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復活節第6主日礼拝説教「あなたの隠れたところを」

日本基督教団藤沢教会 2009517

30エリヤはすべての民に向かって、「わたしの近くに来なさい」と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。31エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルである」と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、32その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りに種二セアを入れることのできるほどの溝を掘った。33次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に載せ、34「四つの瓶に水を満たして、いけにえと薪の上にその水を注げ」と命じた。彼が「もう一度」と言うと、彼らはもう一度そうした。彼が更に「三度目を」と言うと、彼らは三度同じようにした。35水は祭壇の周りに流れ出し、溝にも満ちた。36献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。37わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」

38すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。39これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。
               (列王記上 183039節)
 
1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。9だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。10御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。12わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。13わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
                  (マタイによる福音書 6115節)

祈るとき

教会の古い習慣で、レントからイースターを経てペンテコステに至るまでの主日には、それぞれの呼び名が付けられていますが、今日、復活節第6主日はラテン語で「ロガーテ」、つまり「祈りの主日」と呼ばれてきました。復活節の歩みの中でも特にこの週に集中して、教会に連なる人々は、祈りを合わせるということをしてきたのです。それは、一つには、イースターの後、復活の主イエスに導かれながらペンテコステの聖霊降臨に備えた弟子たち、最初の教会の人々の歩みに、自分たちの歩みをなぞらえるためであったかもしれません。

ペンテコステを迎える前、復活された主イエスと共に四十日を過ごし、主が天に昇られた後にもなお一つになって集まっていた弟子たちは、百二十人ほどを数えたと使徒言行録(1:15)に伝えられています。一つになって集まって、彼らは、何よりも心を合わせて熱心に祈っていた(使1:14のです。使徒言行録によれば、復活された主イエスは、弟子たちの間に現れられたとき、神の国について話しをなさっていたというのですが(使1:3)、むしろ、そのときに弟子たちが主イエスから学んだのは、一つになって祈ることであったのかもしれません。こう言ってもよいでしょう。弟子たちは、主イエスが天に昇られた後、熱心に祈ることによって、なお一つであることができたのです。祈りによってこそ、弟子たちは、天に昇られた主イエスとの親しい交わりを確かめました。祈りによってこそ、天に昇られた主イエスが、なお自分たちを覚えていてくださることを確信いたしました。祈りによってこそ、彼らは、自分たちが今は天に昇られている主イエスによって招かれて集められた群れであることを、確かなものとすることができたのです。

わたしたちは、イースターを祝いました。洗礼を受けた仲間と共に、新しい復活の命という神の恵みを信じる信仰を新たにさせられました。そのわたしたちも、また、祈ることへと思いを集中するように導かれているのです。ペンテコステに向かって歩みを進めていくこのときは、一つになって熱心に祈るときです。祈りをひとつに集めて、ペンテコステを待ちます。一人ひとりが、それぞれに祈りを重ねてまいりましょう。また、機会があるごとに共なる祈りを集めてまいりましょう。そのような祈りの歩みの先でこそ、わたしたちは、キリストの約束くださった聖霊をお迎えする喜びを共に分かち合う者とならせていただけるでしょう。

ペンテコステの祝いに、一人の方の洗礼式を予定しています。そのための備えを、志願者だけでなく、教会の皆さんにも共に担っていただきたいと願っております。どんな備えをすればよいか。祈りによって備えるのです。志願者のためにお祈りください。受洗者を迎え入れる教会全体のためにお祈りください。一つになって祈る教会に、聖霊が与えられ、聖霊に満たされた新しいキリスト者が与えられるのです。新しいキリスト者が加えられた新しい教会が、祈りを一つに集める中で生まれるのです。熱心に祈る集まりとして誕生した初代教会は、最初のペンテコステの日に三千人の人が新たに洗礼を受けて仲間に加わったと伝えられています(使2:41)。受洗志願者が与えられるたびに、教会の皆さんが聖霊を求めて祈ってくださっているのだという確信を与えられます。そして、欲張りかもしれませんが、もっと熱心に祈っていただきたい、もっと多くの受洗志願者が与えられるように祈りを篤くしていただきたいと、そう願わずにいられません。

 

隠れたこと

祈りのときを過ごすわたしたちのために、主イエスの祈りの教えが与えられています。山上の説教として知られる箇所の中で伝えられている教えです。

祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(56)

ここで教えられているのは、わたしたちが「密室の祈り」と呼ぶ祈りです。

神学生時代に韓国の教会を訪問したことがありますが、いくつもの大きな教会を見学させてもらいました。そのとき、必ずと言ってよいほど紹介されたのが、会堂内に設けられた、たくさんの小部屋が並んだ施設です。各部屋はトイレの個室程度の大きさでしたが、それは信者のための個人用祈祷室ということでした。特に、早朝から熱心に集まってくる婦人方が、その個室を利用しているのだそうです。家庭では自分の個室を持てない主婦のために、教会が、祈りのための密室を用意して提供している、ということなのかもしれません。

わたしたちの教会にも、祈る場所を求めて訪ねて来られる方があります。礼拝堂で、一人静かに祈って帰られるのです。残念ながら、幼稚園の活動もありますから、いつでも祈りの空間として提供できるというわけではありません。しかし、礼拝堂を、あるいは会堂を、一人ひとりの祈り場として整えることができたら、どんなによいかと思います。親しくお付き合いをいただいているカトリック教会の司祭の方が、「教会が聖堂を閉ざしてしまうのは、教会の自殺行為です」とおっしゃられますが、それはカトリック教会だけのことではないと思うのです。

教会は、土地建物が無くても、信仰者の群れであれば教会です。それでも、教会は、会堂を持ち、礼拝堂を整えることを大切にしてきました。それは、礼拝場所を確保したり、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め…祈る、そのための空間を信者に提供して便宜を図る、というためだけではないのだと思います。

わたしたちは、個室を持てれば「密室の祈り」を励行できるでしょうか。自分の家、個室には、うっかりすると、自分の日常生活に関わっている諸々が溢れています。そのような場所では、かえって目の前にある諸々が気になって、なかなか祈りに集中できないのです。むしろ、わたしたちが祈りに集中するためには、日常生活を離れることができる場所が必要なように思います。「密室の祈り」のためには、自分の日常の諸々を持ち込むことのできない空間に身を置くのです。そうすることによって、わたしたちは、自分の内面の中でも、普段活発に働かせている表面部分ではなく、奥の方にあって普段はほとんど確かめることもないような部分、普段は隠されていたり、覆いが掛けられているような部分に、心働かせて思いを向けることができるのではないでしょうか。自分で普段、向き合おうとしていない自分自身のこと、中でも自分の罪や過ちのことに、否応なしに向き合うようにされていくのではないでしょうか。しかし、肝心なことは、そのような自分の深いところに向き合う営みを、自分ができている、ということではありません。肝心なことは、天の父なる神が、わたしたちの内面のそのような深いところ、隠れたところで、わたしたちと出会ってくださる、ということです。

…隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 

願う前から必要なものをご存じなのだ

祈るときに、わたしたちは、神はどこにいらっしゃるのかと、まず問います。そして、教えられているとおり、「天にいらっしゃる父なる神さま」というように祈り始める。けれども、「天」とは、どこでしょうか。わたしたちは、本当はよく知らないのです。そういう中で、主イエスは、この祈りの教えの中で、神さまは隠れたところにおられるというのです。しかも、それは、文脈から考えれば、どこか知らない隠れたところというよりは、「あなたの隠れたところ」です。「あなたが、祈るために入っていく自分の中の深いところ」、そこに神は隠れておいでになられる。それは、つまりこういうことでしょう。そこでこそ、神は、あなたのことを見ておられるのです。そこをこそ、神は、知っていてくださるのです。

あなたがたの父は、願う前からあなたがたに必要なものをご存じなのだ(8)

密室の祈りでも、公の共同の祈りでも、自分の祈りの言葉の貧しさに、恥ずかしくなることがあります。長々と祈りながら、自分や教会に必要だと思っているものを、神に一所懸命に要求する言葉ばかりを連ねていることに気づいて、深く恥じ入ったことが、一度ならずあります。願う前から必要なものをご存じだという神に、わたしたちは、幼子がおねだりするような「欲しいものリスト」を出す必要はありません。「わたしに本当に必要なものをお与えください」と祈る必要もないかもしれません。ただ、自分に本当に必要なものをお与えくださる神、天の父に向かって、顔を上げればよいのです。「父よ」と呼び、感謝を申し上げればよいのです。そして、そのような天の父の御心を、主がお教えくださった祈りの言葉のうちに確かめ、わが心としていくことを願えばよいのです。

主イエスが、「こう祈りなさい」とお教えくださった祈り、「主の祈り」を、わたしたちは共に祈る祈りといたします。この祈りを、本当に心からの祈りとさせていただくためにも、わたしたちは、なお一層、密室の祈りを深めたいと願います。わたしたちの隠れたところまで見ておられ、隅々までも知っていてくださる「天の父」のおいでくださることに、心から気づかされたいと願います。

 

祈り  

主よ。祈りを導いてください。隠れたところで父の眼差しの中に置かれていることに気づかせてください。主と共に御心を祈る者とならせてください。アーメン