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復活節第4主日礼拝説教「生きるために」

日本基督教団藤沢教会 200953

1アルタクセルクセス王の第二十年、ニサンの月のことであった。王はぶどう酒を前にし、わたしがぶどう酒を取って、王に差し上げていた。わたしは王の前で暗い表情をすることはなかったが、2王はわたしに尋ねた。「暗い表情をしているが、どうかしたのか。病気ではあるまい。何か心に悩みがあるにちがいない。」わたしは非常に恐縮して、3王に答えた。「王がとこしえに生き長らえられますように。わたしがどうして暗い表情をせずにおれましょう。先祖の墓のある町が荒廃し、城門は火で焼かれたままなのです。」4すると王は、「何を望んでいるのか」と言った。わたしは天にいます神に祈って、5王に答えた。「もしも僕がお心に適い、王にお差し支えがなければ、わたしをユダに、先祖の墓のある町にお遣わしください。町を再建したいのでございます。」6王は傍らに座っている王妃と共に、「旅にはどれほどの時を要するのか。いつ帰れるのか」と尋ねた。わたしの派遣について王が好意的であったので、どれほどの期間が必要なのかを説明し、7更に、わたしは王に言った。「もしもお心に適いますなら、わたしがユダに行き着くまで、わたしを通過させるようにと、ユーフラテス西方の長官たちにあてた書状をいただきとうございます。8また、神殿のある都の城門に梁を置くために、町を取り巻く城壁のためとわたしが入る家のために木材をわたしに与えるように、と王の森林管理者アサフにあてた書状もいただきとうございます。」神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた。9こうして、わたしはユーフラテス西方の長官のもとに到着する度に、王の書状を差し出すことができた。王はまた将校と騎兵をわたしと共に派遣してくれた。10ホロニ人サンバラトとアンモン人の僕トビヤは、イスラエルの人々のためになることをしようとする人が遣わされて来たと聞いて、非常に機嫌を損ねた。

11わたしはエルサレムに着き、三日間過ごしてから、12夜、わずか数名の者と共に起きて出かけた。だが、エルサレムで何をすべきかについて、神がわたしの心に示されたことは、だれにも知らせなかった。わたしの乗ったもののほか、一頭の動物も引いて行かなかった。13夜中に谷の門を出て、竜の泉の前から糞の門へと巡って、エルサレムの城壁を調べた。城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた。14更に泉の門から王の池へと行ったが、わたしの乗っている動物が通る所もないほどであった。15夜のうちに谷に沿って上りながら城壁を調べ、再び谷の門を通って帰った。16役人たちは、わたしがどこに行き、何をしたか知らなかった。それまでわたしは、ユダの人々にも、祭司にも、貴族にも、役人にも、工事に携わる他の人々にも、何も知らせてはいなかった。17やがてわたしは彼らに言った。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」18神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立った。
               
(ネヘミヤ記 2118節)

17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
          (ヨハネによる福音書 
111727節)

 
信じる

「復活節」の期節を、今年はことのほか緊張しながら歩んでいます。イースターに続いてペンテコステにも、新しいキリスト者の誕生を祝うことになりそうだからです。今日の午後、わたしたちの教会では、定例の役員会に先立って、一人の方の洗礼試問会を行います。バプテスマを受けることを願われて準備して来られた人が、志願書に自分の名を記し、そして教会を代表する役員方の前で、自分の信仰を口で言い表します。その人が確かに洗礼の恵みへと導かれていることを確かめて、教会として、新しいキリスト者の誕生に備えることを決断いたします。

今日も、この礼拝堂には、まだ洗礼を受けていらっしゃらない方が少なからずおいでくださっていることと思います。世の中の多くの人が、連休中のこのときに、家族で過ごし、レジャーに出かけているのに、この場所に来ることを選んでくださっている皆さんがいる。おいでくださっている方がある。幾分偉そうな言い方かも知れませんが、そういう方には、「よくぞ、ここに来ることを選んでくださった」と申し上げたい。そして、付け加えるならば、「あなたがここに来ることを選ぶことになったということは、もう、あなたは選ばれているのです。神に選ばれて、教会の群れの中につながれているのです」と申し上げたいのです。

まだ洗礼を受けていらっしゃらない方が幾人、今日ここにおいででしょうか。今日はおいででない方も含めて、幾人の洗礼をまだ受けていらっしゃらない方が、普段、この教会の礼拝においでくださっていることでしょうか。そのような方がどれだけいらっしゃるか、ご存じでしょうか。長く洗礼を受けないままで礼拝においでくださっている方の存在を知れば知るほど、洗礼を受けたいと願うことの難しさ、その願いを口にすることの難しさを、思い知らされるようです。

今日、洗礼試問会に臨まれる方が、先週の準備会で、とても不安な思いでいらっしゃることを述べられました。自分は十分な準備ができているように思えない、とおっしゃるのです。不安になるのは当然です。けれども、だからこそ、まだ洗礼を受けていらっしゃらない方全員にも、こう申し上げたいのです。皆さんの準備は、ここに来てわたしたちと礼拝を共にしてくださったところで、もう十分にできています。「主イエスを信じます」「主イエスは神の子、キリストです」と告白できれば、なお確かだけれども、その告白の言葉が、喉の奥に詰まったまま出てこない、どうしても口にできない、そういうことがあったとしても、それでも、ここで共に礼拝にあずかってくださっている。ですから、洗礼を受けようとする人は、ただ一人で洗礼を受けるのではありません。ただ一人で準備をして、キリスト者として誕生するのではありません。わたしたち教会が、一人の人のキリスト者としての誕生を、責任をもって準備して、支え、迎えるのです。主を信じることを、信仰を告白する言葉を、口づてにお教えするのです。いいえ、むしろ、こう言うべきです。根元的には、教会を用いてくださる神が、一人の人のキリスト者として誕生するのに必要なことを、すでに始めてくださっているのです。

バプテスマを受けることを志願なさっている一人の人が、洗礼試問会で、ご自分の口で信仰を言い表します。すでに洗礼を受けた者が語ってお教えしたように、「わたしは、信じます。わたしは、願います」とお語りくださるでしょう。新しくキリスト者として誕生し、生き始めるために、そのように告白してくださるでしょう。そこで、キリストが生きてお働きくださるのです。キリストがおいでくださって、導いてくださって、信仰の言葉を与えてくださる。そのことをこそ、わたしたちは信じて、共に試問会に臨むのです。すべての皆さんに、そのようにして洗礼を志願し、試問会に臨み、洗礼の恵みにあずかっていただきたいのです。

 

「主がここにいてくださったならば…」

「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(27)

今日の福音書の御言葉に伝えられている言葉です。マルタという女性が、この信仰を告白する言葉を口にしました。それが、ここに伝えられている言葉です。

マルタがこの言葉を口にするまでには、いろいろなことがあったのです。すでに、たくさんの主イエスの教えを学んでいました。主イエスの特別な力も、よく知っていました。しかし、このときマルタは、人生の危機に瀕していました。兄弟ラザロが死んだのです。姉妹マリアと共に、兄弟ラザロを葬ったばかりでした。

この三兄姉は、主イエスとずいぶん親しくしていたようです。ラザロ危篤の報は、早くに主イエスに伝えられていました。しかし、主イエスがこの家族のもとを訪れたのは、すでにラザロが死んで葬られてから四日たったときでした。家族同然の親しい仲であった主イエスが、ラザロの臨終には間に合わなかったのです。ですから、マルタは、主イエスを出迎えたとき、思わず、こう言ったのです。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(21)

わたしたちは、教会に集って、何よりもキリストにお会いするために礼拝にあずかります。もちろん、親しい信仰の友に会うためにも集うのですが、その集まりの中で、主イエスがおいでくださる礼拝を整えようとしているのです。ここに、主イエスがおいでくださっている。おいでくださっている主イエスとわたしたちは、お会いすることができる。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18:20)という主の約束のとおり、わたしたちは、教会の交わりの中で、主がおいでくださって、お会いくださることを、信じて確かめ合っています。どなたに対しても、教会の交わりの中でこそ、主イエスとお会いいただけると信じて、ここにお招きをしているのです。

わたしたちは、そのような営みに生きています。それでも、日々の歩みの中で、「主がいてくださらない」と思わずにいられないことも、ときに、あるいはしばしば、経験するのです。

「普段の生活では、キリストのことをすっかり忘れてしまっている。だから、せめて、日曜日の教会に来ることが、自分の中にキリストを取り戻す、大切な機会なのです」とおっしゃる方があります。多くの方にとっては、それが実感かも知れません。本当であれば、家庭でも職場でも、日常の生活の中で、「主イエスが共にいてくださる」ことを確かめつつ、歩みたいと願う。けれども、実際には、日常生活のほとんどの場面で、わたしたちは、キリストにおいでいただくことを忘れてしまったり、避けてしまったりする。ですから、ときにキリストとは無関係の者であるかのように振る舞ってしまって、未信者の家族に、「それでもキリスト者か?」と問われるようなことをしてしまったりする。そして、日曜日に教会で礼拝にあずかりながら後悔するのです、「あのとき、主が共にいてくださることを想い起こしていたら…」、「主がもっと早くおいでくださっていたら…」と。

けれども、皆さんには、後悔して、悔いることばかりしていただきたくないのです。主イエスは、わざと、おいでになる時を遅らせられることがあるのです。この福音書の物語でもそうです。主イエスは、あえて、遅れていらっしゃる。主には主のお考えがあるからです。わたしたちには理解できないかも知れないけれども、お考えがあって、主は、あえて遅れていらっしゃることがあるのです。

 

生きるために!

しかし、遅れていらっしゃるとしても、キリストは、わたしたちのところに、必ずおいでくださる方です。おいでくださって、おっしゃられるのです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(2526)

主は、わたしたちに問うています。信じるか、信じないか。しかし、どちらか選べと、わたしたちに決断を迫っているのではありません。「復活を信じ、命を信じて、生きよ」と、主ご自身が命がけの決断をもって、わたしたちに迫ってこられているのではないでしょうか。「死んではならない。決して死んではならない。生きよ。真の命、復活の命を信じて、生きよ。あなたが生きるために、わたしは命を差し出した」と、主は、わたしたちに迫ってこられているのです。

主イエスがお定めくださった洗礼の営みに、もう一度、思いを集めたいと思います。命を新たにしていただく洗礼。古いもの、死んだものを捨て去らせていただく洗礼。わたしたちが本当に生きるために、「生きよ」と宣言してくださる洗礼。その洗礼の恵みにあずかる者として、また、共に聖餐にあずかるのです。

 

祈り  

主よ。わたしどもが本当に生きるために、命をお与えくださるとは、あなたはいったいどなたでしょうか。あなたに生かされて、生きさせてください。アーメン