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主日礼拝説教「キリストのしるし」

日本基督教団 藤沢教会 2009年4月26日

8 また主の言葉がエリヤに臨んだ。9 「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」10 彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」13 エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。14 なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで 壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない。」15 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。16 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。17 その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」19 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。20 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。23 エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。24 女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」             (列王記上178〜24節)

38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。42 また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
            (マタイによる福音書12章38〜42節)



 教会の暦は、復活節第三主日を迎えました。教会の伝統で、「主のいつくしみの日曜日」と呼ばれる日です。私たちは、この礼拝の初めに特別な御言葉によって招かれました。「主は、恵みの業と裁きを愛し 地は主の慈しみに満ちている」(詩編33:5)という詩編の御言葉、「主のいつくしみ」を示す御言葉です。先週の月曜日に、カトリック片瀬教会で市内教役者会が持たれ、牧師と二人で出かけてまいりました。藤沢市にある教会に仕える聖職者、教職者が超教派で集まって互いの教会を学び、懇談する交わりです。先日の会では、カトリック片瀬教会の神父さまが、前日の礼拝の分かち合いを準備してくださいました。カトリック教会では、イースターの翌主日に、「神のいつくしみの主日」を守ります。この「神のいつくしみの主日」は、神の愛による寛容、いつくしみが、特に輝き出る復活節の主日に、隣人に対して特別の信心を行うようにと、2000年に前教皇のヨハネ・パウロ二世が名称を定められたことですが、教会の長い伝統の中で守られてきたことでした。信者たちはそれぞれに、神からの賜物である「いつくしみ」を示す者とされ、どんなことがあっても、「神のいつくしみ」を願い、自らを「神のいつくしみ」に委ねていきます。復活のキリストに「神のいつくしみが」現わされたという信仰を、教会は長い歩みの中で大切にしてきました。「神のいつくしみ」の御言葉を、私たちが今日、少しでも受け取ることができたなら、私たちの一週間は変わるでしょう。否、この7日間の歩みを越えて、一年中、「神のいつくしみ」を求め、「神のいつくしみ」に自らを委ねて歩むことができたなら、私たちは、すばらしい交わりのうちに生かされることになります。


 今日は、聖書朗読の後で讃美歌425番を歌いましたが、その3節には、「七色に輝く、虹と十字架」という詩がありました。この「七色の虹」とは、有名なノアの洪水の物語で、洪水の後に与えられた神との「契約のしるし」です(創9:12〜17)。「十字架」は、主イエスの「死のしるし」、そして「空の墓」さえも「復活のしるし」となり、私たちは神様に感謝をささげる、という讃美です。「虹」や「十字架」、「空の墓」。これらのものが信仰の根幹に関わる、重要な出来事の「しるし」となっていることを、私たちは知っています。その「しるし」の背後にある出来事を思い、神を讃美するのです。逆を言いますと、これらの「しるし」には、信仰がなければ何の価値も見出せません。今日の福音書には、ファリサイ派や律法学者たちが主イエスに、「しるし」を求めた出来事が語られています。「先生、しるしを見せてください」と言う、ユダヤ教の指導者たちを前にして、しかし、主イエスは断言されます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(39節)


 聖書に登場する預言者は、しばしば、神からの預言者であることの「しるし」として奇跡行為を行いました。召命を受けた預言者モーセが、「主がお前などに現れるはずがない」と言われ民に拒まれる不安を打ち明けた時、神は、モーセの杖を蛇に変え、彼の手を重い皮膚病にかかったように真っ白に変えることによって、またそれらをもとに戻す奇跡を預言者の「しるし」としました(出4:1〜9)。あるいは、士師記に登場するギデオンもくり返し神からの「しるし」を求めています。「もし・・・わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば・・・納得できます」(士師6:36〜37)。そのギデオンが「しるし」として求めたユニークなことを、神はその通りに行われたと言います。今日共に聴きました列王記上17章のエリヤもまた、奇跡を行なうことによって神からの預言者であることが認められました。ファリサイ派や律法学者の人々が、主イエスに求めた「しるし」は、必ずしもそういった奇跡行為そのものを指すのではないようですが、より確かな「天からのしるし」が主イエスに認められなければ、主イエスを信じることはできない、といった要求でした。そのようにして「しるし」を求める人々に、語られた言葉は、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」、厳しいお言葉です。「ヨナのしるし」、つまり、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」主の十字架の死を指し示すしるしが、唯一の「しるし」だと言われるのです。


 先週の聖書研究祈祷会では、本日の礼拝に備えて、この箇所の学びをし、出席してくださった方々と共に黙想を深めてまいりました。ユダヤ人の指導者たちが「しるし」を求めたことを聞き、みなさんはどのような黙想をされるでしょうか。自分の聞きたい言葉、自分の聞きたい「よい説教」を求めることは、「しるし」を求めるユダヤ人の姿と同じなのではないか、と祈祷会の中で、そのような黙想をされた方がありました。自分の聞きたい言葉を「これこそ神の御言葉だ」と言って聞く、あるいは自分行きたい道を「これこそ神の召命だ」と行って進んで行く、しばしばそのように傾いてしまう私たちの姿が表されているのではないか、という問いです。御言葉は、そのような自己中心的な価値判断で歩む生き方を退けます。私たちは、ユダヤ人の指導者たちが「しるし」を求めるようにして、自分の欲する「しるし」を求めてはならないということです。「しるしを求めない」信仰に生きること。しかし、一体、それはどのような生き方を指しているでしょうか。聞きたくない言葉を、聞くということ。行きたくない道を、行くということ。私たちの思いとは、まるで逆のものを進んで受け入れることを重んじる信仰が、そのような道です。復活の主イエスが弟子のペトロに言われた言葉を思い出していただきたいのですが、「あなたは、若いときは、自分の行きたくないところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を絞められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ21:18)。ペトロは、このような主イエスのお言葉の通り、殉教の死を遂げました。何よりも主イエスご自身が、御自分の思いでなく、天の父の御心によって進まれた十字架の道に、クリスチャンとして私たちが歩むべき信仰の道が示されています。行きたくない道を進むこと、より険しい道を選んでいくことの中にこそ、神の御旨が示されるという霊性は、教会の歴史の中で、信仰者の血筋として受け継がれてきたことでもあります。しかし、自分の思いを押し殺して、自分の欲するところを一切求めないことが、最善の道であるのだろうか。突き詰めていくと、私たちがその道を歩むことは、不可能であると言わざるをえません。絶えずこみ上げてくる私たちの心の思いというものは、神の御心に従わない、罪深いものばかりであるからです。自分の欲しい「しるし」を求める罪の思いが、知らず知らずのうちに私たちの内に頭をもたげてきます。主イエスさまは、そのような罪深い私たちを咎めるために、「しるしは与えられない」とお叱りになっているのでしょうか。そうではありません。私たちが「しるしを求めない」努力、自分の努力ということに固執してしまうと、本当に大切なことが見えてこないのです。


 大切なことは、「しるし」は、すでに与えられているということです。私たちがその「しるし」に気づかないでいるのだ、そのことを、今日、主イエスはお語りになるのです。マタイは、主イエスが十字架におかかりになった場面をこのように伝えています。「神殿を打ち壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」と言って通りかかった人々が、主イエスをののしりました(マタ27:40)。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」祭司長たちや律法学者、民の長老たち、ユダヤ教の指導者たちが、口々にののしり、主イエスを侮辱しました(マタ27:41)。主イエスの数々の奇跡を目撃しながらも、人々はそれを「天からのしるし」として認めることができませんでした。地上での生涯の終わりに、十字架の激しい痛みの只中にある主イエスに対して、人々は最後まで「しるし」を求め続けたのでした。ここに、人間の底知れぬ罪の深さが見えます。主イエスは、無抵抗に十字架に身を委ねられ、人々の罵りに対して言葉を返すことなく、その死を遂げられました。主イエスは、しかし、人々の要求を拒まれたのではありません。主イエスの沈黙のうちに、そこには、「ヨナのしるしにまさるもの」、が始まっていました。「ヨナのしるしにまさる」しるし、十字架と復活の出来事が、そこに始まっていたのです。


 主イエスの十字架と復活、この出来事こそが、私たちの「しるし」です。私たちは、すでに「ヨナのしるし」が与えられているのです。預言者ヨナが大魚の腹の中に、3日間死人のようになったことによって示された、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。そして「ヨナのしるし」が、私たちのもう一つの「しるし」となっていることを、主イエスは告げてくださっています。それは、「悔い改め」が起こるということです。ニネベの人々は、神の教えを知らない、罪深いものであったにも関わらず、ヨナの説教を聞いて悔い改めました。ヨナが死の陰を通って宣べ伝えたその説教によって、そして自らの罪に嘆き悲しむ悔い改めによって、ニネベの人々は、終わりの日に共に立ち上がる者とされたのです。そして、ニネベの人々だけでない、遠く南の国から、シェバの女王もまた、神に出会う旅へと招かれています。シェバの女王は、ソロモンの知恵の評判を聞いて来訪し、その知恵のあまりのすばらしさに、驚嘆しました。「わたしが国で、あなたの御事績とあなたの知恵について聞いていたことは、本当のことでした。わたしは、ここに来て、自分の目で見るまではそのことを信じていませんでした。しかし、わたしに知らされていたことは半分にも及ばず、お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています」と言ってソロモンの神である主を讃美し、多くの贈り物を捧げたと言います(王上10:1〜13)。しかし今や私たちは、この女王にもまさる、驚き、喜ばしい福音が告げられると、主は言われます。それは、「ソロモンにまさる」神の知恵、神の救いの御計画です。罪ある私たちが受けねばならなかった十字架を背負われ、十字架の死を遂げられた方の復活、その御業によって示された、罪の赦しの福音です。私たちは、この罪の聖めのしるしである洗礼を、与えられた者として、洗礼への招きをいただいた者として、すでに信仰の歩みが導かれています。主イエス・キリストの赦しのしるしが与えられています。神の義しさと深いあわれみのゆえに、唯お一人、十字架にかからねばならなかった方、3日目に復活せられた方の新しい生命に与っています。「神のいつくしみ」のまなざしは、私たちに注がれているのです。「神のいつくしみ」は、神の赦しです。私たちは、神の赦しに生かされ、悔い改めに生きる、信仰の道を歩みましょう。何よりも確かな「神のいつくしみ」に依り頼み、この週を、共に新しく歩み始めたいと思います。