印刷用PDFA4版2頁

受難節第5主日礼拝説教「キリストの杯を飲みますか?」

日本基督教団藤沢教会 2009329

27二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。28イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。29ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。30エサウはヤコブに言った。

「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。31ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」

32「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、33ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」

エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。34ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。             (創世記 252734節)


20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
          (マタイによる福音書 
202028節)

 

皆に仕える者になる

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(26〜28節)

皆に仕える者になる。皆の僕になる。

わたしたちキリスト者を名乗る者の生き方を一言で言えば、これに尽きるのではないでしょうか。主イエスご自身が、まずそのお手本をお示しくださって、「あなたがたも同じように」とお命じになられた生き方です。

皆に仕える者になる。皆の僕になる。

教会の交わりの中で過ごしていると、何か、当たり前のことのようにも思えてきます。皆さんが、お互いに仕え合い、お互いの僕として振る舞うことを、本当に、自然に、当たり前のことのように、実践なさっているからです。自戒を込めて言うならば、教会の中で、この「仕える者になる。僕になる」という生き方を忘れてしまう誘惑に陥りやすいのは、だれよりも、わたしども「牧師」でしょう。

そのことで思い出すことがあります。もう数年前になりますが、お付き合いをいただいているカトリックのベテラン司祭の方から、「今のカトリック教会では、司祭が信徒に仕えられるのではなく、司祭が信徒に仕える、ということを徹底して言うようになっています」というお話しをうかがったのです。わたしどもプロテスタントの牧師よりも、よほど真っ直ぐに、主イエスの御教えを受けとめて、実践しようとされているのだと、思わされた話しでした。

教会の中で、だれよりも牧師や伝道師が、真っ先に、皆にお仕えすることができたらと思います。教会につらなるどなたに対しても、僕として接することができたらと願います。すでに、お互いに仕え合い、お互いの僕として歩んでくださっている皆さんと共に、教会全体が、主イエスに倣う者の実践に満たされるよう、祈り求めたいと思うのです。

 

偉くなりたい?

けれども、そうは言いましても、わたしたちが、皆に仕える者になり、皆の僕になるという主イエスのお教えくださった生き方に従っていくのは、教会という閉じられた交わりの中だけで仕え合い、僕として接し合うため、というのではないことも、忘れてはならないでしょう。主イエスが「皆」とおっしゃられるからには、教会員同士、キリスト者同士、という枠の中だけのことではないはずです。教会の外の世の中で、家族の中で、職場で、学校で、わたしたちが出会うありとあらゆる人が、わたしたちの仕えるべき相手として、数え上げられます。

教会の中でお互いに仕え合うのは、ある意味では簡単なのです。相手も、仕える者として振る舞ってくれると、ある程度は期待できるからです。おかしな話しだと思いますが、わたしたちは、教会の中で仕え合うというときにも、どこかで無意識のうちに損得勘定をしているようなところがある。こちらが仕えたことと、相手が仕えてくれたこととのバランスが取れているかどうかを、案外、厳しく計算していたりする。それで、教会の中では、ある程度黙っていても、お互いに仕え合ってくれることを期待するし、実際、期待できるのです。このことは、必ずしも、批判的に言っているのではありません。もちろん、本当は、主イエスがそうでいらしたように、損得勘定抜きで、一方的に仕えるということがお互いの間でできるのが、一番よいに違いない。けれども、たとえ、ある程度の損得勘定が計算された上であっても、わたしたちは、教会の中でならば、他の人も仕える生き方をしてくれると期待できる。そうだとすれば、わたしたちは、教会の中では、教会の外に比べてずっと安心して、仕える者として生きることができるのです。

それに比べたら、教会の外で誰に対しても仕える生き方をするというのは、本当に難しいことです。教会の外では、相手も自分と同じように仕えてくれるというようなことは、ほとんど期待できません。むしろ、こちらが仕えれば仕えるほど、相手は図に乗って、こちらが損するようなことをしてくるかもしれない。たとえ、そういう悪意のある相手でなくても、やはり、教会の外に出たら、わたしたちの仕える生き方は、ほとんど一方的に実践するしかありません。損得で一時的に仕えてくれる人はあるかも知れません。けれども、そういう人に対してだけ仕えるというのでは、「皆に仕える者になる」という主の教えからは外れているのです。ですから、「皆に仕える者になる」ということが徹底して実践できるとしたら、それは、本当にすごいこと、偉大なことなのだと思います。そういうことを本当に実践した人、たとえば、マザー・テレサというような人のことを知ると、素直に、すごい人だ、偉いと、思うのではないでしょうか。

誤解を恐れずに言えば、わたしは、自分も含めて皆さんが、この世で生きていく上で、誰に対しても仕えるという点で、「すごい」キリスト者、「偉大な」キリスト者になれたらと、心から願っています。他の人と競争するわけではありませんが、人生の終わりを迎えたときに、キリストから「誰に対しても仕えるキリスト者として、あなたはよくやった、偉かった」との言葉をいただけるような生き方を生き抜いていくことを願っても、許されるのではないかと思うのです。

今日の福音書の物語。二人の弟子、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちのために何かを願おうとして、なかなかうまく言えず、口ごもっていました。「何が望みか」(21)=「どうなりたいのか」と主イエスがおっしゃられて、思い切って口を開いて言ったことには、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21)というのです。何か、息子たちに良い地位を得させたいためにしゃしゃり出てきた親バカな母親のように見えますが、必ずしもそうではないと思います。この母は、二人の息子たちが、だれよりも主イエスにお褒めいただける、「よくやった。偉かった」と言っていただけるような信仰者としての生涯を生き抜けるようにしてやって欲しいと、そういう願いを訴えているのだと思うのです。「誰にも褒められることがなくても、生涯を終えて天に迎えていただくときには、ただイエスさま、あなただけにはお褒めいただけるような、そういう信仰者の生涯を生き抜けると、おっしゃってください」。それが、この母の願いであったと思うのです。

 

キリストの杯を飲むことを願おう

主イエスは、そのとき、二人の息子たちに対して、こう答えられました。

「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(22)

確かに、二人の弟子たちも、その母も、自分たちが願っていることの本当の困難を、よく分かっていなかったのでしょう。自分の命さえ差し出して、誰に対しても仕える、僕となる。それが、信仰者として偉くなること、いちばん上になることなのだと、知っていたら、そうなるようにと願うことはなかったかもしれません。それでも、信仰者として偉大になりたい、ただ主イエスにお褒めいただける者になりたい、という二人に対して、主イエスは、おっしゃられました。

「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22)

主イエス・キリストが飲もうとしている杯。それは、多くの人の身代金として自分の命を献げるとおっしゃられた、その命の杯です。決して甘いばかりではない、むしろ苦い、取り除けてもらいたくなるような杯です。それは、主イエスがなさったようにただ一人で飲むには、あまりに苦い杯です。

けれども、その杯は、主イエスがまずご自身で飲んでくださる杯であり、弟子たちに、わたしたちに、共に飲むようにと用意してくださる杯です。

だからこそ、二人の弟子たちが、「飲むことができます」と答えると、主イエスは、その答えをお認めくださるように、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」(23)と、おっしゃられたのです。ひとつの杯にあずかる食卓の交わり、主イエス・キリストとの親しい交わりに、あなたがたも共にあずかることになると、お約束くださったのです。

聖餐卓に用意される杯を、わたしたちは、キリストがその卓の向こう側から回してくださる杯として受け取り、あずかります。聖餐卓の向こう側に、主イエス・キリストが杯を持って立っていてくださり、わたしたちを迎えてくださる。そして、親しい関わりを持ってくださる。そうすることによって、どこまでも共に歩んでいくという約束をお示しくださっている。そのことを信じて、わたしたちは、今日も、聖餐卓の周りに集ってきました。主は、わたしたちに先立って行かれます。受難の道を、十字架への道を、そして、自分の命を献げ、すべての人に仕え尽くす僕として生きる道を、すでに切り拓かれているのです。その道を、わたしたちが後から行くことができる。杯を共にしてくださる方、主イエスの導きのもと、主イエスと共に、わたしたちは、主の道を、歩んでいくことができる。

その道を、わたしたちは、ただひとつの条件、主イエスが共にいてくださるという条件で、歩んでいくことができます。だから、わたしたちは、何よりも、まず、主の杯にあずからせていただく、その食卓につかせていただく、主と杯を分かち合わせていただく、そのことを願いたいのです。

「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」

その杯の意味が十分に分からないとしても、主ご自身が、ご自分の杯を差し出して、共に分かち合おうと、お誘いくださっているのです。主と共にいることを、お許しくださっているのです。そうであれば、わたしたちは、「できます」と一言答えて、主の食卓に着かせていただいたらよいのです。

 

祈り  

主よ。受難節の歩みの先に、主がお招きくださっている食卓がますます大きく備えられ、あなたの杯にあずかる幸いを確かめることができますように。アーメン