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主日礼拝説教「共に生きられる!」

日本基督教団藤沢教会 200975

14 シオンは言う。

主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と。

15 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。

母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。

たとえ、女たちが忘れようとも、

わたしがあなたを忘れることは決してない。

16 見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。

あなたの城壁は常にわたしの前にある。

17 あなたを破壊した者は速やかに来たが、

あなたを建てる者は更に速やかに来る。

あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

18 目を上げて、見渡すがよい。

彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。

わたしは生きている、と主は言われる。

あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい、

花嫁の帯のように結ぶであろう。

19 破壊され、廃虚となり、荒れ果てたあなたの地は、

彼らを住まわせるには狭くなる。

あなたを征服した者は、遠くへ去った。

20 あなたが失ったと思った子らは、再びあなたの耳に言うであろう、

場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

21 あなたは心に言うであろう

誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか

わたしは子を失い、もはや子を産めない身で、捕らえられ、追放された者なのに

誰がこれらの子を育ててくれたのか

見よ、わたしはただひとり残されていたのに

この子らはどこにいたのか、と。(イザヤ書 491421節)



32信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。33使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。34信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、35使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。36たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、37持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
               (使徒言行録 
43237節)



信じた人々の群れは…

今日、藤沢教会員の皆さんのお手元には、新しい黄色い表紙の「会員名簿」をお届けしました。申し訳ありませんが、「会員名簿」にお名前が掲載されていない皆さんには、「名簿」を差し上げられません。「自分は他の教会のメンバーだから、藤沢教会の名簿はいらない」という方もあると思いますが、そうでなくて、「名簿」を受け取れなかった皆さんには、ぜひ、来年の「名簿」にはお名前が掲載されて、堂々と「名簿」をお受け取りいただけるようになっていただきたいと願っています。もっと率直に言えば、洗礼を受けて、キリスト者の群れである教会に加わっていただきたいのです。

もちろん、皆さんには、「名簿」に名前が掲載されているかどうかに関係なく、同じ礼拝に集うお互いを覚え合い、受け入れ合い、共に礼拝にあずかる喜びを分かち合い、感謝し合っていただきたい。せめて礼拝で隣同士になった者同士、まだ面識がなければ名前ぐらい名乗り合って、互いに挨拶を交わして、ついでに礼拝に共にあずかれたことを隣同士で神さまに感謝して、それからお帰りいただきたい。そう思ってもいます。ただ、実際には、隣の人に気さくに声を掛けられる人もいれば、声を掛ける勇気がなかなか湧いてこない方もあるでしょう。誰かに声を掛けられるのを待っている人もいれば、逆に、声を掛けられるのが苦手な方もあるでしょう。そういうことがプレッシャーになって、礼拝から足が遠のいてもいけません。ですから、無理強いはいたしません。ただ、こうお勧めいたします。控えめに、しかし、ときには勇気をもって大胆に一歩踏み出して、と。

皆さん一人ひとりが、そのような一歩を踏み出せるように、ご自分のこととして祈り求めていただきたいのです。

いや、むしろ、こう言った方がよいかもしれません。

すでに教会に招かれて共にキリストに導かれて礼拝にあずかっている皆さん一人ひとりは、すでにそのような大胆な一歩を踏み出すことができる者に変えられ始めている。だから、そのことを信じていただきたいのです。

今日の新約聖書・使徒言行録の御言葉は、最初のペンテコステからまだ間もない時期の原始教会の様子を伝えています。

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。(32)

このとき、すでに男だけで五千人以上の集団にふくれ上がっていた原始教会でした。けれども、その集団が烏合の衆ではなくて、一つの群れとなって心も思いも一つにしていた。持ち物もすべて共有していた。この描写は多少は理想化されて描かれているのかもしれませんが、それでも、この使徒言行録の著者がこう記さないではいられなかった現実があったのだと思います。五千人が一つの群れとなって心も思いも一つにしていた。持ち物もすべて共有していた。そういう、一つになって共に生きる人々の集団の現実こそが、最初の教会の姿であったのです。

今まで、それぞれの人生の中で、バラバラに生きていた人たちだったと思います。思いとかを互いにぶつけ合って、傷つけ合っていた人たちだったでしょう。もしかすると、互いの持ち物をあわよくばかすめ取ってやろうと、虎視眈々としていたような人たちも含まれていたかもしれません。そういう時代、そういう社会の中に、皆、生きていたのです。だから、近づいて互いに傷つけ合うよりも、できることなら、なるべく互いに遠く距離を置いて離れていたほうが賢明だと考え、そのように振る舞っていた人たちもいたでしょう。できるだけ、最小限の小さな関わりの中だけで生きる。そういう時代、そういう社会だったのです。

ところが、使徒たちからキリストの福音を聴かされて、信じて洗礼を受けた人々は、そういう時代の風潮とは全く違う生き方を始めたのです。大胆にも一つになって共に生きる生き方を始めた。そうすることができると、大胆にも信じる者になっていたというのです。

現代に生きるわたしたちが信じているキリストの福音は、二千年前のそれと、どこか違うところがあるのでしょうか。キリストの福音の言葉に招かれて礼拝に集わされているわたしたちが、信じる者とされたときに起こること。それが二千年前の教会の人々の間で起こったことと同じであっても、何も不思議はありません。いや、きっと、同じことが起こる。そう、わたしたちは信じて、そのことを祈り求めることが、許されているのです。

 

すべてを共有して…

「そうだ。しかし…」とおっしゃられる方があるかもしれません。「一つの群れに加わって、心も思いも一つにする、というところはよいが、財産のすべてを共有する、ということは、この時代の社会では、ちょっと無理がある」。

そのとおりだと思います。「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく」とあるけれども、一人でも「これは自分のものだ」と主張する人がいたら、すべてを共有する生き方はすぐに崩れてしまいます。教会の中であっても、わたしたちは、自分の持ち物を持ってきたら、忘れずに持ち帰るのです。自分のものを他の人が使っていたりすると、あまりよい気分ではいられなくなったりする。

だから、わたしたちは、簡単にこういう風に割り切ってしまいがちです。「持ち物のすべてを共有する」というような原始教会の姿は、遠い過去のノスタルジーに過ぎない。せいぜい、青年の理想主義に過ぎない。現実に、この世で生き続けなければいけないのだから、ノスタルジーや理想主義は忘れて、もっと現実的な生き方を選ばざるを得ないのだ、と。

それでも、わたしたちは、教会に集い、信仰の家族の中で歩みを重ねていくときに、このことは、繰り返し問われ続けもするのです。主イエスが、山上の説教の中で「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタ6:24)と告げられた御言葉に問われるのです。金持ちの青年に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(マタ19:22)と告げられた主の御言葉に問われるのです。そのような御言葉に問われながら、わたしたちは、信仰者として生涯、教会の群れの中で歩んでいく。その問いにどう応えていくのか、新たに学び直し、新たな応えを出していく。そのような歩み方を許されているからこそ、今も、このように教会の群れの中に加えられているのです。

 

一人も貧しい人がいなかった…

ところで、わたしたちは、この使徒言行録の伝える原始教会の描写から、あまりに持ち物の所有の問題、わたしたちが自分の持ち物を手放せないという問題だけに目を奪われてもいけないかもしれません。

信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。(34)

ここで使徒言行録が描いているのは、もちろん、経済的な貧しさの問題です。その点について、わたしたちは、完全な平等と言うことまでは言えないにしても、社会の制度も含めて考えれば、貧しい人がいないようにするためのそれなりの努力をしていると、あるいは政治にそのことを求めていると、言うことができるでしょう。けれども、わたしは、御言葉が「一人も貧しい人がいなかった」ということの意味は、ただ経済的な貧しさの問題だけではないのだと思うのです。

信じた人々の群れは心も思いも一つにしていたと、この箇所の描写は、始まっていました。わたしたちは、教会という群れの営みの中に招かれて、この群れに連なって共に歩んでいます。その歩みの中で、たとえば日曜日に教会の礼拝に集ってきて、貧しさを心に覚えて帰って行くという経験を、することがあるかもしれません。心が虚しさを覚えて、教会から帰っていくのです。そういう経験をしたときのことを想い起こすならば、それは、決して、教会に来たことで自分の経済的な貧しさを痛感した、というような経験ではないと思います。そうではなくて、共に教会に集っていた人たちの一人でも二人でも、その信仰の仲間と、心の分かち合いをすることができないまま家路につくとき、思いの共有をできずに帰らざるを得ないとき、そういうときにこそ、わたしたちは、痛烈な心貧しさ、心虚しさを覚えないではいられなかったのではないでしょうか。

教会は、一つの共同体と呼ばれます。共に生きていく群れです。時代や社会の状況によっては、教会は経済的な点でも共に生きていく一つの共同体として立つことがあるかもしれません。しかし、そういう時代や社会でなくても、わたしたちは、なお、共に生きていく共同体であること、貧しい人が一人もいない、心貧しいままで、心虚しいままで帰る人が一人もいない、共に生きていく喜びを分かち合える群れとして、絶えず新たに成長させていただきたいのです。

今日、わたしたちの教会に、この礼拝に集った者の中に、一人も貧しい人はなかったと、そのように主におっしゃっていただける群れとして立たせていただきたいと思います。今、一人ひとりが大胆に勇気をもって踏み出す一歩を、主にお示しいただき、主に押し出していただき、その歩みを進めたいと願います。

 

祈り  

主よ。招かれて共に生きるようにとされている御業を信じ、感謝します。なお御心に適わぬ歩みを重ねる私どもを、清め、新たにしてください。アーメン