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主日礼拝説教「愛の純粋さ」

日本基督教団藤沢教会 2009年6月28日

1 あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、2 あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。3 あなたは、そのとき任に就いている祭司のもとに行き、「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告いたします。わたしは、主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」と言いなさい。4 祭司はあなたの手から籠を受け取って、あなたの神、主の祭壇の前に供える。5 あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。6 エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。7 わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、8 力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、9 この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。10 わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、11 あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。         (申命記 26章1〜11節)

1 兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。2 彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。3 わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、4 聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。5 また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、6 わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。8 わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。10 この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。11 だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。12 進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。13 他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。14 あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。15 「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。
            (コリントの信徒への手紙二  8章1〜15節)



 昨日は、神奈川教区総会が開催され、総会の初めに、7名もの新しい教師の准允式が執り行われました。私自身が、昨年はあの場所に立っていたのだなどと思い起こしました。けれども昨年は、緊張していてあまり覚えていないというのが正直なところなのですが、今年は、非常に恵みを深く心に留めるときとなりました。昨年、多くの方が私にそうしてくださったように、私も「おめでとうごさいます」と祝福を申し上げたことです。私たちの教会は、この年、横浜開港と共に、日本のプロテスタント宣教の歩み150周年を記念する特別な時を迎えており、教区総会でも、様々な記念行事のアピールがございました。この宣教150年の歩みを振り返るならば、多くの宣教師の献身が見えてきます。日本の地に教会が建てられて行く上で、外国の教会や宣教師たちの支援は、なくてはならない大きな助けでした。しかしながら、この時以来、日本の教会は、外から援助を受けるばかりで、自ら献げることをあまり学べずに来てしまった、という評価も一方ではあります。

 教区総会ではまた、1時間ほど、DVDを見る時間がありました。「グラフで見る日本基督教団」というDVDで、教団の過去50年の数字のグラフをナレーションつきで追って行くものです。内容は盛りだくさんで、教団の教勢や財政の変化が一目にわかるもの、教区別の分析や教会学校の分析、カトリック教会との比較もありました。今から50年以上前、教団の1952年のグラフなどを見ますと、受洗者は16,000人近かったと思います。1950年代から1960年代にかけては、教団の教会の特別開拓伝道時代です。その伝道のための資金は、当時のお金で5,000万円。しかし、その内83%がアメリカの宣教師団、ミッションボードからのものだったと言います。日本の教会からのものは、そのうち15%でしかありません。しかしこのDVDのナレーターはこのようにコメントしたのです。数々の教会を生み出していったこの開拓伝道の時代、戦後間もなく、日本は貧しかったのに、15%も献げられた。このような言葉に、私はハッさせられる思いがいたしました。私たちの信仰の先達は、貧しさの中で、困難な中で、献げたのです。マケドニア州の教会について語ったパウロの言葉が思い浮かびました。「極度の貧しさがあふれ出」た(2節)、と言う言葉です。

 パウロは、このコリントの教会の人々へと書き送った手紙の中に、献金の勧めとして、マケドニアの諸教会の模範を記しました。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」という言葉です。エルサレムの原始教会の貧しい人々のためにささげるよう呼びかけられたこの献金は、教会の担うべき大切な業の一つでした。しかし、パウロは献金のはたらきに関して、「わたしは命令としてこう言っているのではありません」と語っています。パウロの意図は、この献金の業において「あなたがたの愛の純粋さを確かめ」ることなのだと言うのです。献金によって愛の純粋さが問われるなどという言葉は、私たちにとって、なかなか聞き入れにくい言葉であるかもしれません。しかし、パウロははっきりとここで「愛の純粋さを確かめる」と言うのです。確かめるというのは、「試す」という言葉です。私たちの愛は試されることによって、吟味されます。私たちは、その試練の中に、神との交わりに深く入って行くことがでます。自らの信仰が吟味される試練の意味を、後になって知るということは少なくありません。しかしその試しは、私たちにとって決して易しいものではありません。

 「行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。…それから、わたしに従いなさい。」(マコ10:21)。その言葉を聞くなり、肩を落とし、悲しみながら神の前を立ち去ってしまう、そういう私たちです。私たちにとって、戒めに従順であることは難しいことです。多少のことならできるかもしれない、という思いはあっても、戒めに全て従い、それに息苦しさを感じずにおられるという方は少ないと思います。カトリックのシスター、マザー・テレサは、手紙にサインをするペンでさえ、他のシスターの許可なく手に取ることをしなかったと言いますが、それはそのペン1本をさえ、自分のものとは思われなかったからです。これは、禁欲的な習慣からくるものというよりは、マザーの素朴な喜びから来るものです。すべてのものが、神からの恵みなのです。パウロの勧めもまた、禁欲主義的な命令ではありません。「持たないものではなく、持っているものに応じて」(12節)可能な限り献金するように、という勧めなのです。自発的に、進んでする、この慈善の業には、喜びがあります。4節で、「慈善の業」と書かれている言葉は、「恵み(カリス)」と言う言葉です。彼らには、この業によって、神の恵みが現れるのだという自覚がありました。ささげることが、神の恵みに生きることと不可分であることを知っていたのです。

 私たちの教会でも、奉仕のささげものが、キリストへの愛の形として活性化するように願って、色々な奉仕の可能性を模索していかなければならない段階です。本日も、新しい姉妹が客員として、私たちと共に歩み始めてくださる思いを表してくださったことです。また、洗礼を受けられ、新しくクリスチャンとしての命を生き始めたばかりの兄弟姉妹、そして転入会された兄弟姉妹、この教会で信仰生活を共にすることを決心してくださった、幾人もの方々は、この教会の門を始めてくぐった時とは違った思いで、今教会に足を運んでくださっていることと思います。この教会に連なるすべての方々が、この一つからだなる教会に、思いを注いでくださっています。神の前に跪く礼拝が一番大切な神への奉仕です。そして、この礼拝に始まり、様々な奉仕が、このキリストの体なる教会を生きたものとしています。献金はまた、教会の輪郭を形成する重要な献げものです。

 献げることはまた、教会にとって、一方が苦しんで、他方が楽をするということではないとパウロは言っていますが、しばしば私たちは、そのような不公平を感じるものです。私ばかりが一生懸命になっているのではないか。私ばかりが献げているのではないか。あるいは、その逆かもしれません。私は、あの人のような奉仕はできない。能力のある人に任せておけば、私は奉仕するところはない。しかし実際に、このようにして自分や人に与えられる賜物に優劣をつけたところで、人と比べているところでは、何も見えてきません。むしろ、奉仕に息苦しさを感じることにならないでしょうか。仮に、「一般的な奉仕」や「平均献金額」なるものがあるとしても、それは、神と私の関係に、意味をなさないのです。奉仕や献金に平均値はありません。一人一人が、神の御前に喜ばれる最もよいものを差し出す、これ以外には、小さいも大きいも、不足も余剰も、ないのです。神の前に、私たちのささげものは唯一であり、そして私たちはまた、唯一の体のために、一致して奉仕に参与するのです。

 礼拝の中で、私たちは献金を、真ん中にある聖餐卓へと差し出します。聖餐卓は、主の最後の晩餐を記念する食卓、礼拝における聖餐の食卓でパンとぶどう汁を置くテーブルです。私は、信仰生活に入った頃、聖餐卓が貴いものであること、その上には何も置いてはならないということを繰り返し教えられてきました。ですから、なぜ、よりによってこの世のものを賄うに過ぎないお金を、この聖餐卓の上に乗せるのかと疑問に思っていた時がありました。聖餐のパンとぶどう汁の恵みをいただいた後、直ちに、この食卓の中に集められたお金が置かれるのです。献金を置く台が他にないからではありません。私たちのために裂かれた肉、流された血であるパンとぶどう汁によりキリストの献身が現れるところで、私たちの献身のしるしを献げるのです。献げものを差し出す目の前に、ご自分を差し出してくださっている主イエスの十字架が見えるでしょうか。主は高い方であられたのに、低きに降られました。「主は、豊かであったのに、貧しくなられた」のです。

 先週水曜日の聖書研究祈祷会では、ある方がこのことを、「シーソーゲーム」のイメージではないか、とおっしゃられました。主は豊かだったとは、どういうことか。そしてまた、それによって私たちが豊かになるとはどういうことか。主が低くなると、私たちが高くなる、それはまるで、「シーソーゲーム」ではないか…。主は、一体いつ豊かであったでしょうか。たしかに主イエスは、この地上では貧しかったのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタ8:20)と、ご自身がそうおっしゃったように、主は、何も持たない貧しさの中に生きられた、しかも、それは伝道を開始した30歳になったときに、豊かなところから出家して何もかも捨てたのだ、というのでもないようです。クリスマスの出来事が伝える、主イエスのご降誕は、馬小屋の飼い葉桶の中に起こったのですから、やはり貧しかったと言えます。主イエスのご生涯は、お生まれの時から十字架の死に至るまで貧しさの中にあったのです。

 キリストが豊かであられたことは、この主イエスの暮らしや物の豊かさではなく、精神的な豊かさでもなく、神としての(先在の)キリストの豊かさです。「初めに神と共にあった」(ヨハ1:2)と、聖書がそのように語るように、キリストは、2000年前にこの地上にお生まれになる前、神の完全なる豊かさの中におられました。しかし、神は、私たち人間が罪に苦しむ姿をつぶさに見、私たちの救いのために、貧しさの底へと下る決意をしてくださったのです。見るべき面影もないような貧しい方となられました。十字架の上で死ぬような、最も卑しい者とされたのです。この方の十字架をどのように仰ぐのか。愚か者の側に置くか、力の源とするのか、神についての真理をそこに見るのか。コリントの教会の中に、問われていたことでもありました。不誠実な私たちです。しかし、神は、その不誠実のゆえに悲惨の淵にいた私たちに、神の豊かさに生きる道をお示しくださったのです。私たちの罪を負ってくださった、キリストが共に歩んでくださいます。この地上に始められた主の御業は、まだ終わってはいません。主が目に見える形ではおられない現在は、主の「現象的不在」と言われます。その今の時に、主は、教会を通してご自身を表されようとしておられます。キリストが招いてくださる、豊かな生命に生きる道を、私たちは歩んで行きましょう。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(9節)この御言葉を、私たちは今、心の深いところに受け止めたいと思います。主ご自身がお示しくださった、自らを差し出し、神に委ねる信仰が、私たちの間に導かれるよう、祈り願いましょう。