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復活節第7主日礼拝説教「天と地を結ぶ旅へ」 日本基督教団藤沢教会 2009年5月24日 1イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。2主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。3もろもろの民が恐れるものは空しいもの 森から切り出された木片 木工がのみを振るって造ったもの。4金銀で飾られ 留め金をもって固定され、身動きもしない。5きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず 歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも 幸いをもたらすこともできない。6主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方 御名には大いなる力があります。7諸国民の王なる主よ あなたを恐れないものはありません。それはあなたにふさわしいことです。諸国民、諸王国の賢者の間でも あなたに並ぶものはありません。8彼らは等しく無知で愚かです。木片にすぎない空しいものを戒めとしています。9それはタルシシュからもたらされた銀箔 ウファズの金、青や紫を衣として 木工や金細工人が造ったもの いずれも、巧みな職人の造ったものです。10主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。 先主日、教会学校では、この4、5月に新しく教会にやって来た方々を歓迎して、交わりの合同分級をしました。神学生がその交わりの会を企画、進行してくれたのですが、子どもたちや教会学校の教師が、2人組になって、決まった質問をインタビューし合い、そのインタビューをもとに相手を紹介する、という交わりです。この質問が案外盛り上がったのですが、いくつかの質問の中に「あなたにとってイエスさまとはどのような方ですか?」というものがありました。子どもたちは、それぞれの言葉で反応してくれました。「やさしいひと」、「たよりになるひと」、「たいせつなひと!」…「いいひと?」、すてきな答えがたくさん出ました。中には、「ぜんのうの父なる神の、子」という、こちらがびっくりするような答えもありました。「私たちの罪を負ってくださった」という信仰問答のような言葉がさらっと出てくるというのは、昨年のクリスマスに洗礼を受けて、アシスタントして奉仕してくださっている高校生です。信仰生活の長い大人の方が、こういった素朴な質問を受けた時に、色々告白したいことがありすぎて、何から言ったらいいのか戸惑ってしまうのかもしれません。 みなさんは、このような質問にどうお答えになられるでしょうか?「あなたにとってイエスさまとはどのような方ですか?」色々な言葉が語られるでしょう。私の、学生時代のある友人は、「イエスさまは、おふとんのような方だ」と話してくれたことがあります。悲しい時、寂しい時、孤独な時、そんな私を誰も訪ねない夜に寝床につくとき、イエスさまがそこにいらっしゃる、と言うのです。誰も知らない涙を知っている。受け止めていてくださる方、包み込んでくださる方だ、と言います。そんな言葉を聞いて以来、こちらの方も、寝床につくときに、電気の消えた暗がりで布団をかぶると、なんだか安堵を感じるようになったものです。イエスさまが共にいてくださる。ある時私たちは、主イエスに対し、親のようなまなざしを感じ、ある時は、友だちのような近さを感じています。そしてまた、「主であり、師である」(ヨハ13:14)方、従い行くべき先生と仰いでイエスさまをお慕いしています。この地上での、主イエスの歩みを知っているからです。罪人と共に食卓を囲み、貧しい人、病や障がいに苦しむ人を憐れみ、お助けになりました。親しい人を亡くし悲しみの中に立ち尽くす人たちの前で、涙を流されました。そういった主イエスの地上での歩みを知っているので、私たちは、主イエスを見たことはないのに、心の目で、見ているのです。肉の目では見たことなどありませんのに。主イエス・キリストを信じるこのような歩みへと招かれた私たちの信仰の出来事は、驚きに満ちています。地上に与えられた人生の歩みを、多くの人は、目に見えるものをこそ拠り所にして生きているのです。 先ほど共に歌いました讃美歌(336番)には、「主の昇天こそ わが身の望み」という歌詞がありました。けれども、キリストの昇天こそが私たちの望みだという言葉は、私たちにとって馴染みの薄い言葉かもしれません。たしかに私たちは、代々の教会が継承してきた「使徒信条」の中に、「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」という言葉を告白しています。キリストの昇天を信じ、告白するのです。しかし、それはいったいどのような望みにつながっているのでしょうか。私たちの教会が大切にしてきた伝統的な信仰問答の中に『ハイデルベルク信仰問答』というものがありますが、そのテキストを開いてみますと、こういった問いがあります。「キリストの昇天は、われわれに、どういう益を、与えるのですか。」(問49)そしてまた、この問いの少し前には復活に関する問答があります。「キリストの復活は、われわれに、どのような益を、もたらすのですか。」(問45)私たちに、どんな益があるのか?この同じ問いを、キリストの「復活」と「昇天」とに向けているのですが、返って来る答えは、似ています。キリストが私たちのとりなしとなってくださったこと、そして私たちはそれゆえに、天に属する全く新しい命に生きるものとされたということ、その保証と希望とをいただいているということ、です。これらのことが、キリストの「復活」と「昇天」とを通して、私たちにもたらされたということです。私たちは、キリストの「十字架と復活」こそが重要であると信じているのですが、キリストの「十字架と復活」が私たちの「信仰」であるならば、「昇天」は、私たちの「希望」と言うことができましょう。この地上の世界を超えた、神の国への希望が、先ほどの讃美歌(336番)には、込められているのです。「昇天」という言葉は、おもしろいことにドイツ語でHinmmelfahrt(ヒンメル・ファールト)≠ニいう言葉です。Himmel≠ニいうのは「天」ですがFahrt≠ニいうのは「旅行」のことです。キリストが天への旅に出かけて行かれたというのが、「昇天」のイメージです。ルカ福音書には、旅する主イエスのお姿が描き出されていますが、偶然やって来て、しばらく過ごして去って行くような旅行人ということではありません。エルサレムの十字架へと向かわれる旅。そして十字架の死から復活せられ、天へと昇って行かれる旅。主イエスの旅には、果たされるべき目的がありました。それは、私たちの旧約聖書である、律法と預言者と詩編です。 本日の福音書で、私たちが初めに聞いた主イエスのみ言葉は、非常に大切です。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」(24:44)主イエスは、ご自身が旧約聖書の御言葉の成就であることをお語りになるのです。この少し前にも主イエスは、旧約聖書についてお語りになっています。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり御自分について書かれていることを説明された」(24:27)とある通りです。主イエスは、ご自身の十字架と復活の出来事が、旧約聖書の成就であったことを、2人の弟子たちに語られ、11人の弟子たちにまた繰り返されました。繰り返し語られただけでない、その御言葉が本当にわかるようにと、弟子たちの目を開かれました。「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開」かれた、とあります(45節)。「悟る」という言葉は、単なる日本語の「知る」、頭で「理解する」ということとは違います。理性のもっと深いところで「わかった」という、心が震えるような経験です。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しの悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」このことが、心の底から納得せられた時、弟子たちは、その証人、福音宣教者として立てられました。その活動は「エルサレムから始め」、と語られています。エルサレムは、日本にあっては、あまり馴染みのない土地であるかもしれません。遠いですし、言葉も違う特殊な場所です。なぜ、エルサレムなのか。このこともまた、旧約聖書に拠っています(イザ2:3)。その特殊な、たった一つの町でしかないエルサレムから、神は、キリストにおいて普遍的な救いの御業をスタートされたのです。「あらゆる国の人々」(47節)全世界、すべての人々に福音が宣べ伝えられるようになるのです。福音は、全世界に発信され、そして日本にも、この藤沢にも届けられました。キリストが弟子たちのもとに留まらず、「天」に旅立たれたのは、全世界を統治する神として、ご自身を示されるためです。そこは、私たちが仰ぐことのできる天空、特定の場所でとしての「天」ではありません。「天」とは、常に、神を閉じ込めようとしてしまう私たちの狭い世界を突き破るものなのです。同時に「天」は、目には見えない「隠れたところ」、すなわち「私たちの内の深いところ」だと先主日の礼拝で語られたことですが、そのように祈るときに開かれる心の深み、深く入って行くところです。それゆえに「天」は、私たちが空を見上げて、ボーっと待っている限りは、開かれないのです。 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」(使徒1:11)目の前で、キリストは目に見えない方となられましたが、弟子たちの目は開かれました。地上での歩みにピリオドを打って天へと旅立たれた主イエスを見送った弟子たちは、寂しくはなかったでしょうか。弟子たちにとって、主イエスは、最も大切で、そばにいてほしいお方だったに違いありません。復活の主に気づいた時、マグダラのマリアは、「ラボニ(先生)」と言って、主にすがりつきました(ヨハ20:11~18)。復活の主が現れてくださったことに気づいた時、「主だ」と言った弟子のヨハネ、その言葉を聞いて夢中で湖に飛び込んだあのペトロはどう思ったでしょうか(ヨハ21:1~13)。復活の主の弟子たちの歓喜は、キリストが去って行かれることで、ぬか喜びに終わるのでしょうか。決してそうではありません。キリストは弟子たちに祝福をお与えになり、目指して歩むべき天への道をお示しになられたのです。弟子たちは、天に挙げられたキリストを礼拝し、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52,53節)とあります。弟子たちの間に起こった讃美は、心の深いところから来るものです。聖書に書かれてあることについて、キリストが心の目を開いてくださったこと、御言葉に目が開かれ、心の深いところで分かった、という深い喜びから来るものです。そのときから、キリストは受肉した御言葉として、私たち信じる者の目の前にではなく、心の奥深いところに息づいておられるのです。私たちは、この地上にあって、心の目を開かれた者として、キリストがとりなしてくださった天に続く道を眼差しながら、信仰の旅路を共に歩みましょう。来るペンテコステには、私たちの教会でも洗礼が執り行われ、新しいクリスチャンの誕生が祝われることです。またお一人の姉妹の転入式が予定されてございます。新しい家族が加えられるペンテコステへ向かう教会の歩みが導かれるよう、この一週間、共々に祈りを合わせてまいりましょう。 |