印刷用PDFA4版2頁 |
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三位一体主日礼拝説教「ほめたたえよ!」 日本基督教団藤沢教会 2009年6月7日 1ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。2上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。3彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」 3わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。4天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。6神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。7わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。8神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、9秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。10こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。11キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。12それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。13あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。14この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。 (エフェソの信徒への手紙 1章3〜14節) 三位一体主日 ペンテコステに続く日曜日は「三位一体主日」と教会暦で定められてきました。クリスマス、イースター、ペンテコステを祝ってきた教会が、「父・御子・聖霊」の「三位一体の神」を信ずべきお方として示されてきたことを確かめる主日です。 「三位一体主日の典礼色は何色ですか」と、昨日の土曜日に礼拝堂の準備をしてくださっていた伝道師が、尋ねてこられました。毎年のことですが、皆さんは、ご記憶でしょうか。「三位一体は白」と即答しましたが、実は迷って当然なのです。「三位一体主日」に、カトリック教会では「緑色」の典礼色を用います。一方、プロテスタント教会の中には「白色」を用いる教会があるのです。それぞれに理由があります。「緑色」は自然色と呼ばれていて、特に主の御業をおぼえるべき祝日以外の期節に用いる色だとされます。「三位一体主日」に「緑色」を用いるのは、この祝日が、主の御業そのものをおぼえるというよりも、「教理的な祝日」であるからだと、説明されます。一方、「白色」は、栄光とか勝利を表す色です。クリスマスやイースターの期節は、神の光、キリストの命の光を祝う中で、当然、「白色」が用いられます。「三位一体主日」という祝日に、クリスマス、イースター、ペンテコステの祝いの中でおぼえてきた神の御業、その栄光と勝利をあらためて一つのものとして確かめるという意味で、典礼色を「白色」にするという考え方が生まれてきたわけです。日本基督教団では、典礼色はきちんと定められているわけではありませんが、藤沢教会では、今のところ、「三位一体主日」の典礼色は「白色」としている、というわけです。 今日の聖書日課、旧約聖書からはイザヤ書6章。これは預言者イザヤが神殿で神の召命を体験した出来事を伝えるところですが、イザヤは、そのとき、神殿で繰り広げられる荘厳な礼拝を目の当たりにしたのです。それは祭司たちが執り行っているものではありません。神ご自身が天使たちを遣わして繰り広げさせている、いわば天上の礼拝の幻を目撃したのです。セラフィムという天使の一種が神殿いっぱいに飛び交いながら、互いに神を賛美する声を呼び交わしていたのです。 「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イザ6:3) 皆さんよくご存じの、わたしたちの主日礼拝で最初に歌う讃美歌83番の歌詞です。今日は、やはりこのセラフィムの賛美から歌詞を取った讃美歌351も歌いました。「聖なる、聖なる、聖なる」と、最上級の賛美の言葉をもって、神をほめ歌う。セラフィムと呼ばれる天使たちと共に、神の栄光をほめ歌うのです。 新約・使徒書のエフェソの信徒への手紙1章の御言葉も、また神をほめ歌う賛美の御言葉です。神をほめたたえる、神をたたえる、と何度も繰り返されます。もちろん、こちらの御言葉の中には、「父」「御子」「聖霊」の御名が出てきますから、はっきりと「三位一体の神」をほめたたえている、ということができます。 与えられた聖書日課の御言葉は、今日の「三位一体主日」に、「三位一体の神」の御名をたたえ、その栄光をほめ歌うことを、わたしたちに促しています。そのように、わたしたちの「三位一体主日」が、特に神の栄光をほめ歌う主日であれば、神の栄光をあらわす「白色」を掲げるのがふさわしいと言えるのでしょう。 「聖霊の証印」を押されている 本当ならば、今日、三位一体主日は、わたしたちキリスト者にとっては、一年で一番、充実した、信仰の充満した主日として迎えられる日だと言ってもよいのです。わたしたちは、クリスマス、イースター、ペンテコステと、主の御業を一つひとつおぼえてきて、そこに導き入れられて、信仰者として立つべきところをはっきりと示されてきました。 神が天地創造の前からキリストの内にわたしたち一人ひとりをお選びくださっていたこと。キリストに従うように招き寄せてくださり、キリストと一つに結ばれて神の子としての新しい命に生きる道へと進ませてくださったこと。わたしたちの知らずに犯してきた数知れない罪や過ちを、御子キリストがその血をもって贖ってくださり、わたしたちが、すでに深く、幾度も赦されてきた者であることを、心に刻ませてくださったこと。それらすべてのことを、恵み豊かな神が、キリストを通して、わたしたちにお示しくださったのです。 クリスマスからペンテコステまでの半年の間に、わたしたちは、あらたに洗礼を受けられた兄弟姉妹を教会の群れの内にお迎えしました。その中で、わたしたちは、それぞれに自分自身の洗礼の恵みをあらためて確かめてきました。その恵みの豊かさに力与えられて、新しい歩みへと押し出されている。そのような思いを与えられながら、今日の日を迎えたのです。聖霊降臨の祝いを終えて、再び新しい歩みへと一歩踏み出した、その第一歩が、今日の三位一体主日の歩みに他ならない。充実した一歩、キリスト者としての勇気の充満した一歩を、わたしたちは、この礼拝で刻んでいるのです。 今日のエフェソの信徒への手紙の御言葉の中で、使徒パウロが、ほんの一箇所だけ、語調を変えているところがあるのに、皆さんはお気づきでしょうか。ずっと、「わたしたち」という一人称で記しているのに、一箇所だけ「あなたがた」という二人称が出てくるのです。 「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」(エフェ1:13) 「聖霊で証印を押す」というのは、洗礼を受けることだと、教会では理解されてきました。厳密には、水を用いた洗礼の儀式に続いて、聖霊を受ける儀式が、洗礼式の中で執り行われてきたのです。聖霊を示す「油」が額に塗られたり、聖霊を伝達する意味で司式者の手が按かれたりする儀式です。もちろん、そのときに、司式者が目に見える聖霊を、受洗者に授けられるわけではない。けれども、ここに聖霊が働く、父・御子・聖霊の御名による洗礼を執り行うときに、聖霊の神がその人の内に確かに働き始めると、そう信じて、聖霊を受ける儀式が行われてきたのです。わたしたちの教会でも、目立たないかもしれませんが、皆、そのような洗礼を受けてきました。 パウロは、「あなたがたもまた」と語調を変えることで、わたしたちに、そのこと、洗礼を受け、聖霊の働きを信じる群れの中に置かれるようになったことを想い起こすようにと、呼びかけているのでしょう。わたしたちに、キリスト者として与えられた、キリストの内にある勇気を奮い立たせるようにと、呼びかけているのでしょう。 神をほめたたえる「教会」を信じよう! その意味では、神殿で飛び交うセラフィムの呼び交わす声、「聖なる、聖なる、聖なる」と神をほめ歌う賛美の歌声を聞いていたイザヤも、呼びかける声を聴いていたのです。聖霊の炎で清められて、神に罪赦されて、立ち上がる勇気を与えられて、新しい歩みへと押し出される。神を最上級の賛美の言葉でほめ歌う礼拝。それは、天上の礼拝と一つにつながれていることを信じて献げられている礼拝でありましょう。その礼拝の中でイザヤが体験したことを、わたしたちは、教会の礼拝の中で、もっとはっきりと、主日ごとに味わっているのです。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神をほめ歌う礼拝。父の御心が告げられ、御子キリストの御業が語られ、聖霊の今、ここでお働きくださることが信じられている礼拝。そのような礼拝を、わたしたちは、先達から受け継いで献げ続けている。ここに、神が恵みの御業を、豊かに現してくださるからです。一人の人が、主の赦しの恵みを深く信じて、キリストにある新しい命に生きる希望を確信して、古い自分に死んで、新しいキリストにある神の子、キリスト者として誕生する、その驚くべき御業に、恵みの御業に、わたしたちは、教会の営みの中で、教会の礼拝の中で、数え切れないほど立ち会わせていただいてきたのです。これからも、次から次へと、新たに立ち会わせていただくことになるでしょう。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」 わたしたちは、このほめ歌をもって、神をほめたたえ続けます。父・御子・聖霊の神を、ほめたたえ続けます。このほめ歌の言葉は、何よりも、教会が聖餐の式の中で繰り返してきた言葉です。天上の礼拝に結ばれた、この地上の教会の礼拝の中で、わたしたちは、天上の神の食卓に結ばれた、地上の教会の主の食卓にあずかります。この聖餐の食卓に、父・御子・聖霊の神の御業が示されていることを信じて、あずかる者となります。すべての人が、父・御子・聖霊の御名による洗礼の招きに応えて、ただ一つの主の食卓にあずかる、キリストのもとに一つにまとめられる。そのためにこそ、わたしたちもまた、あのほめ歌の言葉を与えられ、賛美の歌声を響かせる者とされていることを、喜びをもっておぼえたいのです。わたしたち皆が、ここで神をほめたたえる教会になるのです。神をほめたたえる教会こそが、すべての人を集め、招き入れ、キリストにあって一つに造り上げられるための御業へと遣わされているのです。 祈り 主よ。父の恵み豊かな御心を覚えさせてください。御子の贖いの御業を深く心に刻ませてください。聖霊の豊かな働きをこの手足に満たしてください。アーメン |