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棕櫚の主日礼拝説教「神の子なのだから」

日本基督教団藤沢教会 200945

1 主よ、わたしたちにふりかかったことに心を留め、わたしたちの受けた嘲りに目を留めてください。

2 わたしたちの嗣業は他国の民のものとなり、家は異邦の民のものとなった。

3 父はなく、わたしたちは孤児となり、母はやもめとなった。

4 自分の水をすら、金を払って飲み、自分の木からすら、価を払って取り入れる。

5 首には軛を負わされて追い立てられ、疲れても、憩いはない。

6 わたしたちはエジプトに手を出し、パンに飽こうとアッシリアに向かった。

7 父祖は罪を犯したが、今は亡く、その咎をわたしたちが負わされている。

8 奴隷であった者らがわたしたちを支配し、その手からわたしたちを奪い返す者はない。

9 パンを取って来るには命をかけねばならない。荒れ野には剣が待っている。

10 飢えは熱病をもたらし、皮膚は炉のように焼けただれている。

11 人妻はシオンで犯され、おとめはユダの町々で犯されている。

12 君侯は敵の手で吊り刑にされ、長老も敬われない。

13 若者は挽き臼を負わされ、子供は薪を負わされてよろめく。

14 長老は町の門の集いから姿を消し、若者の音楽は絶えた。

15 わたしたちの心は楽しむことを忘れ 踊りは喪の嘆きに変わった。

16 冠は頭から落ちた。いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ。

17 それゆえ、心は病み この有様に目はかすんでゆく。

18 シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。

19 主よ、あなたはとこしえにいまし 代々に続く御座にいます方。

20 なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ 果てしなく見捨てておかれるのですか。

21 主よ、御もとに立ち帰らせてください わたしたちは立ち帰ります。

わたしたちの日々を新しくして 昔のようにしてください。

22 あなたは激しく憤り わたしたちをまったく見捨てられました。                (哀歌 5122節)

32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36そこに座って見張りをしていた。37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
          (マタイによる福音書 
273244節)

《受難週》の歩みへ

今年も、《受難節》の期節を歩んでまいりましたわたしたちは、受難節最後の週、《受難週》を迎えました。主イエスの十字架への道行き、ご受難の行き着くところを、今週、わたしたちは、深い祈りのうちに覚えようといたしております。

受難週というときを、皆さんは、どのような時としてイメージしていらっしゃるでしょうか。五年ほど前に、「パッション」という題名の映画が日本でも公開されましたが、その映画には、主イエスの十字架につけられていくお姿のむごたらしさが、嫌と言うほど描かれていたことを、ご記憶の方もいらっしゃると思います。受難週は、そのようなむごたらしい十字架の出来事を覚えるときです。決して、明るいイメージの一週間ではないでしょう。むしろ暗いイメージ、真っ暗闇のイメージかも知れません。実際、今週の金曜日にわたしたちの教会で行う「受難日礼拝」は、夕べのときに、わざわざ礼拝堂の照明を落として、暗い中で礼拝を守ったりいたします。受難週こそ受難節の中の受難節。心の暗闇の中に静まって向かい、悔い改めと克己の祈りを深めるには、もっともよい機会なのでしょう。

けれども、わたしは、最近、受難週というのは、ただ、主イエスの十字架のむごたらしさを思い描いて、暗く静まるばかりのときではないのだという思いが、年ごとに強まっています。

まず何よりも、この受難週の最初の日曜日は、《棕櫚の主日》と呼ばれる日なのです。主イエスが、ナツメヤシの木の枝を振って歓迎する群衆に迎えられてエルサレムの町に入られた出来事を記念する日です。今日の礼拝では、最初の讃美歌「聖なるかな」を2節まで歌いました。主イエスをエルサレムに迎えた人々があげた歓迎の叫び、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マタ21:9)という歓呼の歌声を、わたしたちも、共に歌ったのです。主イエスを、わたしたちの内にお迎えする。主をほめたたえる讃美をもって、お迎えする。まるで、クリスマスに御子をお迎えするように。そのことを、わたしたち皆で共に、一つの賛美を歌いながら、確かめることができるとき。それが、受難週最初の日曜日、棕櫚の主日の今日なのです。

もちろん、そのように賛美をもって主イエスを歓迎するわたしたちが、本当の意味で、いつも主イエスを歓迎する者として歩めているかと言えば、決してそうではないかも知れません。二千年前の最初の受難週に主イエスを歓迎した群衆が、その同じ週の半ばには、こぞって「十字架につけろ」と訴えたり、十字架の上の主イエスを侮辱して罵ったりしたように、わたしたちも、主イエスを歓迎していると思ったら、次の瞬間には拒んでいる、ということが、現実にはしばしばあるでしょう。そういう意味では、主イエスを歓迎することの中には、どこかにわたしたち自身の暗さが常につきまといます。その暗さが、棕櫚の主日の歓迎の出来事の向こう側にあるということを、無視できないと思うのです。

けれども、そうであっても、そういう暗さが背後に迫っているとしても、それでもなお、この《受難週》には、本当の意味での明るさというものが、すでに約束されているのではないでしょうか。

数年前になりますが、最近良く知られるようになったある日本のカトリック司祭の説教集を読んでいて、とても驚かされました。この《受難週》、カトリック教会の呼び名では《聖週間》を、まったく陰鬱になることなく、希望に満ちた言葉で告げているのです。その冒頭は、このように始められています。

尊い、尊い、聖週間を迎えました。この聖週間が私たちを救います。…神さまが特別に私たちを愛してくださる尊い聖週間を迎えました。キリストの教会は、二千年来、この聖週間を大切に過ごしてまいりました。ただの恒例の季節行事などではありません。皆さんが今まで抱えてきた、すべての闇、汚れ、痛み、それをこの一週間が吹き払うという、驚くべき救いの体験をいたします。(晴佐久昌英『あなたに話したい』317頁より)

この受難週を、ただ受難週として過ごすのではありません。主イエスの復活の出来事を祝い、わたしたち自身の命の復活を喜ぶ、イースターに至る通り道として、わたしたちは受難週を過ごすのです。復活の希望、命の回復の希望、まことに神のお与えくださる命のうちに置かれる希望を、わたしたちは、この受難週を通ればこそ、確かなものにすることができる。だから、わたしたちは、もちろん、受難週の暗さを深く知らなければならないのだけれども、その暗さの先には、とてつもない明るさ、人間の造り出すことのできるものではない、神の明るさが約束されているのだということを、もうすでに、心に留めてよいのでありましょう。受難週に、いやというほど人間の現実の暗さを覚えたら、わたしたちは、その先で、本当の明るさをお与えくださる神と出会わせていただく。主イエス・キリストに導かれて、その道を行かせていただく。そのように歩んでまいりたいのです。

 

「神の子なら…」

棕櫚の主日にエルサレムに入られた主イエスを歓迎した人間の姿の中には、その人間の持つ暗さ、罪深さが隠れています。そのことをちょうど逆転させることが、受難週の出来事の中で起こりました。主イエスが十字架につけられて、人々に罵られ、侮辱され、命を奪われていくお姿の中に、その暗闇の中に、すでに、主イエスの持たれている真の明るさ、神の光が隠れているのです。

主イエスは、十字架につけられたとき、棕櫚の主日にご自分を歓迎して迎えたはずの人々に、こう罵られました。

「神殿を打ち倒して、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして、十字架から降りて来い」(40節)

祭司長たち、律法学者たちなど、当時の指導者たちも、侮辱して言いました。

「他人は救ったのに、自分は救えない。…神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(4243)

並んで十字架につけられていた強盗たちも、主イエスのことをののしったと、福音書は伝えています。そして、その後に、主イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(46)という言葉を残して、十字架の上で息を引き取られたのです。

この主イエスのご様子の中には、少しも明るさなどあるようには思えません。神の光など、失われてしまっているように思えます。確かに、そうです。受難週の十字架の上には、少しの明るさもないし、光も射していないのです。むしろ、暗闇が覆ってきている。どん底に置かれた主イエスのお姿しかないようです。

けれども、このどん底としか思えないところに、実は、イースターに向かう光が隠されていることを、わたしたちは、もう、知らされているのです。

「神の子なら、自分を救ってみろ」と、主イエスは問われました。けれども、主イエスは、ご自分を救われませんでした。「他人は救ったのに、自分は救えない」と、主イエスは侮辱を受けました。けれども、主イエスは、自分を救うことを選ばれるのではなく、他人を救うことを選ばれたのです。主イエスは、何よりも「他人を救う神の子」として、そこにいらっしゃる。ご自分を高見に置くことによってではなくて、ご自分をどん底に置くことによって、主イエスは、「他人を救う神の子」となっていらっしゃる。主イエスが徹底的に他人を救うためにご自分の命を差し出されたとき、主イエスの命は、神の賜る命として人々の中に生き始めることになったのです。神の子の命です。復活の命です。

 

十字架の神の子と出会って…

イースターに洗礼を受ける方がいらっしゃいます。自分の十字架を背負って主に従うことを教えられつつ、最後の備えの週を過ごします。わたしたちも皆、自分の洗礼を受けたときのことを想い起こしながら、新しいキリスト者の誕生に立ち会う者としての備えを、この週に導かれたいと思います。そして、共に、何よりも、十字架につけられた主イエスに、もう一度、しっかりと目を向け直して、そこにある、本当の意味での神の子のお姿を、心に刻み直したいと思います。

主イエスがご自分の十字架を背負っていくとき、途中で、兵士たちに命じられて、通りがかりのキレネ人シモンが、主の十字架を肩代わりして行くことになりました。わたしたちも、主イエスの十字架の出来事へと目を向けさせられる機会を、思いがけず与えられた者かも知れません。それでもよいのです。シモンの名がここに記されているのは、恐らく、この人が初代教会の信者の一人になったからでしょう。主の弟子たちが皆、雲散霧消してしまったとき、このシモンが、主イエスの十字架の出来事を間近に目撃することになったのです。そして、十字架の上に主イエスに目を向け、そこに「自分を救わない」神の子の姿を見たのです。そこに、「他人を救う」ために命を差し出される神の子のお姿を見たのです。

シモンのように、思いがけず強いられてでも、主イエスの十字架の出来事へと共に導かれたいと思います。そこにある暗闇に心打ちのめされても、その先に約束されている復活の光のもとへと、なお歩みを共に進めてまいりたいと思います。

 

祈り  

主よ。御子の十字架のうちに、わたしどもの暗さ、罪深さを思います。同じところに、主の明るさ、神の光が隠されていることを悟らせてください。アーメン