受難節第4主日礼拝説教「光の主に出会う」
日本基督教団藤沢教会 2009年3月22日
3モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。4モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。5彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。6モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、7契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、8モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」9モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。10彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。11神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。
(出エジプト記 24章3〜11節)
1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。11
イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。
(マタイによる福音書 17章1〜13節)
教会は受難節の歩みのうちに、2008年度の締め括りのときを迎えています。3月の歩みも半ばを過ぎ、学校・幼稚園が進級進学の季節を迎えました。先週は、私たちの教会附属のみくに幼稚園でも、卒園式が行われ、21名ものかわいらしい年長児が卒園の日を迎えました。式の中では、子どもたちが一生懸命に歌う姿を見ながら、神様が与えてくださる成長のすばらしさを改めて感じさせられました。あの年齢の子どもたちにとって、卒園は、しっとりしたお別れのときという感じではありません。またひとつお姉さんお兄さんになるんだ!といった誇らしげな顔つきで、小学生になるにあたっての意気込みを、一人一人スタンドマイクの前に出てきて語ってくれました。「みんな遊んでくれてありがとう!」、「かっこいい1年生になります!」、「お勉強がんばります!」といった、たくましい発言が、卒園児一人一人の口から告げられたことです。教会からも幾人もの方々が、この卒園式をご一緒に見守ってくださいました。きっと出席された方々は、あの園児の顔が大好きなのではないかと思います。笑顔が「輝く」とか、「光る」とかと言うのはこのことか、なるほど、と思わされるような笑顔です。私たち大人は、目を細めて園児の顔を見ました。この子どもたちの光というものは、子どもたちがとうとう新しい出発へ旅立つのだという、私たち大人の目を細めるような実感をもって、いよいよ輝きを増します。私たちの教会の礼拝堂に窓が多いから、輝いているように見える、というのではありません。いつもどろんこの子どもたちが、今日は特別オシャレしてキレイだから、ギャップでそう見える、というのでもありません。子どもたちが、新しい時を迎え、今までとは違う時に入って行くのだ、というしるしが、そこに現れ出たのだと思います。大きな飛躍が起こるとき、あるいは変化が現れ出るときのしるし、それが光であると言えるかもしれません。
礼拝で、司式や説教の奉仕をさせていただくと、聖壇から皆さんのお顔がよく見えます。説教の奉仕の時には、特に長い時間、皆さんと向かい合う格好になります。どんな表情で説教を聞いておられるか、最近は、皆さんお一人お一人のお顔がよく見れるようになりました。けれども、このようなことを申し上げるのも変ですが、最後の讃美を歌う時のお顔が、一番すばらしいと思うのです。私は、司式を務める時、礼拝の終わりに、「礼拝を導いてくださった神様をほめたたえましょう」と告げて聖壇を降りて行きますが、その言葉を言っている時は、思わず私も笑顔になってしまうのですが、こちらに向いている皆さんのお顔が、とても、輝いていると感じます。それは、この礼拝において、私たち一人一人が、新しいものとされるからではないでしょうか。一週間の新しい旅路へと出発して行くべく、主の光を帯びた新しい人とされて、この礼拝堂を去って行くのです。私たちが自分の中で、変化が起こったことを感じるときも、感じないときにも、です。
今日の聖書は、主イエスが山に登られ、弟子たちの目の前で姿を変えられ、光の姿となる出来事が語られています。お顔はまるで太陽のようで、その衣服は、光のように白かったと言います。そればかりでない、ここにいるはずのない、モーセやエリヤが現れ、主イエスと語り合っているのです。モーセと言えば律法、エリヤは預言者を意味する、いわば旧約のVIPです。モーセは、シナイ山で神の律法をもたらした人物(出エジプト記19章)であり、エリヤは、ホレブの山で神の声を聞いた預言者(列王記上19章)です。人々は、モーセの律法を崇拝し、エリヤの到来による救いの知らせ(マラキ書4:5)を待望していました。
そして、「高い山」に登った弟子たちは、旧約聖書全体を指し示すような人物に出会ったのです。モーセとエリヤ、そして今までにないような白い光をまとわれた主イエスです。ペトロの仮小屋を建てる提案というのは、モーセとエリヤ、そして主イエス、この錚々たる面々に、いつでもこの山でお会いすることができるようにと願っての提案でした。何としてでもここに留まってほしい、そういう強い思いの表れですが、このペトロのような気持ちを経験したことがおありでしょうか。
私は、小学校に入学する年の1月に、曾祖母を亡くしました。父方の祖父母と一緒に暮らしていた曾祖母でしたから、朝から晩まで祖父母の家で世話されていた私たち兄妹、いとこにとっては、初めて経験する身近な人の死でした。兄は小学2年生でしたが、曾祖母が亡くなって暫くの間、夜中に泣いてしまって母親が起こされ、なかなか眠れないという日が続いたようです。私は、何も気づかずに寝ていた方でしたが、けれども、曾祖母の夢をよく見ました。夢の中で、生きている曾祖母と会って、嬉しくて泣いている夢でした。それを兄に話した時に、なぜ嬉しいのに泣くんだ、それはおかしい、と言われて、それもそうだ、なぜ泣いたのかと不思議に思ったことを思い出します。嬉し泣き、感動の涙というものを、まだ知らなかったのだと思います。自分の想像力を越えた経験を夢の中でしたのだと思います。主イエスの3人の弟子たちもまた、自分たちの想像を超えた夢のような出来事を、しかし夢ではなく、現実のこととして経験しました。夢でも見ているようだ、このままこの時が続いてほしい、感動とともに湧き上がるこういった熱望というものは、私たちの間でも、時々経験されることなのではないでしょうか。まして弟子たちは、目の前にそのことが起こったのですから、仮小屋の三つや四つ、すぐにでも建ててしまいたい思いになったのでしょう。ペトロはこう言って、口を挟みました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(4節)ペトロの弾んだ声が聞こえてくるような言葉です。目の前で起こっていることがあまりにもすばらしいので、グズグズしてはいられない、と仮小屋の建設を提案しました。この光栄を固定したい思いに駆られたのです。
このすぐ前にも、ペトロが、主イエスがご自分の死と復活を予告された後で、わきへお連れしていさめるという場面(16:21〜28)がありましたが、ペトロは、比較的反応が良いと言いますか、すぐに思いついたことを行動に移すようなところがありました。しかし、そのようにしてまた口を挟んでしまったペトロが受けたものは、「サタン、引き下がれ」(16:23)という厳しい声ではありませんでした。突然、光の雲に覆われて、その中から天からの声を耳にします。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声でした。これは、主イエスが、バプテスマのヨハネを通して洗礼を受けられたとき、天から聞こえた声です(3:17)。人間の言葉ではない、確かな方の声が、主イエスを神の子として証しているのです。この天からの声を聞いた弟子たちは、驚き、非常に恐れて、ひれ伏しました。主イエスを、今までとは全く違った方として、礼拝すべき主として、新しく知ったのです。恐れひれ伏している弟子たちに、主イエスは、近寄り、手を触れました。信じがたい光景を目にし、耳にした弟子たちが、極度の恐れにとらわれていたとき、主は、本当に主であることがわかるようにと、弟子たちに近づき、手を触れてくださったのです。まるで主の復活の出来事のようです。
主イエスの復活を信じられないでいたあの弟子のトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました(ヨハネ20:25)。疑うトマスの前に、主イエスは立って「あなたの指をここに当て、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じないものではなく信じるものになりなさい」と、そのように言われました(20:27)。このとき、トマスが本当に指を入れたか、やめたのか、そこまでは書かれていないのですが、主が「触れ」るように、と勧めてくださったのは、トマスが「信じないものではなく、信じるものに」なるためでありました。疑うものでなく、信じるものに。恐れるのではなく、安心して主を信じて行くことができるように。「起きなさい、恐れることはない」そう言って主の方から、その御手を触れてくださったのです。「恐れることはない。」復活の主を前に、ひれ伏した婦人たちに向かって、主はこう言われました(マタイ28:9-10)。主イエスの十字架の死後、復活と昇天の後に書き留められたこの福音書の記者は、復活の主を、その言葉の一つ一つを思いながらこの福音書を記していきました。主の復活の出来事を、心に強く留めながら、主イエスの地上での生涯に思いをめぐらしたのです。今は、目に見える形ではおられない主に、少しでも長く地上で一緒にいてほしかった思いを、ペトロの仮小屋を建てたい気持ちに重ねていたかもしれません。福音書記者のマタイ自身が、ここを記す時に、何よりも「復活の主」をそばに感じていたのでしょう。
「起きなさい。恐れることはない。」その言葉は、様々な場面で、弟子たちに向かって語られた主ご自身の言葉です。その言葉に、弟子たちは顔を上げました。ところが、顔を上げてみると主イエスの他は、もうだれの姿も見えませんでした。夢だったのだろうか、と思うような出来事です。いつもどおりの主が、一人弟子たちの前に立っておられたのでした。
一同は山を下りて行きます。しかし山を下りるとき、主イエスはまた、不可解なことを話されます。「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」(9節)、そのような秘密を、ごく近しい弟子たちの間でお決めになりました。「今見たこと」その出来事は、主イエスの復活の前触れであったからです。真っ白な光に包まれ、死の闇から復活される主キリストは、モーセとエリヤを通して、旧約聖書全体を通して、約束されていた救いの成就であることを示す出来事でした。主キリストの栄光が啓き示された出来事でした。しかし、復活の栄光を一度、静かにしまうようにして、主は、弟子たちと共に山を下りて行かれます。山を下り、地上の罪の現実の只中に下り、最も低い道へ、死の陰の谷へと下って行かれるのです。十字架の道へと下って行かれるのです。弟子たちはまだ、そのような主の十字架の道のりを理解しませんでした。エリヤを目の前にした興奮も醒めずに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだといっているのでしょうか」と聞きます。主イエスは答えます。「エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらった」(12節)。この主の言葉に、弟子たちは、主がおっしゃるのはバプテスマのヨハネのことだと気付きました。
福音書には、主イエスが十字架へと向かわれる道の傍ら、こんなにも劇的に光の主と出会いながら主を理解しない弟子たちの姿が描かれています。主に従い、主の教えを最も身近に見聞きしていながら、その全てを理解することができずに、主の十字架の前に躓く、弱い弟子たちの姿があります。しかし、ここで弟子たちは、「イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(13節)とあるように、完全ではないけれども、少しずつ、主の言葉の意味に気づき始める弟子たちの姿があります。私たちもまた、全くそのような弟子の群れとして、この教会の交わりが与えられています。どうしても不徹底なのです、と御前に告白せざるを得ない、私たちの信仰の歩みです。しかし、自らの信仰の薄さを克服して行くこと、それが主の御前に、悔い改めつつ歩む私たちの教会の歩みであるのです。主がすでに負ってくださった苦しみのゆえに、すでに成し遂げられた主の十字架の御業のゆえに、少しずつ鈍い目を開かれながら、来るべき日を待ち望むものでありたいと願います。やがて、栄光に輝き、天使たちを従えて来られる光の主を心にいただきながら、私たちもまた、すでに主の光に出会い新しくされたものとして、信仰の背筋を伸ばして、この礼拝堂を去って行きたいと思うのです。
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