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復活節第5主日礼拝説教「道案内がなければ」

日本基督教団藤沢教会 2009510

17ダビデはサウルとその子ヨナタンを悼む歌を詠み、18「弓」と題して、ユダの人々に教えるように命じた。この詩は『ヤシャルの書』に収められている。

19 イスラエルよ、「麗しき者」は、お前の高い丘の上で刺し殺された。ああ、勇士らは倒れた。

20 ガトに告げるな、アシュケロンの街々にこれを知らせるな、

ペリシテの娘らが喜び祝い、割礼なき者の娘らが喜び勇むことのないように。

21 ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ、お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな。

勇士らの盾がそこに見捨てられ、サウルの盾が油も塗られずに見捨てられている。

22 刺し殺した者たちの血、勇士らの脂をなめずには、ヨナタンの弓は決して退かず、

サウルの剣がむなしく納められることもなかった。

23 サウルとヨナタン、愛され喜ばれた二人、鷲よりも速く、獅子よりも雄々しかった。

命ある時も死に臨んでも、二人が離れることはなかった。

24 泣け、イスラエルの娘らよ、サウルのために。

紅の衣をお前たちに着せ、お前たちの衣の上に、金の飾りをおいたサウルのために。

25 ああ、勇士らは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはイスラエルの高い丘で刺し殺された。

26 あなたを思ってわたしは悲しむ、兄弟ヨナタンよ、まことの喜び、女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。

27 ああ、勇士らは倒れた。戦いの器は失われた。
              
(サムエル記下 11727節)

1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
           (ヨハネによる福音書 
14111節)


主イエスが行かれる道へ

先主日の礼拝後に、教会役員の皆さんと共に、バプテスマ志願者の洗礼試問会をおこないました。ペンテコステの祝いの礼拝で洗礼の恵みにあずかることを目標に準備をしてこられ方のための試問会です。

今回はお一人だけでしたが、たっぷり一時間半かけて、そのお一人のための試問会をいたしました。最近試問会に臨まれた方はご存じだと思いますが、通例であれば、洗礼試問会はお一人あたり三十分ほどの時間を割り当てておこなっています。わたしたちの教会の場合、洗礼を受ける方の人数は、それほど多くはありませんが、それでも、教会役員方にきちんと洗礼試問会に臨んでいただき、しかも、そのための時間を割いていただくとすると、一人当たり三十分程度と考えるのが、現実的なところなのだと思います。けれども、今回は、ただお一人のために、たっぷり一時間半かけて、試問会をいたしました。もちろん、その方に何か問題があったからではありません。その方に与えられた神の恵みを分かち合うために、それだけの時間が、わたしたちに必要だったのです。

まだ洗礼を受けていらっしゃらない方が、今日もこの礼拝においでくださっていると思います。そういう方は、もしかすると、今申し上げたような試問会の話を聞かされて、「洗礼を志願すると、試問会というやっかいなことをしないといけないのか」と思われるかもしれません。けれども、どうぞ安心してください。わたしたちの教会で今、大切にしている洗礼試問会は、洗礼を受けるために通らなければならないやっかいな関門、というようなものではありません。むしろ、洗礼を受ける人と、洗礼を授けて信仰の家族として受け入れる教会とが、安心して洗礼式に臨むための準備のときなのです。

「洗礼試問会は、恵みのときですね」と、先日の試問会が終わった後に、一人の役員の方がおっしゃいました。本当にそうだと思います。まだ洗礼式は先でも、すでに洗礼を受けて新しいキリスト者として誕生したかのように、その人のことをおぼえます。神から遠く離れたところから、恵みによって導かれてキリストのもとにおいでになられ、キリスト者として新しい命を与えられて生きる者となられたことを、洗礼式に先立って分かち合うのです。洗礼式の前であっても、試問会に臨まれる志願者は、すでに、キリストの恵みのうちに、新しい命に生き始めています。人間は、誕生の前から母の胎の中で新しい命に生き始め、成長し始めます。同じように、わたしたちは、試問会に志願者をお迎えするたびに、その人が、洗礼に至る前から、いや、洗礼を志願する前、キリストを知る前、生まれる前から、神に生かされ、神の恵みを注がれて、キリスト者として誕生する日に向かって命を育まれてこられたことを確かめさせていただくのです。

今日の福音書の物語の中で、主イエスが、弟子たちにおっしゃられました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(14)

先日の試問会を終えられた方が、「終わって、ホッとした」とおっしゃいました。わたしも、ホッとしています。役員方も、きっと同じだと思います。「あなたは心を騒がせなくてよい。あなたは神を信じているのだから、キリストを信じているのだから」。そのようにおっしゃってくださる主イエスの御言葉が、試問会を終えて洗礼の恵みにあずかるまでの最後の備えのときを過ごす志願者と、わたしたち教会全体の中で、今、静かに満ちてきているのではないでしょうか。

主イエスの御言葉に心安らいで、神を信じ、キリストを信じる者として、わたしたちは、主が用意してくださっているところに、主に迎えられて、進み行きたいのです。主が行かれる道に、わたしたちも歩みを進めてまいりたいのです。

 

「こんなに長い間一緒にいるのに…」

主イエスの行かれる道に従っていく。これが、わたしたちキリスト教会という群れに連なる者の、日々の、また主日ごとの歩みです。その歩みを共にする教会という群れに、新たに加わってくださる方が、一人、また一人と与えられることを祈る営み。これが、わたしたち教会の営みです。しかし、福音書の物語に伝えられる弟子のトマスのように、こう問われる方があるかもしれません。

「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(5)

今まさに洗礼を受けるための準備をしている人、洗礼を受けたばかりの人、あるいは、いずれ洗礼を受けられるであろう方。そういった方にとっては、もしかすると、教会が、あるいはキリスト者一人ひとりが、何を目指して、どこに向かって歩んでいこうとしているのか、そのことが一番気がかりかもしれません。そのことがはっきりと分からないままでは、洗礼を受ける決心ができない、とお考えになるかもしれません。

しかし、そのような問いは、すでに洗礼を受けて年月を重ねている者の間でも、しばしば沸き上がってくるのです。牧師も迷います。役員方も迷います。「主よ、どこへ向かって、わたしたちを導いて行かれるのですか。わたしたちには分からなくなりました」と、心のうちに訴えずにいられないことが、しばしばあります。

けれども、だからこそ、わたしたちは、トマスや弟子たちと共に、主イエスのこの御言葉に耳を傾けたいのです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」(67)

この御言葉に、わたしは、いつも圧倒されます。驚かされます。主が、今まさに傍らに座っている弟子たちにおっしゃられているのです。「わたしと共にいるあなたがた、わたしを知ることができるところにいるあなたがた、そのあなたがたは、既に人として知るべきもの、見るべきもの、父なる神を、見ている」。

父なる神を知ること、見ること。結局、わたしたちは、そこに至る道へと導かれ、その道を歩むために主イエスと出会わされ、結びつけられているのです。そのために、キリストの始めてくださった弟子たちの群れの末裔へと招かれ、教会に連なるようにされている。そこから離れないようにと、主の定めてくださった洗礼の恵みへと導かれているのです。

イースターに復活された主イエスは、四十日間、信じた弟子たちと共にいてくださいました。そして、天に昇られた後には、ペンテコステの日から、聖霊をお与えくださって、なお共にいてくださることを明らかにしてくださいました。だから、わたしたちは、今に至るまで続く教会の群れの中には、主が共にいてくださると信じています。信じて、ここで、共に祈り礼拝を献げる営みを通して、主との出会いを確かめようとしております。いや、わたしたちが一所懸命努力して主イエスと出会おうとしている、というのではありません。主のほうが、わたしたち一人ひとりを教会の群れに招き入れてくださり、この群れの営みの中で、出会ってくださろうとしている。わたしたちは、もしかすると、主が教会の群れの中にいつもいてくださることを、すっかり忘れているかもしれません。主がいらっしゃることなど忘れたかのように振る舞っているかもしれません。だから、フィリポのように、主に叱っていただかなければいけないかもしれません。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」(9)

 

主イエスの御名によって

愛する皆さん。主イエスは、どんなに長い間、わたしたちと一緒にいてくださっていることでしょうか。二千年間、時間と場所を越えて、あらゆる教会で、「二人または三人が主の御名によって集まるところ」ではどこでも、主イエスは、わたしたちと一緒にいてくださっている。もちろん、今も、です。

ただ、そのことに、わたしたちは、本当に鈍感なのです。もしかしたら、わたしたちは、何度も、わたしたちの教会の営みの中から主イエスを追い出してきたかもしれません。お引き取り願ってきたかもしれません。けれども、もう、そのようなことは繰り返したくありません。何よりも、わたしたちは、一人の人が洗礼の恵みへと導かれていくその歩みに伴い、寄り添って、自分もまた自分に与えられた洗礼の恵みへと思いを向け直すとき、主が、そこに伴ってくださり、寄り添ってくださっていることを、確かに想い起こさせていただけるのです。

道案内がなければ、進むべき道、主イエスの道から迷い出てしまうかもしれません。しかし、わたしたちには、洗礼というはっきりとした道案内が与えられています。この道案内に従って、洗礼へと招かれ、洗礼によって結びつけられ、洗礼から歩み始める。そこに主イエスがいてくださいます。主が、わたしたちの歩むべき道となり、真理となり、命となって、すべてを備えていてくださいます。

 

祈り  

主よ。招かれ、御言葉による平安を与えられ、信仰をいただき、主の道に歩ませていただいています。天の父を知る幸いを悟る者とならせてください。アーメン