て体験された悪魔の誘惑の問題をペトロや弟子たちの中に見出されて、その誘惑からペトロや弟子たちが解き放たれることを願ってこそ、「サタン、引き下がれ」というきつい、厳しい言葉を発せられたのです。
主イエスはこのとき、弟子たちに向かって、ご自分の受難と死への道行き、そして復活について予告して語っていらっしゃいました。主ご自身が、自分を捨て、自分の十字架を背負って進み行かれ、命を得る道、復活の道を切り拓かれることを、弟子たちに教えておられたのです。それに対して、ペトロは、黙っていられず、主イエスに密かに告げたのです。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)
ペトロは、主イエスに対して、親心からの忠告や苦言を呈したつもりだったのかも知れません。実際、ペトロは、主イエスよりも少し年長であったと考えられます。主イエスのことを、先生として、主として、尊敬していたとしても、ときに、自分の経験から言っておいたほうがよいと思うことがあっても不思議ではありません。主イエスも、自分より年長の弟子たちに対して、いつも支配的な態度であったということではないでしょう。むしろ、年長の弟子たちを立てるようなところもあったのではないかとさえ思います。ところが、このときばかりは、主イエスは、ペトロの態度を、そのままに放置なさらなかった。自分を捨て、自分の十字架を背負って、自分の命を差し出していく受難の道行きを、そして、その先にこそある、本当の命に至る道行きを、少しでも否定すること、それを妨げること、それは、サタンの誘惑だと、弟子たちの前ではっきりと告げられたのです。
「あなたはペトロ。この岩の上にわたしの教会を建てる」
わたしたちは、この出来事の物語を簡単に素通りできません。このとき、「サタン、引き下がれ」と告げられたペトロという人物が、すぐ直前に、その「ペトロ」という名を与えられたばかりの弟子であるからです。
本名をシモンといったこの弟子が、主イエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)と信仰を告白しました。それに対して、主は、「あなたは幸いだ」(17節)とお告げくださり、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(18節)と宣言してくださった。それは、つまり、一人の人がキリスト者としての名を与えられて新たに誕生し、キリストの教会に加えられるという、わたしたちキリストに従うすべての者の、その最初の一人として、ペトロは、ここに主の御言葉の宣言をいただいたのです。
そうだとすれば、ここで、主の十字架への道行きと、その結果としての死と復活を、「とんでもない」と言って取り消させようとしたペトロとは、わたしたち自身のことなのではないでしょうか。もちろん、わたしたちは、主の十字架の死と復活を、あからさまに「とんでもない」と否定していないかも知れません。けれども、主が、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、自分の命を差し出して、従ってきなさい」と告げられることに対しては、いつも、どこかで抵抗しているのではないでしょうか。「それを理想として願っているけれども、とても自分には無理です」とか、「それは、頭の中で観念的に考えることで、実際の行動では、もっと現実的な方法を取らないと駄目だ」などと考えて、主の招きに、抵抗するのです。主の言葉を真っ直ぐに愚直に受けとめるのは愚かなことだと言わんばかりに、わたしたちは、いつも、主を密かにお呼びして(祈りのうちに!)言い訳をしたり、拒んだりしているのではないでしょうか。
ペトロもわたしたちも、その程度の信仰の者なのです。主イエスだけは、ご自分を捨て、ご自分の十字架を背負って、その道を完遂なさって、とうとうご自分の命を差し出されて、その命を復活の命、永遠の命として確かにお示しくださったけれども、わたしたちは、とてもそのような主の道を貫徹できそうにない。とても、主イエスに従っている者だと、胸を張って言えるような者ではありません。
そういう者であるからこそ、ペトロに対して主イエスが「サタン、引き下がれ」とお告げくださっていることを、わたしたちは、繰り返し聴き直すように導かれているのです。その主の御言葉が、繰り返し告げられる教会の中でこそ、わたしたちは、もう一度、主が、どうして、ペトロに対して、あの「わたしの教会を建てる」という宣言をしてくださったのかを、深く思い巡らしたいのです。
「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(18〜19節)
主イエスは、一体、どんなつもりで、教会を建てるとおっしゃり、その教会に、これほどの権能を与えるとおっしゃられたのでしょうか。教会に、天の国と行き来する道が与えられているというのです。地上の教会で行われることが、天上で神のなさることと、いわばカーボンコピーにされているというのです。
わたしたちが、主イエスの告げられたこの驚くべき宣言を理解しうる筋道は、ただ一つです。主が、ご自分を捨て、ご自分の十字架を背負って、ご自分の命をすべて差し出して、わたしたちにお与えくださった。その命をいただき、その命に結ばれているゆえに、主の命が、わたしたち一人ひとりの中で、すでに生き始めているのです。主イエス・キリストが、わたしたち一人ひとりの中で、生きていてくださるのです。生きて働いていてくださる。それだから、その事実を拒まないで受け入れ、それゆえに洗礼を受けたわたしたちは、教会に加えられたときから、主ご自身がお働きくださる教会の一部として生かされているのです。
わたしたちは、だから、ペトロのような勘違いをしてはいけないのです。キリスト者とされているからといって、わたしたちは、自分の考えや知識や経験に基づいて主イエスを評価したり、判断したり、左右したりしようと思ってはならない。そのようにしたいと思う心は、サタンの誘惑だからです。わたしたちは、ただ、主イエスの示され、拓かれ、与えてくださった命の道、自分を捨て、自分の十字架を背負って、自分の命を差し出して、命差し出した相手と共に生かされる復活の命の語られること、その道が確保されること、そこに主イエスご自身が命をもって臨んでくださり、お働きくださることを、教会で待ち望むのです。
「サタン、引き下がれ」と、主イエスが今も告げてくださっています。それゆえに、わたしたちは、主の道に生きる教会の群れにとどまります。自分ではなく、互いの中に生きて働いてくださっているキリストの命を確かめることができるならば、自分を捨てて命を得る道を歩み始めさせていただいているのです。
祈り
主よ。切り拓いてくださった命を得る道を受け入れる者とならせてください。サタンを退け、わたしどもの中で、ただ主だけが生きてお働きください。アーメン
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