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イースター礼拝説教「キリストにお目にかかろう」 日本基督教団藤沢教会 2009年4月12日 22それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。23わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。24わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。 25わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。26わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。27また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。28お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。29わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。30わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。31そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。32わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。 (エゼキエル書 36章22〜32節) 1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 イースターの朝を迎えて… イースターの朝を迎えました。主イエス・キリストのご復活を記念して喜び祝うときを迎えました。ここに集われた皆さんのもとに、今、復活の命が確かに与えられているのです。賛美と祈りと聖餐の祝いをもって、イースターの祝福を、互いに分かち合い、またわたしたちの周囲にまで溢れ出させたいと思います。 わたしたち皆、今日のイースターを迎えるために、祈りに身を沈めながら、レントの四十日間、受難節の六週間を、歩んできました。皆さんは、このレントの期節に、じっくりと祈りに集中することができたでしょうか。それどころではなかった、という方もあるかもしれません。受難節なんて、まったく気持ちの中になかった、という方もあるかも知れません。皆さんそれぞれの歩みというものが、おありだったでしょう。それぞれに、いろいろな事情を抱えながら、今日の日を迎えられたと思います。そうであっても、ここにいらっしゃる皆さんは、例外なく、今日、ここに辿り着いて、このように共にイースターの祝いの礼拝にあずかることになられたのです。一人ひとり皆、違う人生の道筋を歩んできたのに、皆さんは、このように、世界中で一つのイースターの祝いへと導かれていらっしゃいました。わたしたちは皆、ここに導かれるべくして、導かれてきたのです。ここに辿り着くべくして、辿り着いたのです。 この日のイースターの祝いのために、わたしたち、教会では、いろいろな準備を重ねてきました。準備をしたのは、牧師や伝道師たちだけではありません。皆さんが、この礼拝のために、また、午後に行う祝会のために、たくさんの時間と力をさいて、準備をしてくださいました。また、一人の兄弟が洗礼の恵みにあずかるために、ご本人も、役員方も、祈りをもって備えのときを刻んでくださいました。レントの歩みは、そのような備えの歩みでもありました。けれども、わたしたちは、今、備えの歩みが導かれたことを感謝しながらも、一つの大切なことを、確かめたいのです。 イースターの朝を、わたしたちは、自分たちで準備して造り出したのではありません。イースターの朝が、わたしたちのために備えられていたのです。イースターの朝が、わたしたちすべての者のために備えられていて、わたしたちを迎えてくれたのです。 レントの間、わたしたちは、何をしてきたのでしょうか。慌ただしい毎日の生活の中から抜け出してきて、日曜日ごとにここに集まりました。主イエスの十字架への道行きを確かめながら、わたしたち自身の歩みを止めてきました。思いを鎮めて、繰り返し、祈りのうちに主の御声を聴き取ろうとしてきました。主の後ろ姿を、見つめました。主の眼差しに、心を刺し貫かれました。そして、わたしたちの抱える、数え切れないほどの罪や汚れや破れや痛みが、すべて主の御心のうちにはお見通しなのだと、何度も思わされました。それは、教会での祈りの中だけのことではありません。日々の生活でも同じです。家庭で、仕事場で、隣人と出会うところではどこでも、汚れや破れや痛みをおぼえないことはなかったと思います。わたしたちの生活は、イースターの喜びの朝を迎えるのに、ふさわしくないことばかりでした。 けれども、そんなわたしたちのために、イースターの朝を備えてくださった方がいてくださったのです。イースターの喜びのときをお造りくださった方が、今年も、いてくださったのです。その方に招かれて、わたしたちは、ふさわしいことなど何もないのに、何の備えもできていなくても、イースターの朝を迎えさせていただいて、ここにいるのです。イースターの祝いの礼拝にあずかっています。この祝いの喜びを、共に味わわせていただいています。 キリストにお目にかかれる! イースターの朝の礼拝。特別な礼拝にあずかっています。特別な賛美。一人の兄弟の洗礼式。新しく加えられた信仰の家族と共に、新しい思いであずかる聖餐。一つひとつが、特別なものとして整えられた礼拝です。 けれども、この礼拝を特別なものにしているのは、わたしたち自身ではありません。天におられる父なる神です。父の右にお座りの御子イエス・キリストです。 最初のイースターの朝。その朝を、誰よりも早く迎えたのは、熱心に主イエスに仕えていた十二弟子たちではありませんでした。女の弟子たち、マグダラのマリアともう一人のマリアが、誰よりも早く、イースターの朝を迎えました。 と言っても、この人たちは、そのとき、イースターの朝を迎えるとは、思ってもいなかったのです。イースターの喜びどころか、この人たちは、墓に埋葬されている死んだ人の世話をしようと思って、朝を迎えたのです。喜ぶためではなく、悲しみを確かめるために、朝を迎え、墓に行きました。ところが、いざ目的の墓に行ってみたところで、驚くべきことが起こったのです。主の天使が天から降って近寄(2節)ってきたのです。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった(3節)というのです。天使たちが天上から降ってきて、天上の輝きを地上に輝かせたのです。神のみもとで天使たちと聖なる人々が絶え間なく繰り広げている天上の礼拝を、天使たちが、地上に届けたのです。二人のマリアがおとずれた墓の前で、死人の葬られているはずの所で、いや、その墓の中に向かって、死が充満しているはずのところに向かって、天使たちは、天上の輝かしい礼拝を繰り広げて、この女の人たちにあずからせたのです。 この女の人たちは、驚きました。いや、恐れました。天上の礼拝を繰り広げる天使たちが自分たちの前に立っていることを、恐れました。天上の礼拝に自分たちが触れていることを、恐れました。神の光に触れさせられていることを、恐れました。けれども、同時に、喜びました。神の光に触れる幸いを喜びました。地上にいながら、死の現実の中にいながら、天上の礼拝に触れさせていただけることを、喜びました。天上の礼拝にあずからせようと訪れてきた天使たちの存在を、喜びました。そして、その天使たちの告げた言葉を、喜びました。 「…急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(7節) イースターの朝の特別な礼拝。いつの日曜日にも増して、光り輝く特別な礼拝。天上で大きく鳴り渡っている賛美の響きがこだまする、特別な礼拝。神がこの礼拝を、特別なものとしてくださっているのです。神が、この礼拝にあずかるわたしたちを、特別な天上の光の中に、特別な天上の賛美の響きの中に、招き入れてくださっているのです。 その光が、神の光が、わたしたちの現実の暗闇を、照らし出します。墓穴の暗闇に目を向けようとするわたしたちの先に、天上の光を射し込ませてくださって、もはや、わたしたちが暗い墓穴に目を奪われなくても良いようにしてくださるのです。わたしたちが、汚れや破れや痛みのある現実は変わらないとしても、その目を、死んだ世界ではなく、生きた世界に、命の溢れるキリストの世界に、向かわせることのできるようにしてくださるのです。 今、ここでも! 一人の方が、死者の中から復活させられて命ある者とされました。神の御業が、行われました。主イエス・キリストのご復活を祝うイースターに、今年もまた、新たな神の御業が行われることを、わたしたちは目にいたします。キリストと共に死に、キリストと共に復活させられる、一人の新しいキリスト者が、今日、この礼拝堂でも、生まれるのです。すでに、世界中の教会で、昨晩から行われているイースターの祝いの礼拝の中で、数え切れないほど多くの人が、キリストの死と復活にあずかる洗礼を授けられて、新しくキリスト者として歩み始めています。 今、わたしたちも、新しいキリスト者の誕生に立ち会いながら、共に、自分自身の洗礼の事実を想い起こしたいと思います。死んだ世界に目を向けることから、キリストに目を向けることへと、わたしたちは皆、変えられて、今まで歩んできました。死に向かう生き方から、命に向かう生き方へと、生きる姿勢を変えられて、今日まで歩んできました。命は、キリストの内にあります。キリストは、天上の神の右にあって、また、地上の教会の礼拝の内へとおいでくださり、キリスト者の一人ひとりの内で生きていてくださいます。 「キリストにお目にかかれる」 わたしたちは、ここで、地上の教会で、洗礼を通して新たに誕生するキリスト者の中に生きていられるキリストに、お目にかかります。十字架につけるしかなかった、汚れと破れと痛みに満ちた「古い自分」という、からっぽの穴には、もう、戻る必要はありません。そこには、何もないのです。ただ、命ある方のいらっしゃるところに、わたしたちは向かいます。キリストのいらっしゃるところ、キリストの命の宿る者の群れに、向かいます。今、「ハレルヤ」と神を賛美する群れの内に、復活の命・キリストは、お出でくださっているのです。 祈り 主よ。イースターの朝へとお招きいただきました。天上の光をいただきました。主の復活に目を向けさせてください。真の命にあずからせてください。アーメン |