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主日礼拝説教「あなたを輝かせる方法」 日本基督教団藤沢教会 2009年6月21日
19 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず
12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。15そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、16命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。17更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。18同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
「あなたを輝かしたい」
今日の礼拝予告で、説教題を「あなたを輝かせる方法」としてご案内しました。今日の週報にも、そのように記されています。いつも、私どもは、前月末の日曜日に、翌月の礼拝計画を関係奉仕者にお配りしますので、今日の礼拝のための計画を立て、説教題を決めたのは、先月の下旬です。一ヶ月近く前に、今日の聖書日課を読んで、黙想して、説教題を決めました。
「あなたを輝かせる方法」。少しハウツーめいた話しを予想させる題です。説教題にはふさわしくないような気もしましたが、今年の「教会の半年」を歩み出していく6月の歩みの中で、今日の聖書の御言葉が示していることは、要するにこういうことだと考え、このような説教題にしたのです。
今日の御言葉の中で、パウロがこういうことを記していました。
同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにし…。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめいじぶんのことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。(フィリ2:2〜5)
何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。(フィリ2:14〜16)
このようにパウロが記していることを、一つずつ取り上げて、それを、いわばわたしたちの信仰者としての行動規範としてしっかり学び、身に着ける。そうすれば、わたしたちは、自分を輝かせることになる。そのようにお話しするならば、今日の説教題に合ったお話しになるでしょう。
けれども、今日、ここで皆さんに、今日の御言葉から聴き取っていただきたいのは、わたしたちが自分の人生を輝かせるための方法論ではありません。結論めいたことを初めに申し上げてしまいますが、今日、わたしたちが、御言葉から聴き取りたいのは、こういうことです。
「あなたを輝かしたい」。これが父なる神の御心で、主イエスの御言葉を通してパウロが理解し、信じて記したこと。このことです。
「わたしの喜びを満たしてください」
私は、夕礼拝の説教では、しばしば、個人的なことや、特定のどなたかのことについて触れることがありますが、朝の礼拝では、滅多にそのようなことをいたしません。けれども、今日は、ある方のことに触れることをおゆるしいただきたいのです。
この一ヶ月ほどは、教会員のご逝去の報が続いております。教会員のご家族の訃報も、必ずしも皆さんにお知らせをしていないのですが、続いております。そして、昨日もまた、教会員の皆さんには訃報の連絡網を回しました。週報にも会員消息として訃報を掲載していただきました。わたしたちの教会のメンバーであるお一人の姉妹が、一昨日、半年余りの病気療養の末に、地上の生涯を閉じられたのです。
この姉妹は、三十年余前にご夫妻で藤沢教会に加わられました。姉妹は北九州の教会からの転入、ご夫君は藤沢教会で洗礼を受けられたのです。その後しばらくして、転勤で転居されましたが、転居先で落ち着く教会を見つけられずに時が過ぎてしまわれました。二十年以上、献金は毎年送ってこられていましたが、教会生活らしいことからは、まったく離れて過ごしてしまわれたのでした。私も、藤沢教会にお仕えするようになってから五年間、ほとんど連絡らしいことをいただきませんでしたから、どのような信仰の歩みをなさっているのか、まったく分からずにおったのです。ところが、ご病気を得られて、余命わずかとなられて、この姉妹ご夫妻は、まず依田牧師のところに、そして私のところに、連絡をしてこられたのです。それは、端的に申し上げれば、「そのときには葬儀をしてもらえるか」という連絡でした。そのとき、私は、それがどのような思いでの願いでいらっしゃるのか、その真意を図りかねました。信仰からの願いなのか、違う思いからの願いなのか。お電話での連絡だけでは、ご夫妻の心の内が分かりかねたのです。そこで、私は、その連絡をいただいてすぐ、数日後に、急遽、入院先までお訪ねさせていただいたのです。
小さな礼拝と聖餐式を執り行う準備をして、お訪ねしました。もしかすると、お訪ねしても、礼拝を共にすることや聖餐にあずかることを望まれないかもしれない、という危惧を抱きながら、お訪ねしたのです。しかし、そのような危惧は、無用なことでした。姉妹は、まるで元々私のことを知っていたかのように歓迎し、病室に迎え入れてくださったのです。そして、ご夫妻と私と同行してくださった教会員の方と四人で、しばし語らい、小さな礼拝と聖餐のときを過ごしたのです。
そこでわたしたちが分かち合ったのは、懐かしさからくる友情というようなものではありませんでした。確かな信仰の同志が、団結を再確認するというようなものでもありませんでした。それでも、そのときを過ごした私に与えられたのは、まさに、パウロがこう語っている喜びであったのです。
同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。(フィリ2:2)。
本当に、良かったと思いました。この姉妹ご夫妻のように、長く教会の交わりから離れてしまわれて、結局、連絡が途絶えてしまうということは、(あってはならないと思いますが)、教会では、ときどき起こることなのです。けれども、この姉妹ご夫妻は、人生の最期という重大なときを迎えるにあたって、ご自分たちが教会の交わりの中にこそ、立つべき場所を与えられていることを、想い起こしてくださったのです。いや、パウロの言葉を借りるならば、それは、神が、この姉妹ご夫妻の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせてくださったのです。神が、この姉妹ご夫妻を、清い者とし、神の子とし、この世にあって星のように輝かせる道を、確かに備えようとしてくださっている。そのことを確信させられる訪問のひとときであったのです。
従順に、恐れおののきつつ…
私が病床をお訪ねしたときから、ちょうど一ヶ月。姉妹ご夫妻は、祈りのうちに最期の日々を過ごされました。そして、姉妹ご自身でも備えをなされたことに基づいて、明日、明後日、葬儀を執り行います。
葬儀の中で、私は、姉妹の輝きを、参列者の皆さんにお話しすることになるでしょう。それは、姉妹の内から溢れ出る光ではないかもしれません。輝かしい人生として、人々の記憶に残されるのでもないかもしれません。けれども、姉妹は、最期の日々に、確かに、自分を星のように輝かしてくださる方に全幅の信頼を寄せることだけを、祈り願って過ごされたのです。そして、神は、確かに、姉妹を世にあって星のように輝かせられたのです。
ただ、私が、今日の御言葉を通して、皆さんに申し上げたいのは、わたしたちは、何もこの姉妹のように病気を得ることにならなくても、今、すでに、洗礼を受けたキリスト者として、世にあって星のように輝かせられる生き方へと導かれているのだ、ということです。神が、「あなたを輝かせる」という御心をもって、わたしたち一人ひとりの内にお働きくださり、御心のままに望み、行う者とならせてくださっているのだ、ということです。
大変な病気や怪我といった試練を経験しなければ、信仰は深まらない、とおっしゃる方があります。そうでしょうか。少なくとも、わたしたちの知っている聖書は、そのようには教えていないと思います。ただ教えられているのは、わたしたちはキリストに従い続けるべきだ、ということです。神の前だけでなく、人に対してさえ徹底してへりくだられて、敵意を持つ相手に自分の身体を差し出すことさえなされて、そこまで自分自身を明け渡すことによって、神の完全な輝きを、主イエス・キリストは、お受けになられた。そのキリストに、わたしたちは従うように招かれている。神の前に、畏れをもって頭を垂れ、へりくだる。それゆえに、人に対してさえ、へりくだり、敵意を抱く相手に自分を差し出すことさえいとわない。しかし、わたしたちは、それを自分自身の英雄的な勇気によって、為し得るのではない。ただ、御前に恐れおののくだけであるわたしたちを、御手の内に置いてくださり、わたしたちの内の深いところでお働きくださる神が、わたしたち一人ひとりに輝きを与えてくださるのです。神の輝き、キリストの輝きに照らし出された輝きを、わたしたちの身の上にもたらしてくださるのです。
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
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