印刷用PDFA4版2頁 |
---|
復活節第2主日礼拝説教「疑う者がいてもよいのです」 日本基督教団藤沢教会 2009年4月19日 17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。 初めからのことを思い起こす者はない。 それはだれの心にも上ることはない。 18 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。 見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。 19 わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。 20 そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。 百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる。 21 彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。 22 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、 彼らが植えたものを、他国人が食べることもない。 わたしの民の一生は木の一生のようになり、 わたしに選ばれた者らは、彼らの手の業にまさって長らえる。 23 彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。 彼らは、その子孫も共に、主に祝福された者の一族となる。 24 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、 まだ語りかけている間に、聞き届ける。 25 狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、 わたしの聖なる山のどこにおいても、害することも滅ぼすこともない、 と主は言われる。 (イザヤ書 65章17〜25節) 11婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。 16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 (マタイによる福音書 28章11〜20節) 新しい歩みの始まるとき イースターの祝いの主日から一週間が過ぎました。この日、イースターの次の日曜日を、古い教会の伝統では「白衣の主日」と呼ぶそうです。イースターの祝いの中で真っ白な洗礼着を着せられて洗礼を受けた、新しいキリスト者が、その真っ白の洗礼着を着て、この日までを過ごすという習慣があったからだと言われます。そのような古い習慣の名残でもありましょうが、この日には、また、古くからの伝統で、礼拝の初めにペトロの手紙一の御言葉が告げられてきました。 「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(Tペト2:2) 母親の胎の中で、胎児は、口からではなくへその緒を通して栄養を与えられています。その母親の胎から生まれ出てきた赤ん坊が、産湯に浸かり、産着を着せられて、はじめに経験しなければならないことは、母親の腕に抱かれて、自分の口で乳を飲むことです。それは、生まれたばかりの赤ん坊にとっても、その赤ん坊を迎えた家族にとっても、大切なときです。 キリスト者として生まれたばかりの人も、また、洗礼の水に浸かり、キリストという新しい着物を上から着せられて、母なる教会の懐で、御言葉という霊の乳を飲むことを覚え始めます。キリスト者として生まれたばかりの一人の人にとっても、その人を迎えた教会=神の家族にとっても、それは、大切なときに違いありません。そのようなときとして、イースターからの一週間が、古い時代の教会で大切に守られてきたことを、あらためて心に刻み直したいと思うのです。 先主日、イースターに洗礼の恵みにあずかられた兄弟が、午後の祝会の席で、「今日、新しい誕生日を与えられました」と語られました。牧師として、ことあるごとに繰り返し、「洗礼はキリスト者として新しく生まれることです」ということをお話ししてきましたが、洗礼を受けられたばかりの方の口から、「今日、新しい誕生日を与えられた」という言葉をうかがって、本当にうれしく思いました。そうです。洗礼は、キリスト者としての誕生なのです。 皆さんは、ご自分の洗礼を受けた日を覚えていらっしゃいますか。仮に洗礼を受けた日付は忘れても、どうぞ、皆さん、ご自分が洗礼を受けた日のことは、忘れないでいただきたい。キリスト者として誕生した日のことは、しっかりと覚え続けていただきたい。その日、神の家族の教会が、どれほどの喜びに満たされたことか。その日、教会に舞い降りてくる天の御使いたちが、どれほど大きな喜びの賛美を響かせてくれたことか。その日から、天上の天使たちの間でも、地上の教会の神の家族の間でも、新しくキリスト者として誕生した「あなた」のことが忘れられたことはありません。そのことを、わたしたち皆、覚え続けたい。そして、そのことを覚え続ける者であるからこそ、また、後に続く新しいキリスト者の誕生を心から共に喜び、新しい家族として受け入れ、迎え入れることを、大切にしたいと思うのです。それは、誕生したその日だけのことではありません。誕生した日から始まって、その人の生涯が終えられる日まで続くのです。 イースターに続く主日に、わたしたちは、そのことを心に刻み直します。 否定する言葉、否定できない経験 イースター。わたしたちは、主イエス・キリストの復活を祝いました。復活の命にあずかる洗礼の恵みを授けられて、一人のキリスト者が新しく誕生したことを祝いました。わたしたち、すでに洗礼を受けて歩んできた者もまた、キリストの命に結ばれて、今日まで導かれてきたことを、喜び祝いました。本当に、主キリストは復活されて、その命のうちに、真の命の光のうちに、わたしたちを一つに結び合わせてくださっているのです。 もしかすると、皆さんの中には、牧師が、このように復活の命について語れば語るほど、どこかで興ざめしてしまうという方がいらっしゃるかも知れません。特に、まだ洗礼を受けていらっしゃらない方の中には、復活ということを聴かされるたびに、つまずきを感じてしまうという方があるかもしれません。そういう方に安心してもらおうと思って言うのではありませんが、長年、キリスト者として歩んでこられた方でも、牧師のところにそっと来られて、「わたしは、復活を信じられない」などとおっしゃっていかれることがあります。 キリストの教えはよく分かる。キリストの生き方もよく分かる。キリストが自ら十字架に向かって命を差し出されたことも、考えてみれば、分からないことではない。ところが、復活のことになると、途端に分からなくなる。そのように感じていらっしゃる方は、少なくないのかも知れません。 わたしも、元来、疑り深い人間です。だから、「復活のことは分からない」、「復活は信じられない」とおっしゃられる方の気持ちが分からなくはないと思っています。今日の福音書の御言葉に伝えられているような、「イエスの復活は弟子たちのでっち上げだ」というような説明のほうが、多くの人に対しては説得力を持つのかも知れないと、正直に思います。 『弟子たちが夜中にやってきて、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』…この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。(13節、15節) けれども、それにもかかわらず、どうして、「復活」を信じる教会が誕生したのでしょうか。どういうわけで、今日まで、「復活」を語り続ける教会が、世界中に展開し続けたのでしょうか。 それは、「復活」に触れた人たちがいたからでしょう。今に至るまで、「復活の命」に触れる者が絶えないからでありましょう。 最初のイースター。弟子たちは、キリストの復活に触れたのです。復活されたキリストの命に、弟子たちは触れたのです。確かに触れる経験をした弟子たちがいたのです。そして、「復活」を信じる弟子たちの歩みが始まりました。 それは、今日の教会に生きるわたしたちにまで、引き継がれています。わたしたちも、復活されたキリストの命に触れる経験をするのです。教会の群れの中で、何よりも、新しいキリスト者の誕生する洗礼の出来事の中で、キリストの復活に触れる。復活の命に触れる。洗礼を受けようとする人が、自分の中に受け入れようとしているキリストの復活の命の事実に、わたしたちは皆、かたわらで触れている。そういう経験をしていることを、否定できないのではないでしょうか。 復活の命に触れるところで 最初のイースター。復活の事実に触れる経験をしたのは、弟子たちだけではありません。主イエスの遺体が葬られた墓の入口を見張っていた番兵たちも、キリストの復活に触れたのです。彼らは、キリストの復活の事実に触れて恐れおののいたといいます。恐れおののかないではいられないほどの事実に触れたのです。ところが、彼らは、その事実に触れたことを、金を受け取ることによって忘れさせられました。忘れさせられて、経験した事実とは違う話を語るようにさせられました。欲に目が眩んだのでしょうか。そうかもしれません。目先の利欲を得るために自分を押し殺すということは、人間だれにでもあることかもしれません。 そうだとしても、わたしは、ここに伝えられている番兵たちに、ただ欲に目が眩んだ愚かな罪人たち、というレッテルを貼るのは、間違っているように思うのです。この番兵たちも、確かに、キリストの復活に触れる経験をしたのです。そのことの意味を、彼らは、理解できませんでした。天使が女の弟子たちに語った言葉は、彼らには、自分たちの経験を理解する言葉となりませんでした。だから、彼らは、祭司長たちのところに行って、自分たちの経験したことを説明する言葉を、聞こうとしたのです。けれども、そうであるとしても、ここに伝えられている番兵たちの中の何人かは、もしかすると、後になって、弟子たちの群れに加わり、キリスト者として教会の一員になったものがあったのではないかと、わたしは想像するのです。そういうことがあったからこそ、番兵たちのことが、このように丁寧に福音書に伝えられているのではないかと、想像するのです。 キリストの復活を信じる。復活の命を信じる。それは、ただ、言葉で説明された事柄として信じるべきこととは違います。復活の事実に触れ、復活の命に触れ、その経験ゆえに、それを無視しては生きていけなくなる。そういうことです。 わたしたちは、何よりも、一人の人が新しくキリスト者として生まれる洗礼の出来事の中で、復活の事実に触れています。復活の命に触れさせていただいています。ただ、その同じ出来事に立ち会っていても、その経験が、どのようなものとして経験させられるかは、人それぞれかも知れません。すぐに信じる人もいるでしょう。すぐには信じられない人もいるでしょう。信じられず、疑ってかかる人もいるでしょう。むしろ否定する言葉を求める人もいるかもしれません。 それでも、洗礼の出来事の中に共に立たされるという経験は、必ず、その人を信じる者に変えるでしょう。疑う者を信じる者に変え、否定する言葉を語る者を、信じる言葉を語る者に変えるでしょう。だから、今は疑う人であっても、今は否定する者であっても、洗礼の出来事を共に託されている教会の群れの中に、留まっていただきたいのです。キリストを復活させられた神が、必ず、洗礼の出来事を通して、復活の命をもって、人を変え、新しく造りかえてくださるからです。 祈り 主よ。洗礼の恵みのうちに、主の復活の出来事に触れさせていただいております。疑う者も否定する者もこの出来事に触れる教会に留まらせてください。アーメン |