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主日礼拝説教「生き方の変わる聞き方」 日本基督教団藤沢教会 2009年7月19日 1主からエレミヤに臨んだ言葉。 2主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。 「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。3イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。4主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。5‐6この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。7そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。8しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。9盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、10わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。11わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。 12シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。13今や、お前たちがこれらのことをしたから――と主は言われる――そしてわたしが先に繰り返し語ったのに、その言葉に従わず、呼びかけたのに答えなかったから、14わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、わたしはシロにしたようにする。15わたしは、お前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちをわたしの前から投げ捨てる。」 (エレミヤ書 7章1〜15節) 15「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。16あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。17すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。18良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。19良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。20このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」 21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。22かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。23そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 24「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。26わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。27雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」 (マタイによる福音書 7章15〜27節) 良い実を結ぶために 今日はじめて教会にお出でになられた方がいらっしゃるならば、もしかすると、この礼拝で朗読された聖書の御言葉を聴かれて、「キリスト教会の礼拝というのは、ずいぶん耳障りの悪い教えを聞かされるのだなあ」と思われた方があるかもしれません。旧約聖書から朗読されたエレミヤ書の御言葉も、新約聖書から朗読されたマタイ福音書7章の御言葉も、ある種とても厳しい警告の言葉、断罪の言葉として聴くことができるからです。 今日の御言葉に対するそのような印象は、毎週日曜日ごとに礼拝に通い続けていらっしゃる信者の皆さんにとっても、似たようなところがあるかもしれません。耳障りの良い御言葉ではない。預言者エレミヤの語る警告の言葉。主イエスの語られる警告の言葉。どちらも、だれよりも信仰者に向けて語られた警告です。それも、誰か他の信仰者が道を踏み誤っているから、巻き込まれないように警戒しなさいというだけのことではない。むしろ、信仰者であるあなた自身が、道を踏み誤らないように、いや踏み誤っているならば、悔い改めて立ち帰るように、と諭されている。そういう、他人事では済まされないところのある警告が告げられた御言葉なのです。 けれども、わたしは、今日初めてという方にも、また信者の皆さんにも、同じように申し上げたいのです。ちょっとひねくれた言い方かもしれませんが、このような、厳しい、断罪されているように聞こえる御言葉こそ、本当に喜んで受けとめていただきたい。なぜなら、こういう厳しい御言葉の中でこそ、神のわたしたち人間に対する大きな期待というものを知ることができるからです。災いから遠ざかり、神の与えてくださるところに平安に生きながらえる者となるように、という期待です。あるいは、主イエスの、わたしたちに対する熱意というものを知ることができるからです。わたしたちの人生を本当に実り豊かなものにしてくださろう、という熱意です。 わたしたちは、自分の人生をいい加減に考えたりはいたしません。「どうにでもなれ」「どうなってもよい」と、破れかぶれになることも、もしかすると人生の途上であることかもしれませんが、しかし、そう考えるときがあるとしても、生まれたときから変わらずそうだというような人間はいないでしょう。自分の人生を良い実りで満たしたい、少なくとも人生の終わりには良い実りを結ばせたいと、わたしたちはだれでも望んでいるものです。 ところが、そういう望みが、確かに実現可能な望みなのだという確信をだれもが持てているかというと、決してそうではありません。むしろ、この時代の中で、そういう望みを抱き続けることができなくなっていく人たちが、少なからずいらっしゃる。望んでいるのに、望み得ない現実を突きつけられてしまう。そういうところに置かれてしまっている人たちが、どれほど多いことかと思います。いや、わたしたちも、ときにそのような、望んでいることを望み得ないという絶望の思いにとらわれてしまうことのある者です。自分では、自分の望みを、望みとして保ち続けられなくなってしまうことがある。それが、わたしたちの現実なのです。 だからこそ、皆さんに知っていただきたいのです。わたしたちが自分では望みとして保ち続けられなくなってしまうことのある望み、人生に良い実りを結ばせるという望みを、しかし、わたしたちでなく、神が、望んでいてくださるということを。キリストが、わたしたちの望みを保ち続けられるようにと、熱意をもって、今も、わたしたち一人ひとりに働きかけてくださっていることを。このことを、わたしたちは、すべての人に知ってもらいたいし、信じていただきたい。 主イエスの教え 主イエスは、わたしたちに、たくさんの御言葉を残してくださって、わたしたちの生き方を示してくださっています。わたしたちが、人生に良い実りを結ばせるという望みを、絶望に終わらせてしまうことがないように、わたしたちの生き方、生きる道を、主イエスは、懇切丁寧に、お教えくださっている。それを、わたしたちは、日曜日ごとの礼拝でも、また日々の信仰生活の中でも、繰り返し、学び直しています。皆さんが、日曜日ごとに礼拝へと招かれて集ってくださり、ここでご一緒に主の教えを学び直せることは、何と幸いなことかと思います。 「でも…」とおっしゃられる方がある。「でも、わたしは、何度、聖書の教えを学び直しても、最近は、右から左へとどんどん抜けていってしまって、ちっとも身につかないし、信仰が成長しているようには思えない」。ときどき、そのような愚痴とも嘆きとも、あるいは言い訳とも思えることをおっしゃられる方があります。 確かに、聖書の中の主イエスが直接お教えくださっていることだけでも、それを実践できるように身に着けるというのは、わたしたちには至難の業です。せめて、山上の説教の教えだけは、行動規範として守ろうという実践が、古来、キリスト者たちの間で行われてきましたけれども、それとても、なかなか十分にできるようになるわけではありません。ですから、人によっては、もう、主イエスの教えの一つだけに絞って、「自分は、キリスト者として、この一点だけを生涯かけて実践していく」と決めて行かれる方もある。そういう生き方もあるのかな、と思うことがありますけれども、しかし、考えてみれば、それは随分都合のよい話です。キリストの教えの中から、自分の考えに合うところだけ選んで、実践しようと言うのですから、そうすると、それはキリストの教えというよりは、自分の教えということになってしまうのではないでしょうか。 むしろ、こういう考えをめぐらしてしまうことが、どうも、主イエスのお考えから離れてしまっているということかも知れません。主イエスは、わたしたちが、「自分はあのことを実践できました、このことも実践できました」と報告することができても、少しも評価なさらないというのです。わたしたちの実践が、どれだけできているかということを採点して評価しようとなさるのでなくして、こうおっしゃられるのです。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」 天の父の御心に触れて… 主イエスは、もちろん、ご自分がお教えになられたことを、わたしたちが、一つひとつ実践できるようになることをも、望んでいらっしゃるのでありましょう。けれども、それを実践したという結果よりも、もっと重要なことがある。主の教えの実践を、何よりも天の父の御心を尋ね求める者として行う、ということです。 わたしたちは、幼かった頃、両親が有無を言わさずに「こうしなさい」と命じられることがたくさんあります。そのときの親の思いというものが、段々分かるようになってきます。成長するに従って、だんだん分かるようになって、親の言うことを素直に受けとめられるようにはなります。それが、自分が親になってみると、理解の程度が、ずっと深くなります。親の思いというのはこういうものだと、不十分ながら、分かるようになるのです。 わたしたちは、天の父なる神の御心というものを、もちろん、本当には分かり切ることはできないでしょう。わたしたちは人間であり、天の父は神なのです。わたしたちが十分に理解し選るだけの存在であったら、神とは言えません。そういう意味では、わたしたちは、天の父なる神の御心を、十分に理解できるようになることは、いつになっても、ないでしょう。けれども、一つの理解を深める道を、主イエスは、わたしたちのために拓いてくださったのです。 それは、「神の子」として「天の父なる神」の御心に触れる、という生き方です。神の御子イエス・キリストが、天の父なる神の御心に触れ続ける生き方を、わたしたちに先駆けて、実践して見せてくださったのです。その生き方に従うようにと、わたしたちを「神の子」としてくださる道を、拓いてくださったのです。 それは、どういう生き方なのでしょう。主イエスは、ひたすら神の御言葉に耳を傾ける、与えられた御言葉を深く聴き取る、そして、その御言葉の背後にある父なる神の御心にまで触れていく、ただそれだけのことに徹することを、実践してお見せくださった。しかしまた、そのような御言葉に深く耳を傾けて、父なる神の御心にまで触れていくという実践こそが、主イエスのご生涯のその他すべての実践をも生みだしたものであるということを、わたしたちは教えられます。 人の言葉には、真実の力を認められない時代に生きているかもしれません。しかし、だからこそ、わたしたちは、何よりも天の父の御言葉に触れること、御言葉にこそわたしたち人間を造りかえるほどの力があることを認めるのです。そのことを、主イエスのご生涯の事実のゆえに、信じるのです。信じることができるのです。 わたしたちは、変えられます。わたしたちに良い実りを結ばせようと望んでくださっている天の父なる神の御心によって、その御言葉によって、わたしたちは、常に、良い実りへと、豊かな実りへと、新しく造りかえていただけるのです。 祈り 主よ。御言葉に深く聴く者とならせてください。御父の御心に確かに触れさせてください。御心のゆえにこそ、良い実りを結ぶ者とならせてください。アーメン |