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平和聖日礼拝説教「和解のための奉仕に生きる」
日本基督教団藤沢教会 2009年8月2日
1「さあ、我々は主のもとに帰ろう。 5:11主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。12わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。13わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。14なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。15その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
16それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。17だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。18これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。19つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。20ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。21罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
6:1わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。2なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」
と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 (コリントの信徒への手紙二 5章11節〜6章2節)
平和を祈る
日本基督教団の行事暦の習慣に従って、毎年8月の第一日曜日もしくは第二日曜日に「平和聖日(あるいは平和主日)」の礼拝をささげるということをしてきました。この国が過去に犯してきた過ちを振り返り、悔い改めつつ、世代を超えて平和のために祈り続ける教会として歩んでいこうという、先輩信仰者方の思いを、受け継いでいく。そのような教会の取り組みであるといってよいでしょう。
今日がその「平和聖日」に当たる主日ですが、今年は、一つの試みとして、8月を「平和月間」として、一ヶ月を通して礼拝を整えていくことにいたしました。ただこの主日だけを「平和を祈る日」として礼拝を整えるのではなく、一ヶ月の歩みの中で、共に「平和を祈る」ということに取り組んでいきたいと願ったのです。そのような取り組みとして、今わたしたちが共に集っている主日礼拝は、今日からの三週間を、少し特別な礼拝順序で執り行うことになりました。通常とは違う特別な祈りや讃美などが含まれていることに、お気づきだと思います。戸惑われる方もあるかもしれませんが、三週間、ここで特別に行おうとしている一つひとつを、じっくりと味わいっていただきたいのです。
平和を祈る。そのことを、わたしたちは、もちろん、8月という季節を迎えなくても、また、「平和聖日」でなくても、いつも祈りの中に覚えています。《平和》という言葉を用いないとしても、先ほどご一緒に祈った「平和の祈り(フランチェスコの祈り)」にあるような言葉を用いて、わたしたちは、いつでも《平和》を祈っている。《平和》を祈ることこそ、わたしたちの祈りの中心になっている。そのように言ってもよいのだと思います。けれども、そうであるにしても、わたしは、ときどき、自分の祈りにしろ、他の方の祈りにしろ、その祈りの言葉を心に刻みながら、混乱した思いを抱かざるを得ないことがあるのです、「この祈りは、本当のところ、一体全体、どんな《平和》を願っているのだろうか」、と。
主イエスがお生まれになられたのは、ローマ帝国が権勢を誇り始めた時代ですが、そのローマ帝国の支配が極めて安定した一〜二世紀ごろの時代を、特に《ローマの平和(パクス・ロマーナ)》と呼ぶことがあります。強力な軍事力を背景にしてということでありましょうが、地中海世界全体が社会的にも安定する中で、「この平和はローマの支配のおかげだ」という意識が、人々の間でも広がっていたということです。その《ローマの平和》ということが言われた時代に、新しい歩みを芽生えさせたのが、わたしたちが連なるキリスト教会です。それは、《ローマの平和》とは裏腹に、教会にとっては、迫害に耐える、信仰の戦いの時代でした。そのような時代に少しずつ形を整えていった礼拝の形式の一つが、《平和の挨拶》です。復活された主イエスが弟子たちに「あなたがたに平和があるように」(ヨハ20:21等)と告げられたことが元になっているのでしょう。古代教会のキリスト者たちは、「主の平和」という言葉と共に《平和の挨拶》を交わすことを大切にするようになったのです。
世の中で「ローマの平和」が謳歌される時代に、教会は、「主の平和」「神の平和」「キリストの平和」を、自分たちの立つところとしました。だからこそ、教会は、礼拝の中に《平和の挨拶》として覚え続けてきたのです。わたしたちの教会には、礼拝の中で《平和の挨拶》を交わすという習慣は、必ずしも受け継がれてきたとは言えませんが、しかし、今また、それを再び礼拝の中に取り戻そうともしています。それは、儀式・形式を増やそうということではないのだと思います。わたしたちキリスト者の立つ《平和》は、どのような《平和》なのか。それは、《ローマの平和》ではない。《世界の平和》でもないし、《国家の平和》でもない。わたしたちの立つ《平和》は、《主の平和》なのだ。《神の平和》、《キリストの平和》なのだ。そのことを、わたしたちは、あらためて自分の立つところとして確かめようとしているのだと思います。今、特に「平和を祈る」ということを覚えようとするときに、あらためて、そのことを心に刻み直したいのです。
「神と和解させていただきなさい」
《主の平和》。この言葉を、わたしは、数年前から、手紙などを書く際の冒頭に記すことが多くなりました。超教派の教役者方との交わりをいただくようになってから、教えられて、用いるようになったのです。電子メールを送る際にも用いることがありますから、最近は、《主の平和》という言葉を目にしない日はないほどです。この《主の平和》という枕詞を、最初は特に深く考えることもなく用いていました。けれども、最近、記すたびにではありませんが、この枕詞を記しながら、自分がどこに立って他者と接しようとしているのか、向き合おうとしているのか、そのことを深く問われているような思いになることがあるのです。
今日のコリントの信徒への手紙二の御言葉の中で、この手紙を記した使徒パウロが、こう勧めているところがあります。
「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(20節)
この直前では、パウロは、「神はキリストによって世をご自分と和解させ」(19節)られたのだと記しています。神が、キリストによって一方的に和解を申し出てくださっているから、あなたたちは、この和解の提案を受け入れて、和解をさせていただきなさい、というのです。
わたしたちすでに洗礼を受けた者は、言ってみれば、この神からの和解の申し出を受け入れたからこそ、洗礼を受けたのです。キリストによって神との和解の道を与えられていることを信じて、そのキリストと結びつく洗礼を受けることで、神と和解させていただいたわけです。
そうすると、パウロがここで勧めている言葉は、もうすでに洗礼を受けた者には、関係のないことでしょうか。パウロは、まだ洗礼を受ける決心に至っていない人に対して、「キリストによって、神と和解させていただきなさい」と勧めているということでしょうか。それは、もちろんそうでしょうが、しかしまた、パウロは、すでに洗礼を受けた者に対しても、このことを勧めているのではないでしょうか。実際、この手紙は、コリント教会の信者に宛てて書かれているのです。
なぜでしょうか。それは、わたしたちが、頭では神との和解ということを分かっていても、本当に神と和解させていただいた者として日々の生き方を整えていくという点においては、とても遅々とした歩みしかできない者だからではないでしょうか。「神と和解させていただきなさい」という勧めを、繰り返し聴き直して、自分の神との関係を修正し続けないと、わたしたちの立ち位置は、いつも狂っていってしまうのです。《神》のあるべきところに、いつの間にか別のものを置いて、自分の生き方を誤らせてしまうのが、わたしたちの現実です。《神》ではなく《自分》を、《神》ではなく《世間》を、《神》ではなく《世の権威》を、神の代わりに尊んで、そこに、自分の生き方の根拠を置くようにしてしまう。無意識のうちに、そのようにしてしまう。
「主の平和」という言葉を口にし、記すたびに、わたしは、そのような、《神》から離れようとしてしまう自分の姿に気づかされる思いを与えられるのです。「本当に、《主の平和》を望んでいるだろうか」、「本当に、神が実現してくださる平和というものに期待しているだろうか」、「本当は、自分が望んでいる平和の形を期待しているだけではないだろうか」。そのように自問しないではいられなくなるのです。それでも、だからこそ、わたしは、この「主の平和」という言葉を繰り返し口にし、記すことが、必要なことだと思わされています。
和解のための奉仕
多くの信仰の先達が、祈りこそ平和活動の基本である、ということを教えています。静かに、深く、祈りの内に身も心も沈める。そこで、自分の罪や過ち、人間の力の限界に気づかされ、神が為してくださることの確かさ、主が実現してくださることの豊かさに目を開かれていくときにこそ、敵対する相手とさえキリストのもとで一つに結び合わされるという真の平和、《主の平和》を、事実知るようになるのです。
わたしの拙い経験を語る必要はないでしょう。皆さんが、そのような《主の平和》を与えられる経験を、今まで、繰り返しなさってこられたはずです。そのことを、証しして語ってもくださるはずです。
ですから、わたしたちは皆、パウロが教えているように、《平和の使者》としての奉仕に召されていることを、今、覚えたいと思うのです。
「神は…和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。…わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。」
いまだ、「神と和解させていただきなさい」との勧告を聴き直さなければいけないわたしたちです。にもかかわらず、それゆえにこそ、繰り返し祈りへと立ち帰らせていただける。真の神の平和、《主の平和》の現実へと、道拓いていただける。隣人を、家族を、すべての人を、この道、《主の平和》への道へと導く《和解のための奉仕》に生きるよう、わたしたちは招かれているのです。
祈り
主よ。あなたと和解させていただくところに立ち帰らせてください。キリストの使者として歩み、主の平和への道を共々に歩む者とならせてください。アーメン
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