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ペンテコステ礼拝説教「あなたにも聖霊が」 日本基督教団藤沢教会 2009年5月31日
25 わたしがお前たちに送った大軍、すなわち、かみ食らういなご、移住するいなご、若いいなご
食い荒らすいなごの、食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。
26 お前たちは豊かに食べて飽き足り、驚くべきことをお前たちのために成し遂げられた主
お前たちの神なる主の御名をほめたたえるであろう。
わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。
27 イスラエルのうちにわたしがいることを、お前たちは知るようになる。
わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。わたしの民はとこしえに恥を受けることはない。
3:1 その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。
2 その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。
主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、
主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
ペンテコステの日が来て…
ペンテコステ、聖霊降臨の祝いの主日を迎えました。この祝日をおぼえてお出でくださった方も、そうではない方も、この日、ここに一つになって集う礼拝に加わってくださっている。一つになって集まるこのときを、共有してくださっている。そのことを、私は、どの主日・祝日よりも、この祝日に喜びたいのです。
ペンテコステの祝日を迎えるまで、教会は、約半年の、主イエスの歩みを辿る季節を過ごしてきました。クリスマスを迎えるためのアドヴェント(待降節)から始まって、御子のご降誕を祝うクリスマス、主イエスの十字架への道行きとご受難をおぼえるレント(受難節)、そしてイースター。半年間を、わたしたちは、主イエスに導かれて、手を引かれるようにして、歩んできたのです。
思い返して、クリスマスの物語は、なんと小さな祝いの物語であったでしょうか。そこに描かれていたのは、幼子の誕生を喜ぶ両親、それに、祝いに駆けつけた羊飼いたちと占星術の学者たちだけでした。イースターの物語もまた、小さな祝いの物語でした。復活の主イエスが、弟子たちの閉じこもっていた小さな部屋にお出でくださり、また弟子たちに指示していた山にお出でくださり、限られた者たちだけに、その祝いのときを与えてくださったのです。けれども、今、祝いの日として迎えたペンテコステの物語は、大きな、大きな祝いの物語です。ペンテコステの日、弟子たちは、主イエスがすでに天に昇られて、傍らにお出でくださらないことを知っていましたが、皆が一つになって集まっていたのです。
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると…(使2:1)
少なくとも、すでに百二十人ほどの弟子たちの集まりであったはずです。しかも、この日、この弟子たちの群れは、三千人以上の集団にふくれあがりました。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった(使2:41)。
ペンテコステの日。共に喜び祝う集まりが、どこまでも大きくなっていく。その大きな、大きな祝いの物語が、この日、始まったのです。
この半年を、皆さんは、どのように歩んでこられたでしょうか。教会では、クリスマスの祝いの中で三人、イースターの祝いの中で一人の洗礼式を執り行って、新しいキリスト者の誕生を祝いました。他の教会から導かれて、わたしたちの教会の群れに加わられることになられた兄弟姉妹方を、お迎えいたしました。そのような中で、皆さん方は、どのように歩んでこられたでしょうか。このペンテコステの祝いの日を、半年間、指折り数えて迎えてくださったでしょうか。
今日、この礼拝の中で、一人の姉妹の洗礼式を執り行います。半年前のクリスマスの祝いの最中にこの教会に導かれてこられて、そのときから、ただ一つ、洗礼に思いを向けて、このペンテコステを目指して、共に備えの歩みをしていただいた姉妹です。準備会を重ねる中で、迷いもありました。けれども、今日の日を迎えることができた。あっという間であったようにも思いますが、やっと辿り着いた、という思いもあるのです。今日の日を迎えることができて、ここに辿り着くことができて、よかった。ホッとした。それが、率直な思いなのです。
実は、同じ頃に、このペンテコステに洗礼を受けることを目指して準備会を始められた方が、他にもいらっしゃいました。ひとりの方は、残念なことに、いろいろな理由があって準備会を途中で中断し、洗礼も宙に浮いたままになってしまった。もちろん、また洗礼に向けた準備が再開できることを願って、その方のことを祈りに覚えています。幾人かの方も、一緒におぼえて祈ってくださっています。けれども、実際のところ、人の思いではどうにもならないところがある。その意味では、とても難しいことだとも考えているのです。
そのような方がいらした一方で、今日、ペンテコステを共に迎えて、洗礼の恵みへと迎え入れられる姉妹が、ここに、一つの教会の群れの中に、立ってくださっている。この喜びを、この感謝を、皆さんにも共にしていただきたいのです。
聖霊に満たされて…
ペンテコステ。わたしたちは、皆で一つところに集まって、賛美と祈りとを合わせています。主イエスが、このペンテコステの日を備えてくださったのですが、しかし、今は、わたしたちは、皆、一つところに集まることを大切にしていると、はっきり言うことができます。この一つになって集まる教会の営み、礼拝の営みを、何よりも大切な、わたしたちの留まるべきところ、帰るべきところとして、語ることができる。それが、ペンテコステの祝福です。
本当にそれは、神からいただいた祝福です。主イエスが、わたしたちを招いてくださり、その道へと導き入れてくださり、従うようにと手を差し伸べてくださり、十字架に至るその歩みをお示しくださったとき、わたしたちは、まだ、物わかりの悪い、強情で、わがままな幼児のようにして、ただ、主イエスの見えるところにいれば安心だというだけの思いを抱いて、そこにとどまっていただけだったのです。何かというと、すぐに、放蕩息子のように飛び出していってしまう。父なる神の愛に甘えて、最後にはどうにかしてもらえると考えて、好き勝手なことをしてしまう。そういうことが、幾度あったでしょうか。けれども、ペンテコステの祝福をいただいたわたしたちは、知っているのです。主イエスが、本当にわたしたちの成熟した一人として立つことを望んでくださっていることを。父なる神が、わたしたちを一人前にしてくださろうとしてくださっていることを。
ペンテコステの日、その祝福の内に、聖霊が、弟子たちの一人ひとりに与えられました。それは、弟子たちにとっては、とても大きな衝撃的な経験だったのでしょう。突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような下が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった(使2:2〜3)。あまりに衝撃的な経験だったので、そのようにしか、その経験を伝えられなかったのに違いありません。けれども、それは、ただの神秘的な不思議体験だった、ということではないと思うのです。
すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した(使2:4)。
天からの聖霊に満たされたときに、弟子たちの一人ひとりが、ほかの人に伝わる言葉を語り出したのです。人に伝わる言葉を語れる。神は、聖霊によって、弟子たちを、そういう一人ひとりにしてくださった。ほかの人に伝わる言葉をきちんと語れる一人ひとりにしてくださった。今までは、そうではなかったのです。主イエスにオンブに抱っこだったときには、弟子たちは、勝手なことを一方的に言うばかりでした。父なる神の愛に甘えきって、ひどい言葉を人にぶつけてばかりいた。けれども、主イエスは、そういう弟子たちに聖霊を送る約束をしてくださった。聖霊を与えて、父なる神の御心を語れる一人、一人前の一人にしてくださった。主イエスのように人に語れる、成熟したキリスト者にしてくださった。だから、ペンテコステは、そういうキリスト者が自分たちで歩み始める勇気を与えられたとき、教会の誕生したときだと、そう言うことができるのです。
すべての人たちに知ってもらいたい!
わたしたちがペンテコステを祝うとき、そういう聖霊を、わたしたち一人ひとりがいただいていることを、感謝して、勇気を新たにされて、教会という一つの群れに連なって歩んでいくことを、もう一度確かにするのです。主イエスに密着して、主イエスとの個人的な親しい交わりを祈りの中で深めて、そういう主イエスとの関わりの中で、主イエスに従っていくことも、わたしたちの信仰者としての大切な歩み方でしょう。けれども、そこから更に、主イエスは、わたしたちが、新しいところ、教会という交わりの中で、主イエスのように一人立つことさえ許されて、しかも、互いに伝わる言葉を語り合って、そう、互いに相手がキリストであるような関係を築いていく中で共に歩んでいくことができるように、そのように成長できるように、祈ってくださっている。祈って、父なる神のもとから聖霊を、わたしたちのもとに送るようにしてくださっている。
聖霊を与えられて、立ち上がったペトロは、こう語り始めました。
「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください」(使2:14)。
父なる神が主イエスを通してわたしたちにしてくださったこと。主イエスが期待してくださっていること。父なる神が願ってくださっていること。そのことを、父なる神がお与えくださった聖霊が、わたしたちに悟らせてくださり、語らずにはいられなくしてくださっているのです。
ペンテコステの祝いです。一つになって集まっているここで、わたしにも、あなたにも、今日、ますます豊かに聖霊が満たされるのです。今ここに一つ集うように道を備えてくださった主イエスの導きを、その御業をなしてくださった父なる神の御心を、わたしたちは、家族に、隣人に、すべてこの地に住む人たちに、知ってもらいたい。その願いをこそ、祈りのうちに聞き上げていただきましょう。
祈り
主よ。今、一つにされている不思議を御業と信じます。聖霊の御業を信じます。キリストの御名によって立ち、語る言葉を持つ者とならせてください。アーメン
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