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聖霊降臨節第9主日礼拝説教「あわれみの器」

日本基督教団藤沢教会 2009年7月26日

1主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、2 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。3アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、4神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。5息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。6 サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を 共にしてくれるでしょう。」7サラはまた言った。「誰がアブラハムに言いえたでしょう サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました 年老いた夫のために。」8やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。9サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、11 アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」11 このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。12神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。13しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」14アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。15革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、16「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。17神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。18立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」19神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。20神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。21彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。  (創世記21章1〜21節)


19ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。20人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。22神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、23それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。24神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。25ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。26『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」27また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。28主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」 (ローマの信徒への手紙9章19〜28節)


 多くの学校・幼稚園が夏休みに入り、私たちの教会の教会学校も2泊3日の夏期学校を控えて準備が進められています。この夏、神学生は全国各地の教会に夏期伝道実習に遣わされています。私の出身の神学校、東京神学大学では、実習に出かける神学生を励ますために特別礼拝を持ち、礼拝の後で夏期伝壮行愛餐会なるものを催します。何処どこの教会へ行ってきます、という挨拶をし、遣わされた地で夏を過ごして帰って来ると、今度は報告の愛餐会がもたれます。私たちの群れからも、学部4年生の神学生がこの夏初めての夏期伝道実習に遣われていきましたが、私たちもまた恵みの報告を期待しながら、一か月間の学びと訓練をおぼえて、この地で祈りを合わせてまいりましょう。また、実習学年でない神学生、特にこの夏、最終学年を迎え、派遣に備える神学生の歩みが守られるよう、おぼえたいと思います。東京神学大学は、学内に学生寮が備えられています。夏は、隣接する国際キリスト教大学の森の方からものすごい湿気がやってきて、除湿機をつけても湿気が抜けません。ひどい日には、湿気で廊下が濡れて、滑って転ぶような、そういう環境です。夏は特にたくさんの虫が現れます。"G"と呼ばれる虫。「ゴキブリ」です。ゴキブリさえも、神のお造りになったものであることは、疑いのない事実なのですが、ゴキブリを受け入れたくない、と思われる方は少なくないのではないかと思います。ゴキブリだけでない、私たちはそういったものに、色々な場面で出くわします。神の創造は、決して人の手の届かない星や皆既日食といった私たちを魅了する美しいものから、私たちが厭うもの、できることなら出会いたくないものにまで広く及んでいます。貴いものだけない、貴くないものの中にさえ、私たちの神によらないものは何一つ存在しないのだと、聖書は教えています。私たちは、頭の中で神の創造をわかっているような気にはなっても、なかなかそのすべてを受け入れられない思いを、しばしば抱いてしまう者です。受け入れたようなつもりで、今度は、自分自身の負の部分を神のせいにしてしまう。神さま、あなたは造り主なのだから、責任を取ってください、私に自由はないのだから、とつぶやきます。


 本日語られた聖書の言葉は、そういった私たちのつぶやきに対し、厳しく問い返します。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」(20節)手紙の書き手である、使徒パウロがここで言っている焼き物師のたとえは、旧約の預言者の中にしばしば登場する表現で、この焼き物師と器の関係は、神と、人間の不可逆の関係を主張する場合に用いられるたとえです。神と人との間には、決定的な差異があるのだ、ということです。しかしそれは、冷やかな差異ではありません。粘土から器を手作りする、焼き物師の一方的な労苦や愛情を思わせるものです。先週、組会があり、一人の姉妹のお宅をみなさんでお訪ねいたしました。そこで、その方が「家宝」とおっしゃるものをお見せくださいました。お見せいただいたというか、皆で使わせていただいたのです。それは木から彫り出された、手造りのスプーンでした。お造りになった方との関係において、特別に大切にされているスプーンなのですが、それにしても時間をかけた丁寧な仕事の跡がうかがえるものでした。「大切にしまっておこう。」そうすると、その造り主に当たる方は、「使わないなら返してください」とおっしゃったそうです。造られた器は、造られっぱなしではなく、ただ飾られるものでもなく、用いられねばならないのです。ある器は貴いことのために、ある器は貴くないことのために。創世記2章には、粘土をこねて人を形づくる創造主の物語が描かれています。「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」(創2:7)神は、そうして生きる者となった人を、楽園に住まわせ、自由を与えました。「園のすべての木から取って食べなさい。」(創2:16)これが造り主の愛です。しかし神は、「ただし」と付け加えます。「ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創2:17)越えられない線があります。アダムとエバは、その線を一方的に破ってしまう、これが創世記3章の堕罪の物語です。神に対する背きが入り込み、その背きゆえに、人は、原初のときから、神の御前に「怒りの器」となりました。


 この地上の時間の中では、皆が「怒りの器」であります。神の前に罪のない人は、一人もないからです。神はお怒りになられますが、それは神の愛からくるものです。しばしば言われることですが、旧約の神は、裁く神、怒りの神であり、新約の神は愛の神である、と神が全く別の二つの人格をお持ちのように語られることがあります。しかし神は、二人ではなく、二つの人格でもありません。一方を憎み、もう一方を愛する神、一つを貴いことの器とし、もう一つを貴くないことの器とする神は、唯一の誠実な愛をお持ちの方であるのです。


 本日の手紙には、「怒りの器として滅びることになっていた者たち」(22節)と「憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たち」(23節)という人々が出てきます。これは、異邦人と神の約束の民であるユダヤ人を表す言葉でありますが、この言葉は、滅びと救いに定める神の固定的な計画ということを強調しているものではありません。むしろ神のみが、私たちの命に決定を与えうるお方であるということを私たちは聞き取って行きたいのです。本日示された旧約、創世記21章のアブラハムの物語は、まさにそのことを語っています。イスラエルの父祖アブラハムは、妻サラとの間に、長い間子が与えられず、召し使いであったハガルとの間に子をもうけます。そのことは、不妊であった妻サラが望んだことでしたが、サラは、時が経って、アブラハムとの間に息子イサクが与えられると、ハガルとその息子イシュマエルを追い出してしまうようにと、アブラハムに言いました。「あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(創21:10)そうして、ハガルとイシュマエルは、アブラハムの家を去らねばならなかったのですが、しかし、神の守りは、約束の子イサクばかりでない、イシュマエルにまで及んだというところが、本日の朗読でありました。「あの女の息子も一つの国民の父とする」(13節)という御言葉の通り、イシュマエルは、アラブ人の祖先になったと言われています。神の恵みは、この人間関係の拗れにもかかわらず、断絶されることはありませんでした。


 神はこのようにして、イスラエルに対する約束にもかかわらず、約束の子でない異邦人に救いの手を差し伸べ、イスラエルをかたくなにしました。しかしまた、イスラエルの不信仰にもかかわらず、神は、この民をお見捨てにはならないのです。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。 『あなたたちは、わたしの民ではない』 と言われたその場所で、 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(25〜26節)神は、憐れみを自由に注がれます。不信仰な者であっても、信じる者となること、そして信仰を得た者もまた、絶えず信仰が問われているのだと、パウロはこのイスラエルに関する記述を通して語っています。神の怒りは、その愛のためであります。そしてその怒りが愛から来るものであるゆえに、全く煮え切らないような帰結が起こります。神は忍耐し、あわれむ、と言うのです。怒りによって、滅ぼすのでなく、行き着こうとしている滅びから、立ち戻るようにと、忍耐強く、待たれると言います。私たちでない、他でもない神が、あわれむことを待っておられるのです。怒りでない、あわれみを注ぐことを待っておられるのです。


 怒りの器でしかない者が、あわれみの器に変わるとは、どういうことでしょうか。逆立ちしても、花びんは花びん、ゴミ箱はゴミ箱、器は変わらないのではないでしょうか。器は、変わらないのです。けれども、器の中に新しいものが注がれる。器は、霊において生まれ変わるのです。それは何となく、目には隠されたこととして起こるのではありません。「洗礼」という水と霊の注ぎによって、私たちの間に確かなこととして起こるのです。「洗礼」は、器の再創造と言ってもよいと思います。この地上の時間において、怒りの器にすぎなかった私たちが、「洗礼」により、永遠なる神のものを継ぐものとされます。私たちの心の深いところに、聖霊、神の命の息吹が吹き込むのです。聖霊の注ぎを受け止める私たちは、もはや木偶の坊ではありません。神のあわれみの生きた器です。


 私たちは、神のあわれみの器として、自らに何を期待できるでしょうか。洗礼を受けていらっしゃらない方も、神のあわれみを受けることによって何が期待できるか、考えていただきたいのです。先の主日の午後に、私たちは一人の姉妹の藤沢での歩みを記念する追悼礼拝を行いました。この礼拝で歌った「信じて仰ぎみる」という讃美歌111番の節が、先週しばらく私の頭をめぐっておりました。「主の愛わきあふれ、祝福(さいわい)身に余る。過ぎにしわが日々は、すべて主のあわれみ。」と言う歌詞です。私たちの日々が、すべて、今も、主のあわれみなのだと、身に沁みて感じさせられる歌詞です。古い修道院の教えに、"Memento Mori"(メメントモリ)という言葉があります。<日毎に死をおぼえよ>という教えです。終わりを意識した時にこそ、今あることの大切なことに気づかされる、生かされていることの感謝に気づかされる経験をするのですが、私たちの日常には、娯楽があふれており、死を忘れさせるものがたくさんあります。しかしそれは、本当の幸いへの気づきを妨げるものであるかもしれません。しばしば、神のあわれみなしに生きているかのような錯覚にとらわれます。しかし私たちは、人生の大切な場面で自らの無力を告白せざるをえません。何もなしえない領域があります。私たちがたとえ元気であっても、知識や体力、財力があったとしても、強靭な精神力をもってしても、自分の命について、あるいは大切な人の命について何も、手を出せないという時がやって来ます。そういうとき、私たちはどうするでしょうか。私たちは、神に祈るのではないですか。祈りとは、愚かなことかもしれません。しかしその事態の只中で、祈る、静かに待つ、そういう私たちを、神は必ず見捨てず、あわれんでくださいます。「あわれみの器」とは、すばらしい器ではありません。私たちは、神のあわれみから本来遠い者でした。けれども、神ご自身の側から、私たちをあわれむことを望んでくださったのです。イエス・キリストによって神の子とせられ、あわれみ深い神に「父よ」と呼びかけ、祈る幸いが与えられました。私たちは、喜んでこのあわれみに応えましょう。神の深いあわれみがまた、私たちに与えられた大切な人たちに行きわたるように、ご一緒に祈り願いましょう。