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主日礼拝説教祈りの成長

日本基督教団藤沢教会 2009712

12彼は、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を伸ばした。13境内の中央に縦五アンマ、横五アンマ、高さ三アンマの青銅の台を造らせてあったので、ソロモンはその上に立ち、イスラエルの全会衆の前でひざまずき、両手を天に伸ばして、14祈った。「イスラエルの神、主よ、天にも地にもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、15あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを、今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。16イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕、父ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの律法に従って歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を絶たず、わたしの前から消し去ることはない』と。

17イスラエルの神、主よ、あなたの僕ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。

18神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。19わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。20そして、昼も夜もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが御名を置くと仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。21僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。…」
                 
(歴代誌下 61221) 

1そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。2王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。3これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。4神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。5神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。6この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。7わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。8だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。         (テモテへの手紙一 218)
            

7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。8だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。9あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。10魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。11このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。12だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 
             
(マタイによる福音書  7712)


求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい

主日聖書日課として定められている御言葉の中から、通例では旧約と新約から一箇所ずつを朗読していますが、今日は、新約からは、使徒書とともに福音書の御言葉も朗読いたしました。主イエスの山上の説教の中の一部ですが、その中でも、特に良く知られた教えの箇所であろうかと思います。

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(マタ7:7)

わたしのように文語訳聖書に直接親しんだことのない者でも、ここの箇所は、「求めよ、さらば与へられん」という文語訳のほうが、親しみを感じます。恐らく、世の中で広く格言の一つとして語られる文語訳のこの言葉を耳にするからでしょう。それほど、良く知られた御言葉の一つです。

そういう御言葉ですから、皆さんは、もしかすると幼い頃から何度も、この御言葉の説きあかしを聞いてこられたのではないかと思います。あるいは、もしも、今日初めて、この主イエスの山上の説教の御言葉を耳にしたという方がいらっしゃっても、ここで主イエスが語られている言葉を素直に聴かれたならば、これ以上、説教者が何某かを付け加えて語る必要を感じられないのではないかとも、わたしは思います。それほど、ここで語られていることは明瞭です。素朴に神に祈り求めること。いやむしろ、神を求めて祈ること。そのことに対して、天の父なる神は、良い物をもって必ずお答えくださるだろうと、主イエスがお約束くださっているのです。

そういうことですから、わたしは、この御言葉の告げるところを、今、まず遠回りしないで素直に、皆さんが、そのまま受けとめて、あらためて心に刻み直していただきたいと思うのです。

そうしてくださっていることを前提にして、今日は、少しおかしく聞こえるかもしれませんが、ちょっと違った視点から、この御言葉を思い巡らさせていただきたいのです。

求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。

この日の礼拝の備えの中で、主イエスがそのようにお告げになられているのを繰り返し聴き直しながら、わたしは、自分が説教者として説教壇に立つときに、いつも、あることを求め、探していることに気づかされました。会衆席に座っている皆さんを見渡しながら、「教会員のあの方は来ていらっしゃるだろうか」とか、「求道者のあの方は、今日はどこにいるだろうか」とか、そういうことを、説教を始めるまでの間に、一所懸命考えているのです。もしかすると、礼拝者の一人としての姿勢ということから言うならば、少し不謹慎なことなのかもしれません。「人のことに気を取られていないで、もっと、神を賛美し、御言葉の朗読を聴くことに集中すべきだ」とお叱りをいただくならば、それも、もっともだと思います。しかし、今は、そのことをひとまずお許しいただきたいのです。と言うのは、この御言葉が、説教者として説教壇に立つ自分の姿に思い至らせるばかりか、説教者としてもっと積極的にそのような姿勢で説教壇に立つべきことを示しているように、わたしには聞き取れたからです。

説教者として語ることを委ねられている者にとって、なかなか克服できない戦いがあります。それは、「説教によって人を裁かない」という戦いです。説教者の誰でもがそうだというわけではないでしょうが、わたしは、いつも説教の準備の大半をこの戦いに費やすのです。「説教によって人を裁かない」。どうか、わたしが説教を語ることによって、皆さんのお一人でも「裁かれた」と受けとめられる方がいらっしゃったら、お赦しいただきたい。なぜなら、「説教によって人を裁かない」というのは、単にわたしの説教者としてのポリシーというようなものではなく、主イエスのお命じになられていることだからなのです。その、主のご命令が、今日、先ほど朗読した御言葉の前段で語られています。

「人を裁くな。」(マタ7:1)

このご命令に続いて、主は、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」とお命じになられている。そのことに思い至らされる中で、わたしは、「主が説教壇に立つ者に対して、いったい何を求めるようにおっしゃっているのだろう、いったい何を探すように、どこの門をたたくようにと、おっしゃっているのだろう」と思わないではいられなくなったのです。

「あの人を求めなさい。あの人を探しなさい。あの人の門をたたきなさい。」

主が、わたしに対して、人を探し求めるようにと、お命じになられている。人を訪ね求めるようにと、お命じになられている。そのような者として説教壇に立つことを、お命じになられている。いや、ただ説教者に対してだけでなく、すべてわたしたち礼拝に集う者に、そのことをお命じになられているのではないか。

そのような御言葉として、この箇所を聴かずにはいられなくなりました。

 

人のために祈る

今日の使徒書の御言葉は、使徒パウロが若き伝道者テモテに宛てて伝道者としての心得を記した手紙の一節でしたが、そこで、パウロはこう記しています。

そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。(Tテモ2:1

パウロは、すべての人々が救われて真理を知るようになることを神が望んでおられるから、伝道者は、まず何よりも、すべての人々のために祈るのだというのです。ただ教会員や親しい者、家族の者たちのために祈るようにと勧めるのではありません。そのような近くにいる者たちのために祈るのは当然として、王たち高官たちのためにも祈るべきだと言うのです。

もちろん、パウロがこのように言っているからといって、文字通りすべての人々のために祈るということを実践できていたということではないでしょう。全市民の、全国民の、全人類の、住民台帳を繰りながら、すべての人を一人残らず祈りの対象にするというような、機械的なことを考えているのではない、ということです。そうではなく、彼は、自分たちが知りうる「あの人」「この人」を探し求めていくこと、キリストのもとに誘うために訪ね求めていくことを、若き伝道者テモテに教えようとしているのではないでしょうか。

そして、それは、ただパウロの伝道者としてのポリシーということではないと思うのです。主イエスの御言葉として聴いたご命令によって、パウロは、そのような「あの人」を探し求めていく祈りの姿勢、「この人」をキリストのもとに誘うために訪ね求めていく祈りの生活を、導かれていたのに違いありません。

わたしは思うのです。そのように命じられていることは、実は、だれよりも主イエスその方の姿勢に他ならないのではないか。

人を裁くな」と命じられた主イエスは、確かに厳しい言葉をもってわたしたちに迫ってこられる方でもあるけれども、同時に、罪深い一人に対して「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハ8:11)とお告げくださる方でもありました。「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と命じられた主イエスは、確かに、迷い出た一匹の羊を捜しに行かれて、その一匹の見つかることをお喜びになられるような方でありました。

主イエスがそのようなお方であるからこそ、わたしたちは、招かれて教会に連なるようにされた者として、主に倣って、「あの人」を求めないではいられないのではないでしょうか。「あの人」を探さないではいられないのではないでしょうか。「あの人」の門をたたかないではいられないのではないでしょうか。そのようにして、「あの人」のために祈らないではいられないのではないでしょうか。

 

清い手を上げて祈ろう

使徒パウロは、テモテに宛てた手紙の今日の箇所の終わりで、「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです」(Tテモ2:8)と勧めています。手を上げて祈るというのは、ソロモンの祈り(代下6:12)でもあるように、古い時代からの祈りの姿勢です。手を差し出すように上げて祈るこの姿勢は、まず何よりも、神に対して空の手を差し出して、神からの恵みをいただく者であることを示す姿勢でありましょう。しかし、ある人は、この手を差し出す姿勢は、神の恵みを受け取る者の姿勢であると同時に、相手を迎え入れる姿勢でもあるのだと教えています。

わたしたちは、「あの人」を探し求めて、祈ります。「あの人」を訪ね求めて、祈ります。怒りや争いの思いを捨てて、清い手を上げて、「あの人」のために祈る。「あの人」を通して神が恵みを注いでくださることを信じて、また、「あの人」を迎え入れることを願って、「あの人」のために祈る。そのような祈りを、わたしたちは祈る者となるようにと、教えられています。

そのように求めて祈るわたしたちに、天の父は、必ず良いものをくださると、主イエスは、わたしたちに約束してくださっているのです。

 

祈り  

主よ。求めさせてください。探させてください。門をたたかせてください。清い手を上げて祈る者とならせてください。あなたがそうなさったように。アーメン